第14話 あなたの思い、あなたへの想い

 その日の放課後、エステルは学長室に呼び出された。


 担任のコルヌ・タウリーズからそれを聞いたとき、心臓が止まるかと思った。昼間のことがあったので、ずっとおびえていたのである。


「何したんだよ」とマルセルがからかってきたが、それに反応する余裕もない。エステルはふらふらと教室を出て、時折人に道を尋ねながら学長室へ向かった。


 学長室は、案外人通りの多い廊下に面している。このときも、授業から解放された学生たちが行き交っていた。街へ出る子もいれば寮に帰る子もいるだろう。彼らのローブをしばし目で追ってから、エステルは茶色い扉と向き合った。深呼吸して、扉を叩く。ほどなくして「どうぞ」という応答があった。リアンの声だ。


「し、失礼します」


 エステルは上ずった声で告げ、鈍い金色の把手とってに指をかける。震える手でなんとか扉を開けて、閉めた。閉まる音が思いのほか大きくて、さらにエステルの緊張を煽る。


 執務室と応接室を兼ねた部屋は、ほかの教室より狭い。けれど、二人が入るには十分すぎるくらいの広さがあった。エステルから見て右側の壁に大きな棚があり、本や書類がきっちりと収められている。そのそばには、魔族か精霊と思しき不思議な鳥を描いた絵画が飾られていた。


 部屋の奥に大きな執務机が鎮座していて、その奥側に一脚、手前に二脚の椅子が置いてある。そして――部屋の主は、奥の椅子に座っていた。何か書類を見ていたようだが、エステルの声を聞いて顔を上げる。


「ようこそ、エステルさん。わざわざ来ていただいてありがとうございます」

「あ、いえ、はい」


 エステルがしどろもどろになりながら答えると、リアンは優しくほほ笑む。――昼に垣間見た冷たさが嘘のようだ。


「どうぞ、こちらへ。楽にしてください」


 白い手が、手前の椅子を示す。エステルはなんとか首を縦に振って、右側の椅子に座った。お尻に当たるクッションはほどよくやわらかくて気持ちいい。が、そんな感覚は一瞬でどこぞに吹き飛んでしまった。


 たった二人、向かい合う。エステルは学長の瞳を見て背筋を伸ばした。さて、何が飛んでくるか。唇を引き結んで身構える。けれど、彼女の予想に反してリアンは穏やかに口を開いた。


「学校生活はどうですか? 困っていることや、嫌な思いをしていることはないかしら」


 思わぬ問いかけにエステルは目をしばたたく。戸惑いながらもうなずいた。


「だ、大丈夫です。ちょこちょこ困ることはありますけど、先生たちも助けてくれるし、なんとかなってます」

「それならよかった。ご両親のことで、ほかの子に何か言われたりはしていない?」

「あ。それも平気です。今のところ何もないです」

「そうですか。安心しました」


 エステルがシリウス・アストルムの娘であることは、学校内では公然の秘密だ。学長が知っているのは当然である。ずっと気にかけられてたのかなあ、とエステルはぼんやり思った。


 その後も、リアン学長の質問に答える形で学校生活の話をした。今どんなことを学んでいて、どんな魔法が使えるようになったか。〈鍵の教室〉では、よく話すようになった子もいれば、ちっとも話せない子もいること。好きな先生と苦手な先生がわかるようになってきたこと。最初は戸惑った寮生活にも、ちょっとずつ慣れてきたこと。ごはんがどれも美味しいこと。そんなことをぽつぽつと話す。


