第7話 花嫁勧誘 その1

 大空そらと囲碁を打った翌日、星河は食事の買い出しのために出かけていた。れい子から食費は与えられているのだが、一人分の食費としてはだいぶ心もとない。そのため、安く食材を売ってくれるところまでいつも遠出している。


 民家が並ぶ通りを歩きながら、昨日のことに思いを馳せる。結局大空には一度も勝てなかったが、それが今の星河の実力ということだろう。六子置いた程度では到底敵わない。それでも。


「……楽しかったな」


 勝てなくとも、六年ぶりに打った囲碁はとても楽しかった。いつまでもこの時間が終わらないで欲しいと、本気で願ってしまった。大空に求婚されたのは驚いたけれども。


(俺の花嫁になれ、か。……冗談、だよね?)


 久遠院家は囲碁に強い花嫁を探しているとのことだった。星河のことを久遠院家が認めるとはとても思えない。囲碁は楽しいが、星河は自分が強いとは思っていない。現実として、父の遺言では義姉だけが囲碁を続けることを許され、星河は囲碁を禁じられている。囲碁の才能への期待値の差が、待遇として現れているのだ。


 実際に、大空との対局でもボロボロに負けてしまった。実際に星河と打った大空も、星河の才能の無さに気付いたに違いない。だから、星河をからかうつもりで求婚したのだろう。


 ひどい人だな、と思う。結局、麗奈への侮辱の件も謝ってくれなかったのも腹立たしい。麗奈が花嫁に選ばれなかったことで、昨日はれい子が荒れていて大変だった。れい子が麗奈に叱責しているのをただ怯えて見ていることしか出来なかった自分が悔しい。


 まあ、星河も花嫁候補としては不合格だったのだ。もう大空と会うことも無いだろう。


 そう思いながら曲がり角を右折したところで、当の大空が腕を組んで仁王立ちしながら待ち構えていた。


「ひっ」


 星河は小さく悲鳴を上げると、そのまま後ろに振り返り、足早に立ち去る。何だったんだろう、今の。偶然、星河が歩いていた道に大空がいたのだろうか? ともかく、昨日の今日で会うとは思わなかった。今日は別の道を使おう。


 そう思って別の路地に入ったところに、また大空がいた。


「ひえっ」


 来た道を戻って、別の道に入る。大空がいる。


「ひあっ」


 戻る、別の道、いる。


「ぴっ」


 偶然ではない。明らかに星河を待ち構えている。とてもこわい。星河は冷や汗をかきながら逃亡しようとして、その華奢な肩を大空がガシリと掴んだ。


「ひああああああっっ!」

「昨日の話、考えてくれたか?」


 昨日の話、とは大空の花嫁の件だろう。大空と話すことなど何も無い。星河はじたばた暴れて逃げようとするが、全く力では敵わない。


「はーなーしーてーくーだーさーいー」

「俺の花嫁になったら離してやるぞ」

「その件ならお断りしたじゃないですか!」


 まだからかい足りないのだろうか。星河が『日華無双』に不遜にも囲碁で挑んだのがよっぽど気に食わなかったに違いない。大空が手を離した隙に星河は逃げようとしたが、運動神経はあまり良いほうではない。モタモタと動いているうちに、あっという間に路地の塀に追い詰められてしまう。大空は壁に手を置いて星河が逃げられないようにすると、「話を聞いてくれ」と微笑みかけてきた。


 距離が近い。見目麗しい男に間近で話しかけられて、ドギマギして挙動不審になってしまう。日常のほとんどを家事手伝いとして屋敷で過ごす星河は、同年代の青年と話す機会がほとんど無い。昨日のように碁盤があれば誰が相手でも話せるのだが、今ここには何も無いのだ。


「何も本当に夫婦生活を強いるわけじゃない。ある種の契約結婚だと思って俺の花嫁になって欲しい」

「……契約、結婚ですか?」

「両親が強く望んでいるから花嫁を探しているのだが、俺自身は伴侶が欲しいわけじゃないからな。むしろ囲碁に向き合う上では男女の関係は邪魔になるとすら思っている。俺がお前に望むのは、夫婦として仲睦まじい姿を両親の前で見せることだけだ」


 星河は眉をひそめた。それならなおさら麗奈のほうが適任ではないか。星河と違って囲碁の才能があり、見た目も美しい。大空のご両親も麗奈が伴侶なら安心するだろう。何より、麗奈が大空と結婚できればれい子に叱責されることも無い。


「どうしてわたしなんですか?」


 真っ直ぐに大空の瞳を見つめて聞くと、大空は目を逸らした。理由を説明できないのは、やはりからかっているのだ。星河はさらに大空を追求しようとして、大空の頬が照れたように赤く染まっていることに気付いた。常に堂々とした態度の大空にしては珍しく、聞き取れないほどの声量で何かを呟く。


「……たから」

「え?」

「昨日の碁が、楽しかったからだ! お前となら夫婦も悪くないと、そう思った。お前はどうだったんだ? 楽しかったか?」

「それは……」


 楽しかった。ずっとこんな時間が続けば良いと、そう思った。想像してみる。大空と結婚して、あの屋敷に嫁ぐ。もちろん大空は忙しくて毎日は打てないだろうけども、たまの休日には二人で打ちながらゆっくり過ごす。それはきっととても幸せな日々になるだろう。星河の口元がほころんだ。


「楽しかった、です。でも」


 それでも星河は首を振った。囲碁の才能の無い自分を、久遠院家が認めることは無いだろう。夢を見すぎてはいけない。


「あの、ごめんなさい。わたし、やっぱり結婚はできないです」


 星河が静かに断ると、大空は見るからに沈んだ声を出した。


「……そうか。理由を聞いてもいいか?」

「わたしには、才能が無いから。久遠院家に嫁いだら、きっと迷惑になります」


 星河に才能が無いのは、義母に何度も言われた自明なことだ。しかし、星河のその言葉を聞いて、大空は憤ったように端正な顔を歪めた。


「才能がない? 誰がそんなことを言った?」

「その、新開家では父の遺言で、お義姉ちゃんだけが棋院に通っているんです。わたしには才能が無いから、囲碁の教育を受けさせるほどの価値が無いんだと思います」

「……なるほど。それが六年間囲碁を打っていなかった理由か。星河、お前は俺と同じだな。眩しすぎる才能は、時に周りを歪めてしまう」


 大空が星河の手を握ってきた。男の人の熱く大きな手に握られて星河は頬を赤く染める。


「行くぞ」

「行くって、どこにですか?」

「お前の家だ」


(えー!)


 大空は強引に星河の手を引くと、スタスタと歩き出した。

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