第17話 厄介な仕事 1
メルクリオはひとり、大きな扉の前に立つ。グリムアル魔法学校のあちこちで見かける、暗い茶色の分厚い扉。把手にぶら下がっているノッカーを引くと、鈍い音がした。ややして、くぐもった返答がある。メルクリオは慎重に扉を押し開けた。
出入り口の重厚さに反して内部は小ぢんまりしており、温かみがある。執務机と背の低い本棚、窓辺の小さな植木鉢に、部屋を淡く照らす陽光、そして――一人の男性教師がメルクリオを出迎えた。
「ようこそ、大図書館の番人殿。それにルーナ様も」
メルクリオがいる〈鍵の教室〉の担任にして、大図書館と魔法学校の連絡役。コルヌ・タウリーズは緑の双眸を悪戯っぽく光らせる。
肩をすくめたメルクリオのかたわらに月光の精霊が現れ、薄羽を細かく揺らした。
『様はよしてくださいよ。むずがゆい』
「魔法使いとして、精霊に敬意を払わないわけにはいかんでしょう」
くすぐったそうにからだを震わせるルーナに対し、コルヌはそんなことを言う。他方、メルクリオはじっとりと目を細めた。少し意地悪をしたくなる。
「大図書館の番人には、敬意を払わないのか」
声を低めてみたが、コルヌは大して動じない。肩をすくめて笑っただけだった。
「今は、番人以前に〈
「よくご存じで」
メルクリオも、両手を挙げて苦笑した。茶番も一段落したところで、抱えていた紙束をコルヌの方へ突き出す。一枚目には昨日の日付と『報告書』の文字があった。
「はいこれ。今回の調査初の報告書だ」
「どうも。じっくり拝見するよ。楽しみだ」
「そう楽しいものじゃないよ」
学生と教師にしては堅すぎる、仕事にしてはやや軽いやり取りを経て、報告書はコルヌの手に渡る。彼はメルクリオに椅子をすすめたのち、執務机の前で報告書をめくった。ほどなくして、眉をひそめる。
「やっぱり、魔族の暴走が続いているのは気になるな。それと、君が感じた『知らない誰かのアエラ』というのも」
コルヌが指摘したのは、オグルと無名の魔族のこと。そして、後者の暴走のときに一瞬感じたアエラの気配のことだ。
メルクリオも顔をしかめ、口もとに指をかける。
「覚えのないアエラではあったけど、なんとなく知ってる気もするんだよな。どこかでうっすら感じたことがあるような……」
「君の古い知り合いでもいたのかね?」
「だとしたら幽霊だな」
軽口めいた問いかけに、メルクリオも冗談めかして返す。けれど、すぐに真剣な表情に戻った。
「……確かなのは、膨大なアエラの持ち主があの場にいたってことだ。これが幽霊でも精霊でもなかったら、よろしくない状況だな」
「それなりの魔法使いが〈封印の書〉に手を出した、ってことか」
コルヌがうなって、机を指で叩く。その音を聞きながら思考を巡らすメルクリオのかたわらで、ルーナが『そういえば』と声を上げる。
『最近は、魔法の暴発は起きてないんですか?』
「ええ。不自然な事故の報告は、今のところないですよ。新入生のかわいい間違いくらいで。――いつ何が起きるかは、わかりませんがね」
それはそれで不気味な話だ。
コルヌもそれは感じているのだろう。答え、報告書をめくる彼の顔は険しかった。しかし、次の一枚に目を通したとき、その目もとがふっと緩む。
「『助手』とはうまくやれてるみたいだな」
「……まあ、それなりに」
からかうように言われたメルクリオは、思わずそっぽを向く。コルヌの妙に爽やかな笑声が響いた。
エステル・ノルフィネスを番人の助手とすることに、コルヌも当初は難色を示していた。しかし、ここ数日のエステルを見て問題なさそうと判断すると、一転して協力的になった。良くも悪くも彼らしい。
そのコルヌが、ふっとほほ笑む。何かをたくらむような表情に嫌な予感を覚えて、メルクリオは身じろぎした。
「人手が増えて、番人殿の仕事も少しは楽になったかね?」
「馬鹿言うな。そんなすぐに変わるものじゃ――」
反射的に言い返したメルクリオは、しかし途中で言葉を止めて、相手をにらみつけた。
「今度は何をさせる気だ?」
