第10話 大空の屋敷へ

「使用人に荷物を運ばせる。必要な分をまとめておけ」


 大空に言われて、手早く荷物をまとめる。大して時間はかからなかった。普段から物を与えられていない星河には、数着の着替え以外に持っていく物がほとんど無い。


「荷物はそれだけか?」

「はい」


 新開家の屋敷の前に、一台の自動車が止まっていた。どうやら大空が久遠院家の使用人に手配させたらしい。星河は自動車に乗ったことがない。日華帝国全体を見ても自動車はまだあまり普及しておらず、そうそう見かけることもない。星河は緊張しながら後部座席に乗った。


 使用人の運転によってあっという間に久遠院の屋敷に着く。大空に連れられて玄関から入ると、何十人もの使用人が頭を下げながら星河を出迎えた。星河はびっくりして挙動不審になってしまう。


 使用人の中の一人が前に出た。老婆だが背筋をピンと伸ばしており、活力溢れる雰囲気は年齢を感じさせない。


「おかえりなさいませ、星河様。家政婦長の金子かねこ泰子やすこです。泰子とお呼びください」

「は、はい。新開星河です。よろしくお願いします、泰子さん」

「星河様には侍女の知世ともよをつけさせて頂きます。知世、挨拶なさい」


 知世と呼ばれた使用人も前に出てくる。こちらは星河と同年代ぐらいの若さだ。


堀江ほりえ知世ともよです。よろしくお願いします!」

「はい、新開星河です。よろしくお願いします」


 知世は明るい笑顔を浮かべていて話しやすそうな少女だった。少し安堵する。


「生活に必要なものは買ってやるし、金も好きなだけ使っていい。何か必要になったら泰子や知世に言ってくれ。今日は疲れただろう。ゆっくり休め」

「はい、ありがとうございます。あの、できれば大空様のご両親にも挨拶をさせて頂けませんか?」

「この屋敷は俺個人の物だ。普段住んでいる久遠院は俺だけだ」

「え? ええっ!?」


 星河は唖然とした。この大きな屋敷が、丸ごと大空個人の物だとは考えもしなかった。星河が驚いている間に、大空が知世に指示をする。


「知世、星河の部屋に案内してやってくれ」

「はーい!」

「よ、よろしくお願いします」


 知世に部屋までの道を教えてもらいながら歩く。前回来た時も思ったが、本当に広い屋敷だ。道を覚えるのに時間がかかりそうだった。


 用意された部屋もとても広い和室だった。てっきり複数人で泊まる部屋なのかと思ったが、知世に聞いたところ一人部屋らしい。床の間の美しい掛け軸や豪奢な家具などがあったが、星河はそれらには目もくれず、部屋の隅に置いてあった物に駆け寄った。


「わあ」


 美しい木目の碁盤だ。木目が細かく色合いに優れたかや製、間違いなく最高級品である。星河はさらに碁笥ごけを開いて感嘆の声を上げる。


「わあ、わあ」


 碁石も大変美しい。黒石は特定地域でのみ産出される粘板岩、白石は縞目が綺麗なハマグリ、どちらも丁寧な加工が施されている。試しに打ってみると、碁石はとても手に馴染み、碁盤からは美しい音が響く。


 打つ時の違和感が一切無い碁石と碁盤だった。違和感が無ければ雑念も生まれず、棋士の思考を妨げない。まさに最高級の一品と言える。


「尊い……」


 今日からこれで碁を打てるのだと思うと感動が胸の内を広がっていく。碁盤に頬ずりしたいぐらいだ。もしかしたら試験の時も同じ道具が使われていたのかもしれないが、あの時は大空と麗奈の対局に夢中になっていて気が付かなかった。


 碁盤と碁石に夢中になっていると、後ろからくすくすと笑い声が聞こえた。


「本当に囲碁がお好きなんですね」


 星河は頬が熱くなるのを感じた。知世がいるのを忘れてはしゃいでしまった、恥ずかしい。そんな星河に知世は笑いかける。


「どうです? 一局打ってみますか?」

「打てるんですかっ!?」


 日華帝国の囲碁界はそのほとんどが男性棋士で占められている。名家の出身ならともかく、一人の使用人が打てるのは珍しい。知世は得意気に胸を張る。


「久遠院家の使用人は全員囲碁が打てますよ。ある程度の棋力が無いと雇われないんです」

「すごい! 打ちましょう!」


 胸を躍らせながら碁盤と碁石を用意する。「その代わり」と知世はいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「一つ賭けをしませんか?」

「賭け……ですか?」


 星河は少しだけ警戒した。新開家の屋敷ではれい子が星河を嫌っているのは周知されており、中にはれい子の機嫌を取るために星河に意地悪をする使用人もいた。疑いたくはないが、会ったばかりの知世がこういう提案をしてくるのは怪しい。しかし、知世の言う賭けの内容は可愛らしいものだった。


