第8話 アストルムの娘

 鉛色の雲が立ち込めて、ひどく寒い朝のことだった。


 雨が降りそうで降らない。そんな空を母とながめていたとき、ぶしつけな客人たちはやってきた。


 乱暴に家の扉を開け放ち、ずかずかと踏み込んできた屈強な男たち。彼らと両親が険しい顔で話すのを、エステルは母の後ろから見ていた。話の内容は難しくてよくわからなかった。けれど、父に何か用事があるらしいことはわかった。父がどこかに連れていかれようとしていることも。


 いつもの学生やお客さんとは明らかに違う。そのことに不安を覚えたエステルは、父の服の裾を一生懸命つかんだ。


「お父さん、どこ行くの? いつかえってくるの?」


 父と母が悲しそうな顔をしていたのを、よく覚えている。それから、大きな手のぬくもり。


「大丈夫だよ、エステル。お仕事に行ってくるだけだ」

「ほんとう? ちゃんとかえってくる?」


 おい、と客人の一人が声を上げる。その声が大きくて怖くて、エステルはますます不安になった。さらにすがりつこうとした彼女を母が強引に抱きしめた。


「お父さんを困らせちゃだめよ、エステル」

「やだ! はなして、はなしてよ、お母さん!」


 母の制止も聞かず、エステルは泣き叫んだ。それにいら立ったのか、先ほどの客人がさらに声を荒らげた。母は彼に何度も頭を下げ、そしてエステルを押さえつけた。


「やめなさい!」

「やだ、やだ! こいつらこわいもん! お父さんにひどいことする気なんだ!」


 顔を赤くした客人を同行者たちがなだめていたことを、エステルは知らない。彼女が父を呼んでわめいている間に、客人たちは父を取り囲み、引きずるようにして連れていってしまった。


 震える母の腕。沈黙する父の背中。そして、男の怒鳴り声。すべてが遠かった。ただ、自分の耳障りな泣き声だけが近かった。


「お父さん、行っちゃやだ! おとうさん――!!」


 声は、悲鳴は、届かない。


 扉が閉まった。曇天の暗がりの中に、母娘おやこだけが残されて。



 それから三年――今も、父は帰ってこない。



     ※



「あんた……シリウスの娘だったのか」


 メルクリオは、ついまじまじと目の前の少女を見つめてしまった。言われてみれば、面影がある。


 その視線に何を思ったのか、エステルは困ったように笑った。


「今はお母さんの家の姓を名乗ってるんだけど。三年前までは、『エステル・フィリア・アストルム』だったんだよ」


 そう言い、彼女はメルクリオに背を向ける。ローブの裾をひるがえし、振り返った。


「もともと、お父さんは家名がなかったんだって。だけど、研究者として評価されて、王国から『アストルム』の名前をもらった。それからはお母さんも私もそれを名乗ってたんだけど……」

「シリウスが悪いことして捕まったから、アストルム姓をはく奪された?」


 メルクリオは、口ごもったエステルの言葉を引き取る。少女は「そう」と悲しそうに笑った。それから、きつく顔をゆがめる。


「でも――私、信じられないんだ。お父さんが禁術に手を出したなんて。確かに、たまに危険な魔法に関わることはあったみたいだけど、そのときは必ず王国に許可を取ってるって言ってたし」

「……まあ、確かに。悪さができるような人ではないはずだけどな」


 小声で呟いて、メルクリオは唇に指をかける。


 シリウスはグリムアル大図書館への出入りを許されていた。だから、何度か会ったことがあるのだ。おっとりしていて、心配になるくらいお人好しで、嘘が下手な男だった。――その人となりを知っていたから、逮捕されたと知ったときにはひどく驚いたものだ。


「だから、お父さんの研究について調べて、お父さんが何をしていたのかちゃんと知りたい。本当に逮捕されるようなことをしたのか……だとしたら、どんな魔法に手を出したのか。それを知らなきゃ、前に進めない気がしてるんだ」


 しぼり出すような独白を聞いて、メルクリオは目を細める。――きっと、これが本心のすべてではないだろう。先ほどの「手遅れになる」という言葉がその証拠だ。


 だが、メルクリオがそこまで踏み込む必要はない。だからあえて追及をしなかった。


 彼が黙っていると、エステルが隣に座ってくる。


「メルクリオくん。グリムアル大図書館には、一番新しい研究書もあるんでしょ?」


 メルクリオは、目をしばたたいた。


「あるけど……なんで知ってるんだ」

「叔父さんが……お父さんの研究を手伝ってた人が、言ってたんだ。お父さんは研究書の多くをグリムアル大図書館に預けてたって。それを聞いたから私、この学校を受験することにしたんだよ」

