第3話 『イル・ブランシュの騎士』 1

 怪物の咆哮が、大気を激しく震わせる。少年少女は顔をしかめ、一斉に耳をふさいだ。


 一方、叫びつくした怪物は、勢いよく地面を蹴る。滑空しているかのような速さで人間たちめがけて飛びかかってきた。


「逃げろ!」


 コルヌとメルクリオの声が重なる。けれど、生徒のほとんどは動かない。――いや、動けないのだ。


 優秀な魔法使いの卵とはいえ、まだ入学して間もない子供。戦ったこともなければ、こんな怪物に遭遇した経験もない。だから彼らは恐怖に震え、立ち尽くすことしかできずにいた。


 当然、怪物はそんな事情などお構いなしだ。あっという間に距離を詰めてきて、激情のままに腕を振りあげる。巨大な爪が光ったとき――コルヌ・タウリーズが生徒たちと怪物の間へ躍り出た。


 コルヌは右の指を空中に滑らせる。すると、指の動きをなぞるように、鈍く光る文字が刻まれた。古代の文字で記された呪文は、広がって弾けると、怪物の足もとに吸い込まれていく。


 次の瞬間、芝生を突き破って、かたい地面が盛り上がった。それはあっという間にコルヌの身長を追い越して、強固な壁となる。怪物が振り下ろした爪はその壁に阻まれた。


 生徒たちは、呆然とコルヌを見る。よろめいたティエラを、隣で身構えていた茶髪の女子生徒が支えた。


「せ、せんせえ……」


 涙声を上げたのは、ヴィーナだ。コルヌは呼びかけに振り返り、今までと変わらぬ微笑を浮かべる。


「いやあ。怖かったな、みんな。もう大丈夫だぞ」


 緊迫した状況にそぐわない、軽い言葉。それはけれど、確かに生徒たちの心を解きほぐした。ヴィーナの両目に涙がにじみ、ぽろぽろとこぼれ落ちる。マルセルも鼻を赤くして、唇を噛んでいた。


 そんなとき、壁のむこうから、がん、がん、とけたたましい音がする。まだ怪物が攻撃を加えているらしい。


 生徒たちの顔がこわばった。けれど、コルヌはいつも通りだ。


「怪我した人はいるか? 具合が悪い人は?」


 その場にいる生徒のうち、五人が首を横に振った。よろめきながら走ってきたエステルも、ちぎれんばかりに首を振る。その反応を一通り見た茶髪の女子生徒が、静かにコルヌの方を向いた。


