第4話 詰め碁

 詰め碁とは、自分の石を生かす手順や相手の石を殺す手順、つまり石の死活を考える問題のことを言う。”黒先白死”の場合、黒番から始まって白を殺す問題ということだ。


 星河せいかは反射的に目を瞑った。囲碁に関するものを見てしまった場合、れい子に折檻されてしまう。

 目を閉じてから、この場にはれい子がいないことに気付いた。

 しかも、よく考えるとこの状況は不可抗力ではないだろうか。れい子の指示でこの集まりに参加した訳だし、出された詰め碁を解かないことは、この問題を出した久遠院に対して失礼に当たるのではないか? そう、久遠院が出した詰め碁だ。見たい。解きたい。星河の中で、詰め碁を解きたいという欲求がどんどん高まっていく。


 言い訳を考えてみる。実際にこの詰め碁を解くと、久遠院家の花嫁候補になることは間違いない。星河としては、下手に動いて義姉の麗奈れなの邪魔をすることだけは避けたかった。れい子にも大人しくしていろと言われている。だったら、解くだけ解いて、解答を提出しなければ良い。これならば、星河は詰め碁で遊べる、麗奈の邪魔にはならないで一挙両得だ。


 何よりも、久遠院が出した詰め碁を解きたい気持ちが強すぎた。なにせ花嫁候補を選出するための問題だ。かなりの難問に間違いない。


(久遠院が出題した詰め碁! 解きたい!)


 星河はわくわくしながら目を開けて、一秒後、がっかりした表情を出さないように苦心した。


 ツギ、抑えられて、外側へ……。

 一見生きる広さが無いように見えるが、外側からの手順を踏んでハネを先手で打てることに気付けば十五手で生きることが分かる問題だ。この難易度設定では全員解けるのではないだろうか? この問題はただの肩慣らしで、ここから追加でさらに難しい詰碁を出して花嫁候補者を絞り込むつもりなのかもしれない。考え事をしているうちに、解答を書いて、ついでに余白に泣いている猫の絵を書くところまで無意識にやってしまってから我に返る。


 久遠院の詰め碁の余白に落書きするとは、とんでもない失態を犯してしまった。


(いや、これは提出しないから大丈夫。大丈夫……だよね?)


 おそるおそる周囲を窺うと、周りの者たちは詰め碁を解くのに夢中で、星河のことを気にしている者は誰もいなかった。それはそれで一目見れば答えが分かる問題になぜ時間をかけているのか気になるところだが、おそらく既に解けていて時間いっぱいまで間違いがないか確かめているのだろう。


 とにかく、落書きをしたことはバレないですみそうだ。安堵して前に向き直ったところで、にやにやとこちらを見て笑っている美丈夫と目が合った。久遠院大空である。星河がしたことを全て見ていたぞと言わんばかりの表情で笑っている。星河の首筋から冷や汗が滴る。星河は露骨に左右に目を逸らして挙動不審になりながら、最終的にはなるべく目立たないように顔を俯かせた。このまま最後まで顔を伏せて静かにしてそのまま帰ろう、そうしよう。まだ大空の視線を感じるが、これは気のせいだろう。


 永劫にも思える気まずい時間が経過した後、大空が凛とした声を上げた。


「三分経った。答えが分かった者はいるか?」


 部屋の中にいる者たちから悲嘆のため息が漏れる中、ただ一人、麗奈だけが立ち上がった。そのまま堂々と大空のところにまで歩き、解答を提出した後、深々と頭を下げた。大空はちらりと解答を見ると口角を上げた。


「正解だ。名前は?」

「新開麗奈と申します。よろしくお願い致します」


 麗奈の名乗りを聞いて、周囲がどよめいた。「あれが新開家の麗奈様……」「棋院でもご活躍されているそうよ」「流石だわ……」など、麗奈を褒め称える声があちこちから聞こえてくる。そうでしょう、わたしの義姉はすごいでしょう、と星河は得意になった。麗奈からは冷たくされようとも、星河にとっては未だに麗奈は自慢の義姉である。麗奈が褒め称えられるのを聞いて悪い気はしない。


「麗奈、お前は残っていい。他には誰かいないか?」


 大空が他の者にも問いかけて、部屋がしんと静まりかえる。おや、と星河は不思議に思った。意外にも義姉の他に詰め碁が解けた者はいないらしい。久遠院はあまり囲碁が得意ではない女性たちを集めたのだろうか? このまま星河が顔を伏せていれば、麗奈が花嫁として決まるかもしれない。


「おい、お前」


 それにしても、大空と麗奈は二人とも美形で、二人並んでいるとお似合いだと思う。このまま結婚が決まってもおかしくはない。麗奈が久遠院の家に嫁いだ場合、星河とれい子があの家で二人きりになるのだろうか。それはそれで嫌だな、と暗澹たる気持ちになる。


「おい、そこのお前だ」


 星河もよそに嫁げば家を出れるのだろうが、まともな花嫁修業をしたことのない星河を貰ってくれるところがあるとは思えない。一通りの家事はできるので、星河に囲碁を打たせてくれるような物好きが上手いこと見つけてくれないだろうか。


「お前、俺を無視するとは良い度胸だな」

「ひゃあああああああっ!?」


 怒りが混ざっているが妙に色気のある声に耳元で囁かれて、星河は跳び上がった。

 いつの間にか大空がこちらに近付いてきており、座っている星河にかがみながら話しかけてきたのだ。先ほどから大空が声をかけていたのは星河に対してだったのだとようやく理解する。


「あ、あの、なんでしょうか? わたし、何かしましたか?」

「詰め碁。お前も解けているだろう」

「と、解けて、ませんよ?」


 ぶっきらぼうに尋ねてくる大空に、思わず動揺して噛みながら答えてしまう。大空は疑うような視線を星河に投げかけると、問答無用とばかりに星河が持っていた詰め碁の紙を奪った。


「解けているじゃないか。なぜくだらない嘘をつく」

「ああ、ちが、それは違うんです!」

「しかも威嚇する熊の絵まで描く余裕があるとはな。これは久遠院への挑戦か?」

「それは……猫です……」

「…………」

「…………」


 居心地の悪い沈黙が流れる。大空はコホン、とわざとらしい咳をしたあと、星河を指差した。


「ともかく、解けている以上はお前も残れ」

「あの、すみません、わたしはこのあと用事がありまして……」

「何をしにきたお前!」


 動揺のあまり、思わず変な嘘をついてしまった。詰め碁を解けたのが二人しかいない以上、星河が帰れば花嫁は麗奈に確定、のはずだ。冷や汗をかきながらもどうにか邪魔をしないように言い訳を考えたが、何も思いつかなかった。


「はい、残ります……」


 花嫁選定試験に来ておきながら合格して肩を落とす星河を、大空はなんだこいつという目で見ていた。

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