第4話 『イル・ブランシュの騎士』 2
気だるげに、それでもまっすぐ相手を見て、少年は名乗った。しかし、怪物は聞く耳を持たない。封印の魔法使いを呪いながら突進してきた。メルクリオは、軽く地を蹴って後ろに下がる。執拗に追いかけてくる怪物に目を向けつつも、走り出した。
「困ったな。未納の〈封印の書〉だから呼び出しようがない。あいつの種族だけでもわかればいいんだけど……」
何度も繰り出される噛みつき攻撃や爪を避けながら、メルクリオは低くぼやく。その横を飛んでいるルーナが、『うーん』と羽を震わせた。
『この様子を見る限り、オグルだと思うんですけど……』
「
『多分、比較的最近捕獲された子ですね。初代番人の時代に彼らが封印されたという話は、聞いたことがありません』
ルーナの声に耳を傾けながら、メルクリオは再び怪物――オグルの突進を避ける。オグルは少しもひるまず、彼につかみかかってきた。
「『風よ、
鼻先をかすめた爪をなんとか避け、メルクリオはとっさに詠唱する。ごう、と突風が吹き、オグルが後方に吹き飛ばされた。
仰向けに倒れたオグルはけれど、すぐさま起き上がって絶叫する。その声に反応して、周囲のアエラが激しくざわついた。その動きを痺れというかたちで感じながら、メルクリオは顔をしかめる。
「うわあ。すげえ荒れてる」
『まあ、そもそも凶暴な種族ですからね、彼ら』
この状況下で、ルーナは他人事のようにのんびりと答えた。軽く顔をしかめたメルクリオは、けれど苦情を封じ込めて駆け出す。再び突撃してきたオグルの爪を三度避け、飛び下がって距離を稼いだ。
深い吐息をこぼしたメルクリオは、ぐるりと演習場を見渡す。
「どうするかな……。弱らせるだけなら簡単だけど、あんま学校を壊したくないし……」
万が一校舎を壊そうものなら、コルヌや学長に文句を言われるのは確実だ。それだけではなく、生徒たちが魔法やオグルの力に巻き込まれる可能性もないとは言い切れない。
オグルは確かに凶暴だが、知能はさほど高くないはずだ。そこを上手く利用できないものか。
そこまで思考を巡らせたメルクリオは、オグルの突進を横に跳んで避けながら、演習場の木々の位置を確かめる。頭の中で地図を描いていたとき、耳元で声がした。
『メルクリオ。“大戦”後に出版、あるいは発表されたもので、オグルについて書かれた本を知ってますか?』
「山ほどあるよ、そんなん。でも――」
少し記憶を辿ったメルクリオは、いくつかの書名を挙げる。ルーナが何をしようとしているのか、気づいたからだ。彼の言葉を聞いた後、ルーナは『わかりました』と返し、しばらく固まった。
メルクリオが一本の木に視線を定めて走り出した数秒後、彼女は弾かれたように追いついてくる。
『メルクリオ! 見つかりましたよ、今回収蔵される予定の〈封印の書〉!』
「よっしゃ! ありがとな、ルーナ」
その題名と、必要な情報を聞いたメルクリオは、口の端を持ち上げた。直後、急停止し、追ってくるオグルを振り返る。そんな彼をルーナは不思議そうに見つめてきた。
『……何をするんですか、メルクリオ?』
「これを使ってみる」
メルクリオはローブの袖に手を入れ、その中のものを取り出す。それを見て、ルーナは意外そうに目を縮めた。
※
オグルは絶叫をまき散らして走る。
黒い髪の人間のこども。忌々しい封印の魔法を生み出した男の後継者。
憎い、憎い。その姿を、その声を、そのアエラを思い出すだけで、体中のアエラが煮えたぎる。
殺さなければならない。あの頭に牙を立て、細い手足を食いちぎり、そのすべてを――アエラまでもを――喰らわなければならない。
あのやわらかい肉を、月光のごときかがやきを、すべてのみこんでしまいたい。
憎悪と衝動に任せて走っていたオグルは、すぐに獲物の姿を見つける。やわらかそうな魔法使いは、木の前に佇んでいた。そこに立って、彼を見たまま動かない。
オグルは、わらった。牙の隙間からいびつな笑い声をこぼす。後ろ足で地面を蹴って前に飛び出し、とうとう魔法使いを捕まえた。小さな肩に前足をかけ、爪を食い込ませる。嬉々として口を開き、顔面にかぶりつく。
ごりっ、と。口の中で鈍い音がする。次の瞬間、前足が宙に浮き、オグルを衝撃が襲った。そして――
「『鎖よ』!」
鋭い詠唱が、響く。
※
