第15話 助手の初仕事 1

 鐘の音が軽やかに響き渡る。今日のすべての授業が終わったことを知らせる音色は、城のごときグリムアル魔法学校の全体に広がった。


 同時、学校全体の雰囲気もふっとやわらぐ。屋内で授業を受けていた生徒たちは挨拶と同時に帰り支度を始め、屋外にいた生徒たちも早足で中に戻っていったり、その場で友達とはしゃぎはじめたりした。


 エステルたち〈鍵の教室クラヴィス〉の一年生の授業は、数学だった。魔法関連の教科と比べてやや時間数が少ない、一般教養の教科である。


 鐘が鳴ると、数学担当の女性教師と入れ替わりでコルヌがやってきた。今日も今日とてどことなく軽い担任は、短い連絡事項と挨拶を済ませるとすぐに出ていく。ほどなくして廊下から彼と生徒の話し声が聞こえてくるのが、いつもの流れだ。


 再び教室の扉が閉まると同時、エステルは席を立った。今日の授業で一緒に問題について話し合ったヴィーナやティエラが、ぎょっと目をみはる。


「びっくりした。いきなり立ち上がらないでよ」

「あ、ごめん。待ちきれなくて、つい」


 刺々しく注意してきたヴィーナを振り返り、エステルは頬をかく。頭の中で先日のリアン学長との会話を思い出し、はやる心をなだめた。


「何かご予定があるんですか?」


 いつも以上にそわそわしているエステルの様子が気になったらしい。ティエラが小首をかしげた。ひとつにまとめられた亜麻色の髪が、左肩の上でさらりと揺れる。


「うん。ちょっとね」


 振り返ったエステルは、ちらとほほ笑んで帰り支度に取りかかる。ついて回る視線を感じたが、さほど気にならなかった。これから待ち受けていることに比べれば些細なことだ。


 みんながのんびりと荷物を取っている間に、エステルは荷造りを終えてしまった。けれど、動きが早いのは彼女だけではない。エステルが鞄を持ち上げたとき、すでに教室から一人、男子生徒の姿が消えていた。自然と笑みがこぼれる。それを堪える努力をしながら、彼女は鞄を持ち上げた。


 今日は『番人の助手』エステルの、初仕事の日だ。



 小さな出入口から校舎の外へ出て、敷地の北西方面へ向かう。無名の魔族との戦いのさなかに見た森を横目に、そばを通る細い道へと足を踏み入れた。外に出てからしばらくは人目を気にしながら歩いていたエステルだが、その道に入ると緊張を解いた。どう考えても人の気配がないからだ。


 長く伸びた草木が道を覆い隠す。といっても、人の手が入っていないわけではなさそうだ。ほどよく整えられた枝葉の天蓋の隙間から、ところどころに淡い光の筋が差し込んでいた。


 再び足を速めたエステルの頬を風がなでる。それは、入学の日よりも冷たかった。運ばれてくる香りも少し淡い。確かに時は流れているのだと、自然は少女に教えてくれた。


 小走りで進むこと、しばし。視界の先に何かの影が見えた。建物だ。遠くから見てもわかるほどに大きい。そして、その方向から濃密なアエラを感じる。


「グリムアル……大図書館……」


 エステルはつかの間足を止め、呟いた。近づいて確かめるまでもない。魔法使いならすぐにわかる。あれが伝説の図書館だ、と。


 草をかき分け、慎重に建物へ近づいた。さすがに魔法学校の校舎よりは小さいが、それでも富豪の邸宅くらいはある。凝った装飾などはないものの、壁や屋根、窓のひとつに至るまで、清潔に保たれているようだった。正面に大きな両開きの扉があり、その上には『グリムアル大図書館』の看板と、金色に輝く紋章が打ち付けられている。そして、館全体からなんとなく覚えのあるアエラの気配が漂っていた。月光の精霊ルーナの結界だろう。


 エステルは唾をのんで、一歩一歩、距離を詰める。視界に扉しか映らなくなった頃、ようやく正面に手を伸ばした。冷たい把手を握って、前に体重をかける。


 扉はかなり重い。エステルが全力を出しても少ししか動かなかった。


「え、ええ……どうやって入ろう……」


 荒々しく息を吐きだして、少女はぼやく。とりあえずもう一度挑戦してみよう、と顔を上げ――絶句した。


 今までびくともしなかった扉が、ひとりでに開きはじめたのだ。両方の扉が、軋みを上げながら内側に動く。さながら怪談の一場面のようだ。が、幽霊が出てくることも禍々しい空気があふれ出すこともなく、グリムアル大図書館の入口はそこに現れた。


「あ。これ、もしかして魔法仕掛け?」


 しばらく呆然としてから、ふいに気づく。何しろ、魔族が眠り、大図書館の番人が住む場所だ。魔法のひとつやふたつ、十や二十は使われていてもおかしくない。


 納得すれば冷静にもなる。エステルは今度、落ち着いた足取りで扉の先へ足を踏み入れた。


 靴音が反響し、外の風とは違う冷たさが身を包む。


 そして少女の眼前に広がったのは、これまでとはまったく違う世界だった。


 まず見えるのは、円形の空間。受付らしき長机以外に物はなく、高い天井も相まってかなり広々としている。そこを支える数本の柱の先には、ただひたすら本棚があった。壁一面を埋め尽くし、ずっと億まで続く本棚の森。棚のひとつひとつに書物がびっしり収められている様は、圧巻の一言だった。


