第5話 許されざること

「あれ、メルくんどこ?」


 双子の片割れ――カストル・ウィンクルムがあたりを見回して叫んだのは、元の教室まで避難してきたときだった。それまで気の抜けた表情を見せていた生徒たちが、彼の一言で目覚めたような顔になり、慌てて同級生の姿を探しはじめる。エステルもその中の一人だった。


「ほんとだ。いないねえ」

「え、え? 演習場を出るときは一緒だったわよね?」


 双子のもう一方――ポルックスと、ヴィーナが騒ぎ立てる。彼らを見ながら、マルセルが頭をかいた。


「あいつ、なんか今日ぼーっとしてたもんな。途中ではぐれたのかも」

「まずいな……」


 ユラナスが、教室を見渡してからぽつりと呟く。


 その小さな一言を聞いた瞬間、エステルは心の奥がざわりと波立つのを感じた。魔法基礎の授業中、移動中、そしてその後の少年の様子を思い出す。


 いつも物静かな子だとは思っていたが、今日は特に元気がなかった。ひょっとしたら、マルセルの言う通りかもしれない。


 それに、エステルは気づいていた。演習場に現れた怪物が、メルクリオを見て怒りだしたことに。


 もし、万が一、彼が怪物に襲われていたら――


 不吉な想像は止まることなく、どんどん、どんどん膨らみ続ける。体中が脈打ち、嫌な汗が吹き出した。


 そこで、教壇に立って背を向けていたコルヌが振り向いた。先ほどまで忙しそうに魔法で先生たちと連絡を取り合っていたが、その作業が一段落したらしい。


「あー……先生が探してこよう。だから、みんなは教室から出ないように――」


 心なしか気まずそうな声が聞こえる。


 けれど、エステルはそれをまともに聞いていなかった。言葉が終わるより先に、ローブの裾をひるがえして走り出す。教室の扉を蹴破らんばかりの勢いで開いた。


「あ、おいエステル!」

「ちょっとあなた、どこ行く気――」

「危ないぞ! 戻りなさい!」


 同級生の悲鳴じみた呼びかけも、先生の叱声も無視した。


 先ほどみんなで通り抜けた道を今度は一人でひた走る。


 走って、走って、走って――演習場へ続く扉を体当たりで開け、外に飛び出したその瞬間。


 少女は、光る文字に囚われた怪物と、それと対峙する少年を見た。



     ※



 息を切らしているエステルを見て、メルクリオは呆然としていた。


 あまりにも突然すぎて、どう対応したらいいのかわからない。叱声のひとつも出せないまま、少女の方へ目を向けていた。それはルーナも同じだったのだろう。姿を消すことも忘れて固まっている。


 ふたりが反応できないでいるうちに、エステルはよろめきながら駆け寄ってきた。そのときになってようやく、メルクリオは言葉を絞り出す。


「エステルさん……なんで、ここに……」

「えっと……教室で、メルクリオくんがいないって、カストルが気づいて。そしたら私、居ても立ってもいられなくて、探しにきちゃった」


 いまいち要領を得ない説明をしたエステルは、頭をかいてはにかむ。それから、弱々しくほほ笑んだ。


「無事でよかった」


 メルクリオは、右手を背中に回し、その五指を空中に置く。しかし、魔法の発動にまでは踏み切れなかった。


 エステルがいつからいたのかわからない。封印の瞬間を見られたとは限らない。行動は慎重にしなければ――


 そう思う一方、メルクリオは、自分がなぜかためらっていることにも気づいていた。


「……それは、ごめん。ありがとう」


 何はともあれ、生徒たちを騒がせて彼女に心配をかけたのは事実だ。メルクリオは目を細めつつ、謝罪と感謝を口にする。エステルは小さくかぶりを振って、怪我がないならいいよ、と笑った。