「鋭いなあ。……言っとくけど、俺が持ち込んだ仕事じゃないからな?」
コルヌは苦笑して立ち上がる。そして、手元の紙片を少年へ差し出した。
「本の復元の依頼が来た」
コルヌが端的に告げる。瞬間、メルクリオとルーナは、揃って「うわあ」とうめいた。
※
「あれ、メルクは?」
気持ちの良い挨拶とともに教室へ入ったエステルは、部屋中を見回して首をかしげる。いつも彼女より早く来ているはずの少年の姿が見当たらなかった。
エステルの疑問に答えたのは、荷物をしまっている最中のマルセルだ。
「休みだってさ」
「え、休み?」
エステルが目を丸くすると、マルセルは「しかも何日か休むって」と追い打ちをかけてきた。ますます驚いたエステルは、その場に立ち尽くしてしまう。
「ついに風邪でもひいたのかな」
「ここんとこ、元気なかったもんな」
すでに着席しているポルックスとカストルが、独り言にしては大きな声で言う。前の席でそれを聞いていたヴィーナが、鼻を鳴らした。
「自業自得でしょ。ちゃんと体調管理をしないのが悪いんだわ」
馬鹿にするようなその一言を聞いて、エステルは眉をつり上げる。教室に入ってあいている席に荷物を置くと、ヴィーナの方をにらんだ。
「ちょっと、ヴィーナ」
「あら。わたし、何か間違ってた?」
「間違ってはないかもだけど、言い方ってものがあるでしょ」
互いが互いをにらみつける。少女たちの間に火花が散った。ちょうどその中間に入るティエラが、気まずそうに肩をすくめる。
エステルはそれに気づいていたが、自分の方から退く気にはなれなかった。おそらく、メルクリオが休んだのは、大図書館の仕事が立て込んでいるからだ。そういう事情がわかるからこそ、彼について好き放題に言われることが我慢ならなかった。
しかし、張り詰めた空気を破るように、乾いた音が響く。エステルとヴィーナだけでなく、教室のほぼ全員がそちらを見た。
端の席で教科書を広げていたユラナスが、両手を合わせている。先ほどの音は、彼女が手を叩いた音だった。
「はい、そこまで」
ユラナスは、同級生の視線を一身に浴びても動じず、淡々と二人をなだめる。彼女たちが同時に顔をしかめると、少女は茶髪を軽く振って、言い添えた。
「ここにいない人のことで喧嘩しないの。シュエットさんに迷惑だよ」
そう言われると反論できない。エステルは肩をすくめて身を引いた。ヴィーナも、不服そうではあるものの、エステルから目を逸らす。
〈鍵の教室〉の空気が少し緩んだとき、学校のはじまりを告げる鐘が鳴って、先生が入ってきた。
エステルが担任のコルヌに声をかけられたのは、その日の放課後のことだ。何事かと思って振り向くと、彼は口もとに人差し指を当てる。
「ちょっといいか?」
コルヌはささやいて、そばの曲がり角を手で示した。内緒話だと察したエステルはうなずいて、彼の後ろを歩く。ひと気のない場所に来たところで、コルヌは体ごと振り返った。
「君にお願いしたいことがある」
「私に、ですか?」
エステルは目をしばたたいた。コルヌはうなずいて、大きな袋を差し出してきた。
「これをメルクリオさんのところに届けてほしいんだ」
エステルは、驚きつつも袋を受け取った。おもな中身は紙のようだが、それ以外にも何か重たい物が入っている。
「ええと……これ、なんですか?」
「今回の仕事に関する書類と、差し入れ」
仕事と聞いてエステルは息をのむ。やはり、メルクリオの欠席は体調不良が理由ではなかったのだ。そうとわかれば、エステルのやるべきことはひとつだけ。
「お願いしていいかな」
「はい、もちろん」
うかがうようなコルヌの言葉に、ためらいなくうなずく。曇りのない返答を聞いた担任教師は、声を立てて笑った。
「ありがとう。それじゃあ任せたぞ、助手さん」
「はい!」
エステルは笑顔でコルヌと別れ、急いで廊下を突っ切る。その足取りは弾んでいた。最近、「助手」と呼ばれると、どうにも胸が高鳴るのだ。
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