 リアンはそれをにこやかに聞いていた。本当に、昼間とは別人のようである。


 他愛もないやり取りをし、エステルが再びそわそわしてきた頃。リアンがふいに表情を改めた。


「さて。そろそろ本題に入りましょうか」


 彼女がそう口にした瞬間、学長室の空気が張り詰める。二人が緊張したからではない。アエラが動いたからだ。


 この部屋に、何かしらの魔法がかかった。いや、魔法が発動するように仕掛けを施していたのだろう。エステルは生唾をのんで、リアンの顔を見つめた。


 彼女は厳かに唇をひらく。


「エステル・ノルフィネスさん」

「……はい」

「グリムアル魔法学校および学長ヴェルジネ・リアンは、あなたが大図書館の番人の助手となることを認めます」


 厳かに告げられた内容に、エステルは目をみはる。思わず身を乗り出した。


「い、いいんですか? 私、認可生でもないのに」


 自分の首を絞めるようなことを口走ってしまう。しかし、リアンは静かにうなずいた。


「これは、大図書館の番人が決めたことです。我々に反対する権利はありません」


 ――だからしぶしぶ認めた、ということだろうか。エステルは頬を引きつらせる。リアンから逃げるように身を引いた。そんな少女の顔の前に、学長が人差し指を立てる。


「ただし。条件があります」

「条件……」


 エステルがうめくように繰り返すと、彼女はうなずいて続ける。


「ひとつ。原則、学業を優先すること。きちんと学校に来て受けるべき授業を受けましょう、ということです。もちろん、体調不良やその他事情での欠席はあるでしょうが――大図書館の仕事を理由にして学校生活をおろそかにしてはいけません」