オグルが木に激突したその瞬間、メルクリオは先ほどの授業でつくったのと同じ鎖を生み出す。それは生き物のようにうねり、オグルの体に巻きついた。鎖の先端を片手で巻き取ったメルクリオは、その場で踏ん張って腕を引く。当然オグルは暴れたが、メルクリオも決して力を緩めなかった。もちろん、アエラへの干渉も続けている。
メルクリオは〈封印の書〉の題名を知ってすぐ、近くの木の陰に身を隠した。そして、ついさっき授業で作った石のピクシーを木の前に置いた。もちろん、ただ置いただけではなく、「石を人間の子供に見せる」ための魔法をかけた。いわゆる錯覚や幻覚を見せるものだ。時間がなかったので稚拙な
メルクリオの読みは当たった。オグルは髪色とアエラだけで石のピクシーをメルクリオだと思い込み、躊躇なくかぶりついた。その瞬間に魔法が解け、衝動のまま突っ込んできたオグルは木に激突した、というわけだ。
オグルを拘束したまま、メルクリオは空いた方の腕を上げる。そして、深く息を吸った。
「〈封印の書〉第二千四百四番、『イル・ブランシュの騎士』」
その声に呼応するように、メルクリオのすぐそば、空中に穴があく。その中から、一冊の本が現れた。古びてはいるが、今の本と同じ形で綴じられていて、丈夫な紙が表紙に使われている。表紙には、青っぽく変色したインクで古い言葉が書かれていた。
その本は、音もなくメルクリオの前に吸い寄せられる。そして、ひとりでに開いた。ページがぱらぱらと激しくめくれ、あるページでぴたりと止まる。
メルクリオはそのページに素早く目を走らせると、その内容を読み上げた。
「『邪悪なオグルたちを倒しながら、イル・ブランシュの騎士は行く。廃村のはずれの川辺にて、騎士は灰色のオグルと出会う』――」
言葉に合わせ、光の文字が浮き上がる。本の文面とまったく同じそれは、オグルの方へ飛んでいくと、彼を囲むように回転を始めた。
このオグルに対して力を持っている文章――封印の呪文は、『イル・ブランシュの騎士』という物語の一節だ。
凶暴なオグルに怯える人々を見て、主人公の騎士はオグル退治に向かう。その先、ある川の対岸に、灰色髪を持つ大きなオグルを見つけた。騎士は槍を近くに隠し、身一つでオグルを川に誘い出した。オグルが水に落ち、身動きが取れなくなったところで、隠していた槍でその眉間を貫いて倒す――という物語である。
その文章を、メルクリオは淡々となぞる。そのたびにオグルのまわりを回転する文字が増え、その文字が薄い半球を作り出した。オグルはなおももがいているが、勢いは先ほどよりも衰えている。
もうすぐだ。それを視覚でもアエラの気配でも感じ取って、メルクリオは声に力を込めた。
「『川から上がった騎士は、木陰の槍を手に取って、もがくオグルに投げつけた。槍はオグルの額を貫く。そして、オグルは動かなくなった』」
最後の一文を読み上げた瞬間、文字の輝きがいっそう強くなる。それが絶叫するオグルを包み込み、押しつぶした。そうして小さくなった光は、手のひらくらいまでに縮み、ふわふわと浮き上がる。同時、オグルを拘束していた鎖が解け、ぱっと散った。
メルクリオは木陰から出て、本を静かに掲げる。すると、浮いた光がまっすぐに開いたページの中へ吸い込まれていった。
完全に沈黙した〈封印の書〉は、ほのかに熱を帯びていた。魔族が中に入った証拠だ。メルクリオはため息とともに本を閉じる。
「……なんとかなったな」
『お疲れ様です』
「どうも。ルーナも、情報見つけてくれてありがとな」
相棒にちらとほほ笑みかけて、メルクリオは本を抱えた。
あとはこの〈封印の書〉をグリムアル大図書館に持ち帰り、正式な手順を踏んで収蔵すればいい。けれど、その前に運び人に顔を見せた方がいいかもしれない。きっと今頃、腰を抜かしているはずだ。
やれやれ、と頭をかいたメルクリオは、とりあえず校舎の方につま先を向け――
「メルクリオくん!」
――自分を呼ぶ声を聞き、固まった。
校舎の方から、一人の少女が駆けてくる。
舞い踊る金色の髪、焦りと驚きに見開かれた碧眼。今日、何度も聞いた高い呼び声。こちらに向けて、何度も振られるローブに覆われた小さな手。
メルクリオは驚くことも怒ることもできず、ただ彼女の名を呼んだ。
「エステル、さん……?」
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