 けれど直後、その笑みが曇る。


「メルクリオくん。……その本、なあに? そんなの持ってたっけ?」


 少女の声がかたくなる。メルクリオも表情をかたくする。


 ひと時の、刃のような沈黙。その終わりに、エステルが半歩踏み出した。


「あの、見間違いかもしれないけど。さっき、あの怪物がその本に吸い込まれたように見えた」


 碧眼が、鋭い光を帯びる。対してメルクリオも、灰青色の目を細めた。


「ねえ。メルクリオくん」


 確定だ。


 しかるべき措置をとらねばならない。


 それなのに――


「あなたは大図書館の番人なの?」


 彼の右手は、いつまで経っても呪文を刻まなかった。



 風が吹く。草木がざあざあとざわめいた。その音を聞きながら、メルクリオは本を抱える腕に力を込める。


 少年の対面に立つエステルは、力強い瞳で彼を見据えてきた。


「もし、メルクリオくんが大図書館の番人なら……私、お願いしたいことがあるんだ」


 メルクリオは何も返さない。ただ黙って続きを待った。


 もう半歩、少女が踏み出してくる。芝生が乾いた音を立てた。


「私を大図書館に入れてください!」


 その一言は、ひと気のない演習場に朗々と響き渡る。


 少年もその相棒も、それを静かに聞いていた。


 ――予想通りだ。


 先ほどの移動時間中、マルセルの一言を聞いたときから、いつかこう言われる時が来るような気はしていた。こんなに早く『その時』になるとは思っていなかったが。


 それでも、大して驚きはない。心構えはできていた。だから。


「無理」


 メルクリオは、即座に少女の頼みを切り捨てた。


 吹き抜ける静寂。その果てに、エステルが奇妙な叫び声をあげた。


「……早っ! 断るの早っ!」


 突然爆発したエステルをながめ、メルクリオは平坦な声を返す。


「だって無理なものは無理だし」

「なんでよ! もうちょっと考えてくれたっていいじゃん!」

「考える余地もない。認可生以外の生徒を大図書館に入れるのは無理。そういう決まりだ」


 少女の怒りを、番人は淡々とあしらう。暗に自分が大図書館の番人だと認めてしまったことに気づいたが、今さらなのでこのまま話を進めることにする。どうせ、嘘はつけないのだ。


「だいたい、なんで今頼み込んでくるんだ。認可生を目指すつもりだったんじゃないの?」

「そうだよ」

「じゃあ、そのまま目指せばいいじゃん」


 メルクリオが素っ気なく返すと、エステルは唇を尖らせた。


「――私がたくさん勉強して、先生にも認められたら、あなたが認可生にしてくれるの? そうしたら、必ず大図書館に入れてくれる?」


 ぴくり、と黒い眉が動く。


 子供のわがままのようにも思える言葉は、けれどやけに鋭く聞こえた。


「生徒の中から選ばれた人だけがグリムアル大図書館に入れる。そんな噂を聞いたときから、私、ずっと考えてたんだ。その生徒を選ぶのは誰なのか、って。『大図書館に入っていい生徒』を決めるんだから、それを選ぶのは先生じゃなくて、大図書館の番人その人なんじゃないかって」


 エステルはそこで、ぐっと両手を握りしめる。気合のこもった顔をメルクリオの方に突き出してきた。


「だったら、認可生になっても、番人さんから直接お許しを頂いても結果は同じ。だから私ね、この学校でもし番人さんに会えたら、直接お願いしようって決めてたんだ。大図書館に入るなら、早い方がいいから」

「……許可をもらえる前提なのがすごいな」


 メルクリオは、鼻息荒く詰め寄ってくるエステルから距離をとった。思わず頭を抱える。


「その前向きさ尊敬するわ。まぶしすぎてめまいがする」

「えへへ、それほどでもぉ」

「褒めてない」


 真剣みに欠けるやり取りをしつつ、メルクリオはひそかに舌を巻いていた。


 聡い少女だ。正直、見くびっていた。


 近頃の人々は、大図書館の番人の実在を本気で信じていないようだ。同じことは今のグリムアル魔法学校の学生にもいえる。認可生を決めるのは教師たちだ、と思っている生徒も多い。番人のことをきちんと知っているのは、王国上層部の人々と学校関係者、それから過去の認可生くらいだろう。


 そんな中で、エステルは認可生制度の実態を早々に見抜いた。無邪気にグリムアル大図書館の逸話を信じているだけかもしれないが、子供の発想と受け流すのは危険だ。


 ――それに、大図書館への執着が強すぎるようにも見えて、気にかかる。


「――というわけで! どうか、お願いします!」


 メルクリオが警戒水準を一段階引き上げたところで、エステルがまた頭を下げてきた。重い空気を吹き飛ばした一声に、さすがの番人もたじろいだ。隣でルーナが飛び上がっている。


「だから、だめ。無理」

「そこをなんとか!」

「なんとか、じゃねえよ。だめなもんはだめだ」


 メルクリオは、語気を荒げて切り捨てる。エステルは、それでもめげていなかった。不満そうな顔をしつつも、爛々らんらんと光る目でこちらをにらんでくる。食い下がる気満々だ。


 メルクリオは、盛大にため息をつく。――これでは埒が明かない。


 しかたがない、と言い聞かせるように呟いて。唇を一度閉じてから、また開いた。


「『もたらすは空白、いざなうは忘却。記録された事象に刃を突き立て』――」


 先ほど紡げなかった呪文を詠唱で形にする。しかし、その途中でエステルの方も口を開いた。


「『我が体は我が物なり、我が心は我が物なり。我は今、その神秘を拒絶する』!」


 口早に唱えられた呪文はアエラを急激に呼び集めた。二人の間で、赤や青の火花が勢いよく弾けた。メルクリオはとっさに飛びのき、『消去』の呪文を宙に刻んでみずからの詠唱を打ち消す。顔ににじんだ汗をぬぐって、少女をにらんだ。