 エステルは何度も何度もうなずいた。すごく優しい笑顔のはずなのだが、妙な圧を感じる。


「ふたつ。大図書館での仕事中および魔族との戦闘中は、番人と館長の指示をきちんと聞くこと。命にかかわりますからね」

「はい」

「みっつ。学期末試験で各教科七十点以上を取ること」

「……は、はい」


 エステルの声が急速にしぼむ。正直、三つめがもっとも難しそうだ。そんな彼女の胸中を察してか、リアンは笑みを深めた。


「必ずですよ。これはひとつめの条件にも繋がりますからね」


 にこにこと追い打ちをかけてくる。


 エステルは、胸を押さえそうになるのをなんとかこらえ、うなずいた。


「わかりました」

「いい返事です」


 満足そうに言ったリアンは、胸の前で両手を重ねる。


「その他、詳しい仕事内容などは、番人から聞いてください」


 エステルがまた「はい」と返すと、学長は音もなく立ち上がった。小さく笑声を漏らしてから「戻っていいですよ」と告げた。


 エステルは、深々と一礼して立ち上がる。気を抜けば震え出しそうになる足を叱咤して、なんとか扉の前まで歩いた。


「ああ、エステルさん」


 挨拶をしようと振り返ったとき、再び声がかかる。淡い陽光の中で、学長は感情の見えない微笑を浮かべていた。


「これは、条件ではなく忠告ですが――メルクリオさんとは深く関わらない方がいいですよ」


 エステルは、こぼれんばかりに両目を見開く。


「それは……どういう……」

「あくまで彼の助手として接しなさい、ということです。友達になろう、などと考えるのはよくありません」


 エステルは、思わず両手に力を込めた。


 背中が寒い。頭がぐるぐるする。言葉の意味がわからない。


「あれは異端の魔法使いです。気を許せば、あなたが苦しむことになるでしょう」


 リアンの声は、どこまでも平坦だった。


 エステルは呆然と立ち尽くしてしまう。目の前にいる女性が学長であることすら、つかの間忘れていた。


「それを伝えたかっただけです。引き留めてごめんなさいね」


 あっけらかんとしたリアンの声で、エステルはやっと我に返った。はっと息をのんだのち、慌てて頭を下げる。


「失礼、しました」


 そうして逃げるように学長室を出た。



 何かに急かされるように、けれどゆっくりと扉を閉める。把手から手を離して、エステルは息を吐いた。ようやく呼吸することを許された気がする。


「終わったか」

「みゃっ!?」


 いきなり横から声がかかった。エステルは全身を震わせて振り返る。


 学長室の扉のすぐ横。壁にもたれてメルクリオが立っていた。学校の中だからか、ルーナの姿は見えない。


「メ――」


 エステルが叫びかけたとき、メルクリオが人差し指に手を当てて、しーっ、とささやいた。エステルはぬいぐるみのようにぴたりと口を閉じて、吐き出し損ねた空気を飲み込む。


 メルクリオは、壁から離れると無言で手招きしてきた。エステルは黙って彼についていく。生徒たちの間を縫ってしばらく歩き、やがて人通りの少ない廊下に出た。このあたりに何があるのか、この廊下がどこへ繋がっているのか、エステルはきちんと把握していない。グリムアル魔法学校は広すぎて、校舎の全体像をなかなか覚えられないのだった。


 メルクリオがあたりを見回す。それから、やっと口を開いた。


「ここならいいだろ」

「えっと、学長先生に用事があったんじゃないの?」


 エステルは慌てて問いかける。声を出すことに少しためらいがあったせいか、かすれてしまった。メルクリオは不思議そうにまばたきしたのち、首を振った。


「あんたを待ってたんだよ」

「私を? なんで?」

「やることがあるから。――手、貸して」


 メルクリオは左手を突き出し、そんな要求をする。エステルの中の疑問は膨らむばかりだが、ひとまず言葉に従った。そっと手を出すと、メルクリオは右の手指を空中に滑らせる。呪文がいくつか連なって、エステルの手に吸い込まれた。


「よし」と満足そうにうなずく少年を、少女はまじまじと見つめる。


「えっと、今のは――」

「魔法の発動条件を変えた」

「魔法? なんの?」


 エステルが訊き返すと、メルクリオはぽかんと口を開ける。それから、あからさまにため息をついた。


「まさか、忘れたのか? 俺があんたにかけた『保険』だよ」


 その言い回しで、エステルはやっと思い出した。メルクリオの正体を知った日に、彼にかけられた謎の魔法。――あの日見たもの、彼が言ったことを他人に話したら、大図書館に関わるすべてのことを忘れる、というものだったはずだ。


「そうだった! 今日一日で色んなことがありすぎて、ちょっと忘れてた」

「あ、そう。うっかり記憶吹っ飛ばさなくてよかったな」


 思わず叫んだエステルに、メルクリオは湿っぽい視線を向けてくる。呟く声は、教科書を読み上げる生徒よりも心がこもっていなかった。エステルが眉をつり上げたところで、彼は手を離す。


「これからあんたは俺の助手になるから、大図書館に出入りできる人にはこの間のことを話せるようにしておいた」


 あっけらかんと放たれた言葉は、少女の胸に深く染み込んだ。「助手」の一語を噛みしめた彼女は、深呼吸をして少年に向き直る。


「あのさ、メルク」

「だから勝手に略すなと…………もういいや」

「なんで私を助手にするなんて言い出したの? おサルさんを封印する前は、人を入れる気ないって言ってたのに」


 メルクリオはどこか疲れたふうであったが、エステルの問いには淡々と答えた。


「事態を丸く収めるには、それが一番手っ取り早かったからだ」

「……どういうこと?」


 エステルは首をかしげる。するとメルクリオは、腰に両手を当てて彼女をにらんだ。


「あのな。あんたを『俺が助手に抜擢した』っていうことにしとかないと、あんたが大図書館に入りたがってたってことも、その理由がシリウス絡みだってことも、俺にしつこく頼んできてたことも、まるっと国にバレるとこだったんだよ」

