第6話 久遠院大空

 元々、久遠院くおんいん大空そらは花嫁探しには乗り気ではなかった。


 帝から『日華無双』の称号を賜って以降、より大きな棋戦へと参加できるようになった。久遠院家の名を背負う者として、抜きん出た実績を残さなくてはならない。勝つために己の全てを犠牲にする日々。勝つたびに身体が悲鳴を上げ、負けるたびに心が割れる音がした。始めは楽しくて始めた囲碁だったが、今はもう対局中に笑うこともない。


 はっきり言って、花嫁探しに時間を使っている場合ではない、というのが本音だ。それでも花嫁を探すことにしたのは、両親が強く望んだからだ。


 久遠院家の現当主の言葉は絶対であり、また大空としても両親の願いはなるべく叶えたいという想いがある。しかし、相手は自分で選びたかった。放置しておけば父親が用意した女、大空が望まない相手と婚約させられてしまう。公式戦の重圧に疲れが残る中、久遠院家の伝統に則って囲碁を打てる花嫁を探したのだが、これが難航した。


 まず、一日の大半を囲碁に費やす大空と同じ熱量を持つ女性はほとんどいない。そして、そういった熱量を持つ女性ほど、大空と一局打つと花嫁を辞退してしまう。大空と少し打つだけでも自身の弱さに絶望し、大空と一緒に歩いていく未来が見えずに辞退してしまうのだろう。囲碁を打つ者に取って、大空の才能は眩しすぎるのだ。


 何度か見合いに失敗したあと、大空は次に囲碁の名家から女性を集めて試験を行うことにした。花嫁の試験とは何様のつもりだ、と自分でも思うが、事は久遠院家の次代に繋がる話である。力を入れすぎるということは無い。


 それに、時間稼ぎとしての意味合いも強かった。これだけ頑張って花嫁探しをしましたが見つかりませんでした、という体にすれば両親もしばらくは煩く言わないだろう。


 結果的に、花嫁探しに集まった棋士は玉石混交だった。取るに足りない者もいれば、久遠院家の目に叶いそうな実力者も見つかった。特に、大空が作成した詰め碁に二人も解答者が出たのは意外だった。国家棋士でも三分で解くのは難しいであろう問題に、二人も正答者が出るとは。


 少しばかり期待しながら麗奈と打った大空は、すぐに落胆することになった。現時点での実力差にがっかりした訳では無い。そんなものは日々の努力で埋めていけばいい。しかし、勝とうとすらしていないのは別だ。


 麗奈の囲碁は、試験を乗り越えるための碁だった。失敗を減らして受けに回り、読み切れない箇所は冒険せずに細かく地を稼いでいく。失敗を恐れるような指し手は、勝利ではなく、見ている誰かの視線を意識しているような碁だ。


 麗奈自身も、そんな碁で勝てるとは思っていなかったのだろう。大空と打っているうちにみるみる青ざめていった。大空がよく知る光景だ。大空はただ全力を出して打っているだけなのに、対手は大空との実力差に絶望し、余分なことを考えて自身の力量を発揮できずに自滅していく。


「あれには才能がないな」


 麗奈が去っていったあとに発した言葉は本音だった。魑魅魍魎が跋扈する日華帝国の囲碁界では、実力が上の相手を殺す気概がなければやっていけない。何よりも大事なのは自身の実力を信じ切る勇気なのだ。


 だから、星河の言葉を聞いて笑ってしまった。


「この一局、わたしが引き継ぎます」


 六子の置き石による有利はほぼ無くなり、限りなく五分に近い盤面。その状況で『日華無双』の久遠院大空を討とうという気概。傲慢とも思える態度だが、しかし、この日華帝国の棋士としてやっていくのなら必要不可欠な才能を持っているとも言える。


「面白い女だな。やってみろ」


 大空は次の一手を手加減をしながら打った。置き石の不利を消すために無理矢理荒らした盤面は、実のところ白の急所が残っている。まずは星河がその一手を見抜けるかどうかで実力を見る。


 今この瞬間まで、大空は星河に一切の興味を持っていなかった。どれ、無謀にも俺に勝負をしかけた奴はどんな顔をしているのか、と星河を見て。


 ――その瞳には、全てを呑み込むような静謐な星の河が流れていた。


 星河が静かに黒石を置く。まるで何年も碁石を持っていなかったかのように拙く震える指先。しかし、置かれた場所は正しく盤面の急所に他ならない。星河が静かに笑みを浮かべる。楽しくて楽しくて仕方がない、そんな笑みだった。この久遠院大空を前にして、そんな態度を取る棋士は数えるほどしかいない。背筋がゾッとする。今、俺は何を相手にしている?


 大空の頭が全力で回転し、対手を斬り伏せるための一手を考え抜く。全力で打った二手目に、星河はまたしても食らいついてきた。大空は獣のように口角を上げた。この女の打つ碁には正しく殺意が宿っている。雑念など一切なく、俺を倒すためだけの意思が込められた一手。