「っ、んのガキ……!」

「これは噂通りだった」


 エステルは、したり顔で笑った。


「『大図書館の番人に出会ったら記憶を消される』っていう話はいっぱい聞いてたから、精神魔法に対抗できる打ち消しの魔法を暗記したんだ。古い魔法みたいで、覚えるの大変だったよ」


 へらへらと笑って頭をかく姿は、今しがた高度な打ち消しの魔法を放った人間のものとは思えない。メルクリオはつい舌打ちをした。先ほどちらと聞こえた無責任な噂が、今に限ってはでたらめと言い切れないのも腹立たしい。


『これはちょっと想定外ですね。手加減していたとはいえ、あなたの魔法を相殺するなんて……』


 それまで黙って成り行きを見ていたルーナが、メルクリオの耳元でささやく。彼は無言でうなずいた。


 記憶に干渉する魔法は、少しでも加減を間違えるといじるつもりのなかった記憶さえもいじってしまう。最悪の場合、相手の日常生活に支障をきたす可能性もあった。だから、かなり手加減したのだ。


 生徒を傷つけることが目的ではないから、それが最善の選択だった。だが――。


「……方針を変えるかな」


 メルクリオは細くささやく。ルーナのいぶかるような視線には気づいていたが、あえて何も言わなかった。


 代わりに息を吐いて、エステルの方に足を進める。それを見て、彼女が再び臨戦態勢をとった。


「……私、あなたのことは誰にも言わないよ。それに、記憶を消そうとしたって無駄」

「もうしない。やっても無駄だってのは、今のでよくわかった」


 刺々しく言い放つ少女に、メルクリオも吐き捨てる。そして、エステルの前に立つと、あえて見せつけるように右手を持ち上げた。


「ただし、保険はかけておく」

「……保険?」


 エステルが不思議そうに目を瞬く。その間に、メルクリオは宙に指を走らせた。七つほどの古語を素早く連ねる。最後にメルクリオが指で文字を弾くと、それらはひとつにまとまって、エステルの額に吸い込まれていった。


「うわ!? なになに、何したの?」


 エステルが額を押さえてのけぞる。引きつった声を上げて騒ぐ少女を、メルクリオは冷淡に見つめた。


「今見たもの、ここで俺が言ったことは、俺たち以外の誰にも話すな。少しでも話そうとしたら、あんたはグリムアル大図書館に関わるすべてのことを忘れる。――そういう魔法をかけた」


 言葉を重ねるごとに、少女の顔はこわばった。けれど彼女は、少年の声が途切れると表情を引き締める。


「誰にも言わないってば。それに、大図書館に入ることもあきらめないよ、私」

「……好きにすればいい」


 ため息をこらえて言い返し、メルクリオは踵を返す。その後を、エステルが何も言わずについてきた。


 しかし、演習場から校舎に入ってすぐ、メルクリオは体の向きを変える。それを見たエステルが目を丸くした。


「教室、そっちじゃないよ?」

「知ってる」


 淡白に返し、メルクリオはちらと少女を振り返る。


「俺は用事を済ませてから追いつく。先に戻って怒られてろ」


 それだけ言って再び背を向け、歩き出した。


「なんで私が怒られる前提なの!?」


 背中に少女の金切り声がぶつかる。メルクリオはそれを無視してを進めた――東門の方角へと。



     ※



『……ずいぶんと思い切った方針転換ですね』


 エステルの姿が見えなくなった頃、ルーナがぽつりと呟いた。メルクリオは、視線だけで彼女を見る。


「記憶操作の魔法を連続でかける気力がなかった」

『普通は、条件付きの記憶操作の方が消耗します』


 切り返すルーナの声は、いつもより刺々しい。それを感じ取った番人は、思わず苛立ちを吐き出した。


「なんだよ。甘いとでも言いたいのか」

『わかっているじゃないですか』


 ルーナがそっぽを向く。体の形が球体なので一見わかりづらいが、メルクリオには見慣れた変化だ。


「はいはい。俺がわるうございました」


 彼は投げやりに返す。彼女に叱られているときは、どういうわけかいつもより感情的になってしまうのだった。


 月の名を持つ相棒の目が、少し狭まった。


『……何か起きたときに一番傷つくのは、あなたなんですよ?』

「わかってるよ」


 優しい声は、メルクリオのやわらかい部分をたしかに揺さぶる。


 ふと、立ち止まった。足もとに視線を落とす。


〈封印の書〉を強く抱いた。


「……そんなの、嫌というほどわかってる」


 しぼり出した声は、むなしく響く。


 今度、ルーナは何も言わない。メルクリオも、それきり何も言わずに歩きつづけた。

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