「国に? なんで!?」

「グリムアル大図書館は、オロール王国が管理する施設ってことになってるからな」


 形だけだけど、とメルクリオは吐き捨てる。そのかたわらで先ほどの説明を何度も反芻していたエステルは、やがてそろりと右手を挙げた。


「……あのー。もしバレてたら、私、どうなってたんでしょうか……?」

「よくて謹慎、悪くて退学だな。もちろん、大図書館の番人絡みの記憶を強制的に消されたうえで。ついでに、当分の間国に監視されることになったかも」


 メルクリオの答えは、やはり淡白だ。


 いつもと変わらぬ彼の前で、エステルは青ざめた。自分がいかに危ないことをしていたか、ようやく気づく。メルクリオが守ってくれたのだ、ということにも。


 ただ、そうなるとますます不思議だ。


「メルクは……私のために、入れるつもりのなかった助手を入れたってこと? なんでそこまでしてくれるの?」

「あんたのためじゃない。俺自身のためだ」


 メルクリオは、独白のような調子でささやく。


「せっかくシリウスのことを調べはじめたんだ。報告する相手がいなきゃ、やりがいがないだろ」


 返答は素っ気ない。けれど、確かに少女の胸を突いた。


 驚きが過ぎ去ると、今度は笑みがこみ上げてくる。抑えきれない感情は、顔いっぱいに広がった。


「ありがとう。私、お仕事頑張るね」

「ぜひともそうしてくれ」


 そっぽを向いたメルクリオはしかし、すぐにエステルの方へ向き直る。まじめくさって腕を組んだ。


「あ、でも。リアンが出した『条件』は守れよ。できなかったら即、記憶消して追い出すからな」

「うん! 試験で七十点以下とらないように気をつける!」

「一番に心配するのがそこか」


 エステルが拳を握ると、それまでしかめっ面をつくっていたメルクリオが吹き出した。初めて見る反応に、エステルの方が驚いて固まってしまう。それに気づいているのかいないのか、彼は笑いを押し殺して少女を見上げた。


「ま、試験勉強くらいは手伝うよ。――これからよろしく、エステル」


 その一言は、〈鍵の教室〉で初めて自己紹介をしたときのようにさりげない。けれど、あのときよりもずっと温かかった。


 だからエステルも、精いっぱい心をこめて返した。


「うん。よろしくね、メルク」


 そうして笑いあった二人は、そっと握手を交わす。


 窓から差し込んだ夕日が、互いの顔をやわらかな橙色に染め上げた。



     ※



「『名無し』の気配が消えた」


 燭台の火だけが揺らめく薄暗い部屋の中。アルタイルは本をめくる手を止めて呟いた。隣くつろいでいた青年が、それを聞いて顔を上げる。


「お、もう? オグルのときといい、やけに早いね」

「ああ。大図書館の番人が動いたのかもしれない」


 アルタイルが素っ気なく返すと、青年は紅玉のような瞳をきらめかせた。


「定期報告はまだだっけ」

「まだだ。が、もうそろそろ届くだろう」

「楽しみだねえ。本当に番人が出てきたのなら、あの方の読み通りってわけだ」


 今度、アルタイルは無言だった。ただ小さく顎を動かし、本を一ページ、めくる。青年が隣で頬杖をつき、歌うように呟いた。


「いやあ、ほんとに楽しみだ。番人や精霊とやり合うなんて何十年ぶり? 彼ら、引きこもって全然出てきてくれないんだもの」

「……まだやり合うと決まったわけじゃない」

「決まったようなものでしょう」


 青年の声が弾んだせいか、燭台の炎が音を立てて揺れる。アルタイルはその方を見ながら、冷淡に釘を刺した。


「先走るなよ」

「それは私じゃなくてカペラに言った方がいいんじゃないかな?」

「いざ動いたときに手がつけられなくなるのは君の方だ、ルクール」

「あはは。ごめんって」


 青年、ルクールは軽やかに笑って手を振る。気の抜けた笑顔に一瞥もくれず、アルタイルは本に目を戻した。


「何十年ぶり……か」


 当代の、大図書館の番人。会ったこともない相手に思いを馳せる。


 聞いたところによれば、子供のうちにその座についたらしい。月光の精霊にいたくと、裏を知る魔法使いたちはささやく。――重ねた罪から目を背けて。


「反吐が出る」


 静かに吐き捨てた音と感情は、隣にいるはずの青年にすら拾われない。ただ暗闇の中を漂って、消えた。

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