 本当に面白い。全力で応えなければ礼儀に失する。真剣勝負のような集中力で、大空は星河を迎え撃った。


 これはどうだ。お前がそうするなら、俺はこうしよう。


 黒石と白石が互いに挑みあうような星空が紡がれていく。



 そして。


「こんな、馬鹿な……」


 圧倒的な大差のついた盤面を前に、大空は唸った。


「いくら何でも弱すぎる……。最初の一手はまぐれか?」

「いやー、全然ダメでしたね」


 星河は照れたように頬をかいた。


「あれだけ啖呵を切っていたのは何だったんだ? これなら麗奈のほうが遥かにマシだったぞ。やりたいことは分かるが技術が拙すぎる」

「勝てると思ったんですけどね。でも惜しい碁でしたよね? 引き継いだわたしが悪いのであって、お義姉ちゃんは悪くありません。だからさっきの言葉、取り消してください」

「負けたのに堂々と食い下がるなっ!」

「惜しいのは本当ですよ。ほら、ここですよね。ここでノゾキから入れば……」

「そこは白がツギ、そのあと……」


 星河が持つ独特の空気に流されて律儀に感想戦に付き合ってしまう。感想戦が一通り終わった後に続いた星河の言葉に、大空は絶句した。


「それじゃあ、もう一局打ちましょう」


 こいつは何を言ってるんだ? これは花嫁探しの試験だと言うことを忘れてるんじゃないだろうな……。


「……打たない。不合格だ。帰れ」

「あっ、不合格なのは別にいいんです。お義姉ちゃんを悪く言ったのは許してませんが、それはそれとして打ちませんか?」

「それはそれとして打ちませんか!? なんなんだお前本当に!」


 傲慢を通り越して不遜極まりない。呆れ返った大空を見て、星河は首を傾げた。


「だって大空様、笑ってましたよ」

「……俺が?」

「楽しかったんですよね? だったらもっと打ちませんか?」

「……」


 大空は思わず口元を押さえた。


 久遠院家の名を背負って碁を打ち続ける日々の中で、いつしか囲碁を打ちながら笑うことを忘れてしまったように思う。今日この時だけは、星河があまりにも楽しそうに打つものだから、思わず釣られて笑ってしまったのだ。


 悪くはないな、と思ってしまった。星河の棋力では花嫁にすることは出来ないが、こうやって息抜きに碁を打つのもたまには良いだろう。


「今日だけだぞ」


 星河が六子置いて、大空はカカリから始める。やってみると、星河との対局は確かに楽しかった。打てば響くとでもいうのか、こちらの教えをみるみる飲み込んで学習していく。数局打っただけでも見違えるようにマシになった。これほど理解の早い少女が、何故あんな拙い碁を打ったのだろうと疑問に思う。一手打つたびに星河は楽しそうに笑った。


「嬉しいです。わたし、囲碁を打つのは久しぶりなので楽しくて仕方がないです」

「そうなのか。何日ぐらい打ってないんだ?」

「六年ぐらいですね」

「そうか……六年…………六年!?」


 恐るべき吸収速度の星河の背景が、ようやく見えてきた気がした。これは飢えだ。六年も打ってこなかったことでの囲碁への飢え。砂漠の中で水を見つけた旅人のように、一手一手を噛み締めながら飲み込んでいるのだ。それ故に、一手ごとに強くなっていく。


 しかし、六年も打ってなかった少女が、これだけ打てるのか……? 宝石の原石を見つけたような気分だった。久遠院家がきちんとした指導を行えば、もしかしたら化けるかもしれない。


 不合格としたのは、この年齢でこの棋力では先が無いと思ったからだ。六年間もの空白期間があってこの強さなら悪くない。


 大空の才覚に物怖じしない度量に、充分な囲碁の才能、対局を楽しむ性格、そして、何よりも囲碁に対する飢え。花嫁の候補としては悪くないな、と思った。それに、これはあまり認めたくないが、星河を嫁に迎えてこうやって囲碁を打つ日々は、まあそれなりに良い気分転換にはなるはずだ。


 星河も花嫁選定試験に来ているぐらいなのだから、そのつもりはあるだろう。少し声が上擦りながら、大空は星河を誘った。


「おい、お前。俺の花嫁になれ」

「えっ? 嫌です」

「……は?」


 星河の即答に、またしても大空は絶句させられた。



   *



「六子局で負けて花嫁に選ばれなかったですってっ!? 麗奈さん、何をやっているのっ!」


 れい子は大声を上げながら杖を振り上げ、麗奈を着物の上から叩いた。


「申し訳ありません……」


 痛みに耐えながらも頭を下げる麗奈を見て、直後、叩いたことを後悔する。優しく麗奈を抱きしめて、叩いてしまった場所をさする。


「ごめんなさい麗奈さん、こんなつもりでは無かったの」

「いいえ、大丈夫です、お母様。私が悪いのですから」


 そう、麗奈が悪いのだ。麗奈は棋院では国家棋士に近い実力という評価を得ている。本来の麗奈の実力なら、相手が久遠院大空とはいえ六子局で負けるはずがない。気を抜いていたとしか思えない。


 れい子は苛立って爪を噛んだ。


「これで星河さんが選ばれたりでもしたら……」


 自分の娘ではなく、あの女の娘が選ばれる。そんなことになったら耐えられそうにない。不安がっているれい子を見て、麗奈がどこか諦めたような声を出した。


「お母様も、星河が選ばれるかもしれないと思っているのですね」

「……そんなはずないでしょう!」


 麗奈の言葉を強く否定して怒鳴る。そう、そんなはずはない、そんなはずはないのだ。そのために遺言状に細工をしてまで星河に囲碁を禁じたのだ。今の星河の実力で久遠院に選ばれるということはあり得ない。


 れい子は気持ちを落ち着かせると、麗奈にさらなる修練を命じた。今回の花嫁探しで大空が誰も選ばなければ、まだ麗奈にも選ばれる機会があるかもしれないのだ。それまでに麗奈がもっと強くなっている必要がある。


「久遠院大空様の花嫁探しはまだ続くかもしれません。機会が来るまでにもっと囲碁の勉強をしておきなさい」

「はい、分かりました」


 それにしても苛立つ。れい子は嫌な予感を覚えて、さらに強く爪を噛んだ。

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