「負けたほうは勝ったほうの質問に一つ答える、というのはどうでしょう」


 星河の緊張が緩む。それぐらいなら負けても大したことにはならないだろう。星河としても久遠院家の使用人に聞きたいことは山程ある。


「それぐらいなら……」


 と星河は快諾した。


 置き石のない互角の勝負、つまり互先では、先手後手はニギリによって決める。片方が白石を任意の数だけ手の中に握り、もう片方はそれが奇数か偶数かを当てるのだ。知世が白石を握り、星河は黒石を二つ碁盤に置いた。黒石一つで奇数、二つなら偶数の意味を指す。知世が置いた白石は十個、偶数だった。星河が当てたので先攻、つまり黒番を貰う。


 打ち始めると、知世は星河よりも高い棋力を持つことが分かった。こんな幸せなことがあって良いのだろうか。あとで他の使用人たちとも打ってもらおう。脳が溶けそうになるほどの幸福感を覚えながら、星河は対局に没頭した。


 対局は知世の中押し勝ちで終わった。互先は無謀だったと思ってしまう力量差だ。次からは二子ほど置かせてもらったほうが良いかもしれない。感想戦をしながら、知世の強さに感激したことを伝える。


「すごく強いですね、知世さん」

「ここで毎日のように囲碁を打ってますからね。星河様も中盤以降がお強いですね。この屋敷で打ち続ければ、あたしの強さなんてあっという間に抜いてしまうと思いますよ」

「本当ですか? 嬉しいです!」

「ふふっ、星河様、楽しそうに打つのでこちらも楽しくなってきます。打っている間も顔がにやけてましたよ」

「えへへ」


 久遠院家の花嫁らしく威厳を保ちたいところだが、顔のにやけが収まらない。ところで、と知世が目を輝かせた。


「賭けのこと、お忘れではないですよね?」

「あ、はい。なんでも聞いてください」


 知世が興味津々といった様子で身を乗り出す。


「大空様とはどこまでいったのですか?」


 星河は首を傾げた。どこまで、とはどういうことだろう? 振り返ってみると大空と会ったのは二回だけだ。一回目は花嫁選定試験、二回目は本日の買い物途中に新開家まで強引に連れて行かれた。だからどこまで行ったのかと聞かれたのなら。


「えっと、新開家まで一緒に行きました」

「もう、とぼけないでくださいよ! あの大空様が婚約者を自分で連れてくるなんて、使用人の間ではその話題で持ちきりですよ! もうキスはしたんですか?」

「キ、キスッ!?」


 ようやく大空との仲を探られているのだと気付いた。同年代の女の子と話すことも久しぶりな上に、内容は恋バナ。自分には荷が重いと思う反面、なんだかとても楽しい。それに、星河としても誰かに話したくて仕方がなかったのだ。


 壁に追い詰められて逃げられない状態で話しかけられてドキドキしたこと、強引に握られた手が熱かったこと、肩を抱き寄せられた時に大空の身体が逞しく感じたこと。れい子の杖から星河を守ってくれたくだりを話したところで、知世は「キャー!」と歓声を上げた。


「大空様、そんなこともするんですね! 星河様、それ本当に愛されてますよ!」

「そ、そうですかね」


 もちろん知世の言うこと全てを真に受けるわけではない。大空と星河はあくまで囲碁で繋がっている関係だと分かっている。それでも、大空のことを意識してしまっている自分に気付く。辛いところから自分を救ってくれようとした初めての人だから。


「それじゃあなおさら久遠院家に認められるように強くならなきゃですね! 大空様から星河様と対局するよう仰せつかっているので、使用人にはいつでも声をかけて頂いて構いませんよ!」


 知世の言葉を聞いて星河は気を引き締めた。そうだ、大空と一緒にいるためには、久遠院家に認められなければならないし、そもそも三ヶ月後に麗奈に勝たなくてはならないのだ。強くなりたいと、そう思う。星河は意気込んで再戦を申し出た。


「じゃあ早速ですが、もう一局打ちませんか?」

「はい、もちろんです。いくらでもお付き合いしますよ!」

「やった!」


 知世の言う”いくらでも”は常識の範囲内でのことだったのだが、星河は額面通りに”いくらでも”と受け取った。




 そして、夜中。


 眠気に目をこすりながら、知世が願い出てくる。


「あの、星河様? そろそろ就寝致しませんか?」

「もう一回、もう一回だけ打ちませんか?」


 そこには知世が帰ることを許さずに打ちませんかと繰り返し続ける、妖怪ウチマセンカの姿があった。

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