 広さも本の数も、学校図書館――校内にある、誰でも入れる図書館――とは比べ物にならない。


 エステルは、口を開けてその光景に見入っていた。だから、気がつかなかった。すぐそばに人ならざるものが忍び寄っていることに。


 ほんのわずか、アエラが揺らぐ。エステルの意識がそれを察知する直前、耳元でかちかちと奇妙な音が鳴った。


「ぎゃっ!」


 肩を震わせ飛びのく。振り返ると、すぐ前に骸骨がいた。エステルはさらに悲鳴を上げて、尻餅をつく。無意識のうちに後ずさりしていた。


 かちかちかち。また、音が響く。それは、骸骨が顎の骨を鳴らしている音だった。エステルは声も出せずに『彼』を見上げる。


 震える少女を前にして、しかし骸骨はそれ以上動かない。顎の骨を鳴らし続けているだけだ。かちかちかち。小さな音を聞いているうち、エステルは、その響きがどこか楽しげなことに気づく。


「わ、笑って……る?」


 エステルが震え声で呟くと、骸骨は顎を鳴らすのをやめた。くるりとエステルに背を向け、長机の方に行く。そして、すぐに取って返してきた。右手に大きめのハンドベル、左手に古めかしい本を持っている。おびえるエステルにそれを掲げて見せた彼は、まずハンドベルを振った。


 すると、澄んだ音が図書館じゅうに響き、ハンドベルに埋め込まれた虹色の石が輝きだした。その石と同じ色の小さな星がベルの中からいくつも飛び出して、図書館の奥へと吸い込まれていく。その輝きが見えなくなると、音も消えた。


 幻想的な光景に見入っていたエステルは、つかの間骸骨のことを忘れていた。しかし、再び彼にのぞきこまれると、恐怖がよみがえる。ひっ、と悲鳴を上げて後ずさった彼女に、骸骨は左手の本を突き出した。


 ずいぶんと古い本だ。表紙の文字が少しかすれている。


「な、何……? ティル・ファル……ファラ?」


 なんとか判読できたが、今度は慣れない言葉に困惑した。もっとよく見ようと顔を近づけたとき、エステルは濃密なアエラの気配に気づく。はっとして、本のむこうの骸骨を見た。


 もしや、彼は――


「『ティル・フアラ怪異録』。〈封印の書〉だ」


 静かな声が降ってくる。


 聞き慣れているはずなのに、この場所で聞くとまったく知らない音に思えた。


 エステルは慌てて振り返る。案の定、そこにはメルクリオがいた。見慣れた制服ではなく、白と群青色を基調とした大仰なローブをまとっている。随所に施された金色の装飾が、館内の明かりを弾いてきらきらと光っていた。二階から下りてきたところなのか、空中に浮いている。その困ったような表情を見て、少女は一気に脱力した。どっと安心感が押し寄せる。


「メルク!」

「その様子だと、さっそくギャリーさんの洗礼を受けたな」

「ギャリーさん」


 知らない名前を繰り返し、エステルは骸骨を振り仰ぐ。そのとき初めて、彼が紳士服を着ていること、頭だけが骸骨で、体は普通の男性であることを知った。


「この……人? やっぱり魔族なの?」


 恐る恐る問うと、メルクリオは宙に浮いたままうなずく。


「ああ。人をおどかす魔族だ。けど、それ以外は基本的に温厚で、生き物を傷つけることはめったにない。だから、俺がいないときには見張りをやってもらってる」


 メルクリオの紹介を受けた骸骨――ギャリーは、右腕を折り曲げて力こぶを作る。確かに、凶暴な魔族ではなさそうだ。なるほど、とうなずいて、エステルは立ち上がった。


「ええと……エステル・ノルフィネスです。よろしくお願いします、ギャリーさん」


 エステルがぺこりと頭を下げると、ギャリーは片足を引いて右手を胸に当てた。流れるような紳士の礼だ。彼はそのまま、その右手を差し出してくる。


 エステルはためらったが、目玉のない眼窩がんかから何かを期待する子供のような感情を読み取ると、恐る恐る握手を交わした。大きくてがっしりした手はけれど、やけに冷たい。その冷たさが、彼が魔族であるという事実を突きつけてくるようだった。


 少女は顔をこわばらせる。対照的に、顎の骨を鳴らす紳士は嬉しそうだ。エステルが戸惑いつつも半歩下がると、様子を見ていたメルクリオが近づいてきた。


「ま、これから慣れればいい。感覚をつかめば会話もできるようになるだろうし」

「え、そうなの?」


 エステルは驚いて大図書館の番人を振り返る。どう見ても言語での意思疎通が難しそうな骸骨と、番人以外が話せるものだろうか。


 エステルの不安と疑問を、メルクリオはからりと一蹴した。


「できるよ。あんたなら」


 誇張も気負いもない。メルクリオの一言はやはり、エステルの中にすんなりと入ってきた。


 彼女がひとつうなずいたとき、少年はやっと地に降り立つ。床を叩いた靴の先が、軽やかな音を響かせた。


「さて。まずは中をざっくり案内するか。それから仕事の話といこう」

「あっ――よ、よろしくお願いします!」


 エステルはまた、弾むように頭を下げた。メルクリオは「今さらそんな堅苦しくしなくていい」と手を振る。それから、思い出したように振り返った。


「ああ、それと」

「ん?」


 首をかしげたエステルに、メルクリオは笑いかける。


 今まで見てきたどの表情とも違う。穏やかで、厳かで、底知れない力を感じる微笑。


「グリムアル大図書館へようこそ、若き魔法使い。我々はあなたを歓迎する」


 それはまさしく、偉大なる魔法使い――大図書館の番人としての顔だった。

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