第5話 六子局

 詰め碁が解けなくて不合格になった女性たちは本当に帰らされてしまった。広い会場に、星河と麗奈の二人だけが残る。


「お前、名前は?」

新開しんかい星河せいかです……」

「お前も新開か。……どこかで会ったことがあるか?」


 星河は首を傾げた。父の星賢せいげんが生きていた頃は久遠院家の者たちもよく新開家に出入りしていたが、大空そらのような野性味溢れる男がいたら忘れるはずがない。そもそも星河と一緒に打っていた同年代の男は泣き虫のくーちゃんぐらいだ。


「いえ、会ったことは無いと思います」

「……そうか。今の話は忘れろ」


 大空は納得がいかなそうな顔をしていたが、追求してくることは無かった。


「今からお前たち二人の実力を見る。俺と打ってもらおうか」


 大空の言葉を聞いた久遠院家の使用人たちが碁盤や碁笥、座布団などを持ってくる。


 久遠院大空と打つ! 星河は密かに高揚した。囲碁を打つだけでも六年ぶりなのに、その相手が『日華無双』の久遠院大空。一生の思い出にもなるほどの贅沢だ。


「まずは麗奈からだな。六子置け」

「六子、ですか?」


 麗奈が戸惑うような表情を見せた。六子というのは置き石の数だ。棋力の差がある場合に、あらかじめ碁盤に石を置くことで実力が下位の者が有利なところから対局を始める。囲碁では当たり前に見られる光景だが、それにしても六子というのは多い。


 星河の義姉である新開麗奈は棋院に院生として通っており、史上二人目の女性国家棋士に最も近い女性だと言われている。大空も国家棋士なので、麗奈が国家棋士になれば二人は公式戦では置き石無しでの互先で打つ関係になる。流石に六子ほどの実力差があるとは思えない。


 下に見られているようにも取れる発言だが、それでも麗奈は大人しく置き石を並べた。麗奈の目に静かに闘志が宿っていることを、星河は感じ取った。麗奈は表情をあまり動かさないが、かなりの負けず嫌いだ。無表情の仮面の下に、隙を見せれば喰らいつこうとする勝負師の顔が見え隠れする。


「お願いします」

「お願いします」


 大空と麗奈が一礼した。囲碁は礼儀作法を重んじる文化が根強い。対局前には必ずこうやって挨拶をしてから始める。見目麗しい男女が美しい所作で頭を下げると、盤上での戦いが静かに始まった。


 普通に打つだけでは六子置いている麗奈が有利だ。必然、大空は正攻法は選べず、序盤から手抜きをしながら盤面を荒らしていく手段を取ることになる。対して麗奈は六子を全力で活用し、堅実に地を稼いでいく。


 義姉が打つ碁を見るのは実に六年ぶりだ。当然、麗奈は星河の記憶よりも遥かに強くなっており、時おり想像もつかなかった読みの深い手を打って星河を驚かせる。二人の対局を間近で観戦しながら、心のなかで星河は感動していた。


(やっぱりお義姉ちゃんはすごい)


 星河が止まっている間も義姉は努力を続けていたのが分かる一局だ。どこか誇らしい気持ちで麗奈の対局を見守る。もはや星河よりもどれだけ強くなっているかも分からないほどの高みにいる麗奈、しかし、恐るべきことに、対手の強さはそれを上回っていた。


(このひと、強い)


 星河の実力では、麗奈の一手一手に大きな失敗があったとは思えない。それなのに、徐々に盤面が大空の有利に傾いていく。一見すると意図の読めない一手が良い利かしになっており、少しだけ麗奈の石の形を悪くしていく。それらが積み重なり、大空が一局の趨勢を支配していた。


 獰猛な獣を思わせる碁を打つ男だった。常に相手を全力で叩き潰す、殺気に満ち溢れた碁。大空の白石が、麗奈の黒石を食い千切らんと果敢に攻め立てる。麗奈の表情から焦りが見え、白く細い首筋から汗が一滴滴り落ちた。


 大空と麗奈によって盤面に星空が紡がれていく。


 ああ、大空が羨ましいなと思った。麗奈とはもう六年も一緒に囲碁を打っていない。大好きな姉が強くなっているのに、その対戦相手は自分ではない。少しだけ大空に嫉妬してしまう。


 すでに置き石のぶんの地は無くなり、形勢は五分になりつつあった。星河は固唾を呑んで観戦する。押されてはいるが、まだ麗奈のほうが少しだけ地合いは勝っている。諦めるような局面ではない。義姉のすごさを星河はよく知っている。星河の自慢の義姉が、ここからどういう碁を打つのか、先が気になって仕方がない。わくわくしながら二人の勝負を見つめる。


 だが、大空がため息を吐きながら発した言葉は、星河が想像もしてなかったものだった。


「もう打たなくていい。不合格だ」


 ……え? 星河は呆然と大空を見た。数秒かけてゆっくりと大空が言ったことを理解すると、おずおずと手を挙げて意見する。ここからが楽しみな碁なのに、これで不合格とはいくらなんでもあんまりだ。


「あの、まだ全然先が分からない局面だと思います」


 星河の意見を、大空は鼻で笑った。


「ハッ、お前はそう思うか。麗奈はどうだ?」


 当然、麗奈も同じ意見のはずだ。そう思いながら麗奈のほうを見ると、麗奈は俯きながら唇を噛み締めていた。既に敗北が決まったかのような表情だ。そうして悔しそうにしながらも投了の言葉を吐き出す。


「ありません……」


 ありませんとは、手が無い、勝ち目が無い、という意味だ。まだまだ続きが楽しみな碁だと言うのに、麗奈が投了して星河は愕然とした。熱くなった対局者よりも冷静な傍観者のほうが八目得した手を打てることを岡目八目というが、それだろうか? いいや、そんなはずはない。麗奈の実力なら、この先もまだ打てる手があるのが分かっているはずだ。


「嘘だよね、お義姉ちゃん。だってまだ、もっと打てる場所あるのに」

「……あなたは黙ってなさい」


 あなたはもっと打てる人なのに。星河は麗奈を説得しようとするが、苛立たしげに麗奈はそれを拒絶する。


「これが私の実力ということよ。あなたは私を哀れに思っているのでしょうね」

「何を言ってるの? そんなこと思ってない!」


 麗奈が言っていることが分からない。麗奈は星河のほうを全く見ずに立ち上がった。


「ありがとうございました。……失礼します」


 他の不合格の女性たちと同様に、そのまま部屋から出ていく。星河はその姿を呆然としながら見送った。大空は去っていく麗奈を一顧だにせず呟く。


「あれには才能がないな」

「…………は?」


 その大空の発言は、星河にとっては到底看過できないものだった。大空をキッと睨みつける。


「その言葉、取り消してください。お義姉ちゃんは強いです」

「事実を言ったまでだ。俺に意見を通したいのなら、まずはお前がその実力を見せてみろ」

「……分かりました」


 大空の言葉に頷くと、星河は麗奈が座っていた場所に座った。目の前には、大空と麗奈が打っていた盤面がそのまま残っている。


「この一局、わたしが引き継ぎます。お義姉ちゃんが打った碁は悪くありませんから。わたしが勝ったらさっきの言葉、取り消してください」


 日華帝国最強の棋士である大空に向けて、星河は啖呵を切った。

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