「みんな、大丈夫です」

「そうか。ありがとう、ユラナスさん」

「いえ」


 女子生徒――ユラナス・サダルメリクは、淡白に答えた後、大きく息を吐きだした。ふっと肩が下がる。冷静に振る舞ってはいるが、彼女も緊張していたらしい。


 がん、がん、と衝突音が響く中、コルヌが手を叩いた。


「みんな、授業は中止だ。校舎の中に避難しよう。あのおっかない奴は壁でとどめておくから、落ち着いて、な」


 自分が作り出した壁を指さし、教師は諭すように言う。生徒たちはうなずいた。それから、転んでいる人を助け起こしたり、校舎の方を確認したりする。


 全員が立ち上がると、コルヌの先導で校舎へと向かった。衝突音はまだ響いている。音の方を振り返ったメルクリオは、少し眉を下げて担任教師に呼びかけた。


「あの、先生。あいつは放っておいて大丈夫なんですか? あれじゃ、壁が壊されそうですけど……」

「ああ、壊されるだろうな」


 コルヌは、少し声を潜めて答える。いまだ怖がっている生徒への配慮だろう。


「でも、大丈夫。中に入ればこっちのもんだ。校舎には防御結界が張ってあるからな」

「そうなんですか。よかった」


 ほっとしたふうに呟いたメルクリオは、一度背後を振り返る。少し離れたところにユラナスの姿を確認すると、さらにコルヌへ近づいた。


 眉をつりあげ、目を細める。先ほどまでの大人しい生徒の表情は剥がれ落ち、刺々しい雰囲気がにじみ出る。


「……どういうことだ、コルヌ。あれ、どう見ても〈封印の書〉の魔族だぞ」


 限界まで声を抑えてささやくと、コルヌはおどけたふうに目を逸らした。


「さてなあ。どういうことだろうな。君こそ、何か知らないのか?」

「『情報』はない。十中八九、未納の〈書〉だ」

「……ま、君が事前に察知できなかった時点で、そうだろうとは思ってたよ」


 飄々ひょうひょうと返した男をにらみ、メルクリオは鋭いため息をつく。


「運びにんは何やってんだ。最近管理がずさんになってないか?」


 毒づきながらも、彼はきびすを返す。その背中に、コルヌが声をかけてきた。


「行くのか?」

「当たり前だ」

「無理はよくないぞ。最近、寝不足なんだろ?」

「無理させてんのはそっちだろ」


 ちくりと言葉を返したメルクリオは、そこで少しだけ振り返る。苦笑する男性教師に淡々と呼びかけた。


「じゃ、俺は行く。うまくみんなの注意を引きつけておいてくれ」

「はいはい。承りましたよ、殿」


 コルヌは、軽く答えて手を振った。メルクリオはふいっと顔を背けて歩き出す。生徒の列に戻り、後ろの方を歩くふりをして――みんなの視線が自分から逸れた瞬間、ぱっと反転して駆け出した。


 ローブの裾をひるがえし、東演習場の中央へ戻る。コルヌが作った魔法の壁は、まだあった。しかし、かなりひび割れている。長くはもたないだろう。


 メルクリオは、壁をにらんだまま口を開く。


「ルーナ!」

『はい』


 少女の声は、すぐに返ってきた。同時、メルクリオのかたわらに金色の丸い光が現れる。指三、四本分の小さな『彼女』は、蒼い薄羽うすばねと楕円形の目を持っていた。


 メルクリオは、変わらぬ相棒を一瞥する。


「念のため、結界頼む」

『かしこまりました』


 ルーナはすぐさま薄羽をぴんと張った。ふたりのまわりを薄い光が覆う。


 その瞬間を狙ったかのように、岩土の壁が音を立てて砕け散った。怪物は、その破片を乱暴に払いのけながらあたりを見回す。そして、メルクリオの姿を見つけると、血走った目を見開いた。


『フウインノマホウツカイ!』


 同じ言葉を繰り返し、跳ぶように走ってくる。その姿を見て、ルーナが薄羽を下げた。


『ずいぶん懐かれてますねえ』

「恨まれてるって言うんだろ、これは」

『何したんです?』

「面識すらない」


 メルクリオがじろりとねめつけると、ルーナは『冗談ですよ』と笑った。


『“何かした”のは、初代番人でしょうね』


 醜悪な怪物が迫ってくるのを気にもせず、彼女は天気の話でもするように呟く。直後、怪物が結界に激突した。光が弾け、耳障りな音を立てる。


 静かに数歩下がったメルクリオは、右手を虚空にかざした。


「ルーナ、もういいぞ」

『はい』


 ルーナが再び羽を張る。ドーム状に広がっていた光が、消えた。


 同時、メルクリオは詠唱を開始する。


「『父なる星より生まれし白炎はくえんは』――」


 怪物が、咆えた。


「――『今、よこしまなるものを焼き尽くす』」


 詠唱に呼応してアエラが弾け、怪物の眼前に白い炎を生み出す。それはメルクリオの思惑通り、醜悪な顔面を覆って焼いた。


 痛々しい絶叫が天を突く。白い炎を払おうともがいている怪物が、また叫んだ。


『オノレエエエ! フウインノマホウツカイ!』

「ご名答。俺が、お探しの『封印の魔法使い』だ。おまえを封印した本人じゃなくて、封印を維持する係だけどな」


 メルクリオは静かに一歩前へ出る。


「グリムアル大図書館の番人、メルクリオ・アルス・カドゥケウスだ。――長い付き合いになるだろうから、よろしく」

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