「グリムアル大図書館に入るために、か」


 エステルはあっさりうなずく。それから、メルクリオに体を向け、深々と頭を下げる。


「だから……お願いします。大図書館で、お父さんの研究書を見させてください」


 これまでとは違う、切々とした懇願。それを真正面から受け止めて、メルクリオは腕を組んだ。瞑目していくつかの思考を巡らせたのち、再び少女を見つめる。


「……だめだ。それだけの理由なら、なおさら」


 エステルが弾かれたように顔を上げる。一拍遅れて、頬が朱に染まった。


「それだけって――!」


 引きつった声を黙殺して、メルクリオは立ち上がる。飛びかからんばかりの勢いで彼にならった少女を、手で制した。


「シリウスの研究書を探すだけなら俺にもできる。あんたが危険を冒すことはない」


 エステルがぽかんと口を開けて固まる。


 メルクリオは彼女に背を向け、そのまま校舎の方へ歩いていった。



     ※



 グリムアル魔法学校の生徒は、試験の成績、魔法の適性などによっていくつかの教室に振り分けられる。


 アエラの質、量、魔法の知識すべてが飛びぬけて優秀な生徒が集まる〈冠の教室クローナ〉。


 呪文の構築や研究が得意な生徒が集まる〈杖の教室バークルマ〉。


 武術と魔法、両方の才を持つ生徒が集まる〈短剣の教室シーカ〉。


 豊富なアエラを持つ生徒が集まる〈杯の教室サイフス〉。


 そして――優れた魔法の才能を持ったうえで、いずれの教室にも振り分けられない者が集まる〈鍵の教室クラヴィス〉。


 メルクリオが潜り込んでいるのは〈鍵の教室クラヴィス〉である。この教室の生徒は全員、ほかの教室では適切な学びの提供や支援が難しい、と判断された子だ。そんな教室にいるからには、エステルにも何らかの「事情」があるのだろうとは思っていた。


「けど、シリウス・アストルムの娘とはな……」


 メルクリオはひとりごつ。そばで聞いていたルーナが目を動かしたものの、何も言わなかった。


 グリムアル大図書館の一角。奥まった空間に鎮座する机の前で、メルクリオはうなっていた。数人で囲めるほどの大きな机の上には、大きさも厚さも様々な本や古い新聞が乱雑に広げられている。


 とりあえず、一般書架の目録をながめてシリウス・アストルムの名が確認できた本を手当たり次第に引っ張ってきたのだ。ついでに、三年前の新聞もいくつか持ってきた。それらに素早く目を通しながら、メルクリオは眉をひそめる。


「やっぱ違和感はあるんだよなあ。禁術の臭いが全然しない」


 もちろん、禁術に手を出した者が馬鹿正直にそのことを書くわけがない。そもそも、一般向けでない研究書は、情報を守るために暗号化されていることが多い。ただ、そう言った要素を考慮したとしても――シリウスの研究書に怪しい部分は見当たらなかった。


 彼の専門は精霊と魔族。その中でも、彼らのアエラの性質について熱心に調べていた。だからか、魔族と縁が深いグリムアル大図書館にも強い興味を示していて、メルクリオやルーナに直接質問を投げかけてくることもあった。


 だが、その程度だ。仮に研究の過程で禁術に行き当たりそうになっても、それ以上は踏み込んでいないように見える。それは、逮捕前、最後に預かった研究書でも変わりない。


『……正直、この件は妙だとは思ってます。禁術の取り締まりにしても、動きが急すぎましたから』


 ルーナがぽつりと呟く。確か、三年前の朝にも同じことを言っていた。メルクリオは一冊の研究書を閉じて眉間をもみほぐしながら「俺もだよ」とうめく。


「けど、俺たちが騒ぎ立ててもどうしようもないからな。変ににらまれて、大図書館の運営に差し支えたら困るし」


 言ってから、けれど少年は頭を抱える。どす黒い靄が胸に溜まって、渦巻いている気がした。


「……なんて。保身のための言い訳だよな、こんなの」

『……大図書館の番人として正しい判断ですよ』

「言い訳だよ。エステルたちからしてみれば、な」


 ふわり、と光が視界の端に広がる。黄金色の粒が舞って、メルクリオに降りかかった。


『メルクリオ。入れ込みすぎないでください』


 月夜のごとく冷たい声が、耳元でささやく。メルクリオは、うなずいた。


「わかってる」


 それからうんと伸びをする。瞬間――忘れたと思っていた男の声が、耳の奥でこだました。


『メルクリオさん。ふたつほど、お願いしてもよろしいだろうか』


 彼が最後に大図書館を訪れたとき。去り際に、突然そんなことを言いだした。メルクリオがぶっきらぼうに続きを促すと、男は困ったように笑っていた。


『――ひとつ。ここに預けた書物を、なんとしても守り通してほしい。ふたつ。もしも娘と関わることがあったら、よろしく頼む。グリムアル魔法学校に入る、と言い出すかもしれないから』


 メルクリオは、また眉間にしわを寄せる。背もたれから上半身を起こし、悪態をついた。


「――あーっ、くそ! シリウスおまえ、絶対なんか知ってただろ!」


 今思えば、何かを予感しているような口ぶりだった。禁術ほどではないにしろ、危ない橋を渡っていた可能性はある。こんなことになるのならきっちり問い詰めておけばよかった――とは思うが、後悔しても遅い。


「しかたない。ちょっとずつ探ってみるか……」

『それがいいでしょう。あとで、ここにないシリウスの著書も探しておきますね』

「ありがと。よろしく……」


 入れ込みすぎるなと言いながらも、ルーナはメルクリオのやることに協力的だ。ありがたさと居心地の悪さを同時に覚えながら、メルクリオは散らかした書物を一か所に集める。その横に新聞を重ねて置いたとき、頭の端がと熱くなった。


 番人の感覚が〈封印の書〉の異常を知らせている。メルクリオは、勢いよく立ち上がった。


「なんだ、暴走か?」

『そうみたいです。急ぎましょう』

「元気だな、まったく……」


 ため息をこぼしながらも、メルクリオはルーナとともに地下室のそばまで。今日も、長い夜になりそうだ。

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