第7話 番人と少女の攻防戦
「おはよう、メルクリオくん!」
「おはよう」
「昨日のことだけどね――」
「無理」
教室に着いてすぐ、エステルがメルクリオのもとにやってくる。さっそく顔を近づけてきた彼女に対し冷たく応対した少年は、そのまま教室の中に入っていった。後ろから「手ごわいな!」などという声が聞こえてくる。まだあきらめていないらしい。
メルクリオはため息をひとつつき、適当な席に座る。エステルの席から離れたところを選んだのは、意識してのことだ。
「昨日? エステル、メルクリオと何かあったのか?」
「秘密ー」
そんなやり取りが教室の後ろから聞こえてきたが、メルクリオは無視して教科書と筆記用具を取り出した。
それからやや経って、教室前方の扉が開き、先生が入ってくる。
「おはようございます、一年生のみなさん。今日はいい天気ですねえ」
歴史の授業を担当する男性教師ケートゥスは、綿毛のような口ひげを揺らして笑った。
常にゆったりと話すケートゥス先生の授業は、いつも穏やかに進む。この日もそれは変わりなかった。
「さて。ここからは『シェラ・レナリア大戦』の話に入りますよ。グリムアル魔法学校の歴史にも関わっていますから、みなさんも多少知っているかもしれませんが……」
彼がそう口にした瞬間、メルクリオはわずかに眉を寄せた。老齢の教師が自分を見たことに気づいたからだ。しかし、彼はすぐ何事もなかったかのように語りはじめる。
「『シェラ・レナリア大戦』は、人間と精霊の陣営と魔族の陣営が争った戦争のこと。発端は、この世界に魔族が侵攻してきたことです。魔族というのは、意志を持つアエラ、つまり精霊が変質して、自然のアエラを乱す体質になった種族のことですね」
魔族についてはあとで詳しく話しましょう、と笑ったケートゥスは、手元の本をめくりながら語り続ける。
「魔族の中でも特にアエラへの影響力が強い者は、この世界の隣にある別の世界で暮らしていました。それが突然、攻めてきたのです。人間と魔族、精霊と魔族がぶつかりあう戦いはあちこちで拡大し、大戦となりました」
魔族はアエラを自在に操るうえ、凶暴な者が多い。そのため、精霊と人間が力を合わせてもなかなか退けることができなかった。そんな中、あるものが開発される。
「魔族を封じる書物、〈封印の書〉。ポラリスという若い魔法使いが開発したその書物が人間と精霊の陣営に広がると、たちまち形勢が逆転しました。暴虐の限りを尽くした魔族の多くが〈書〉に封印され、彼らに付き従っていた魔族たちは降参し、自分たちの世界へと帰っていきました。こうして、十年近く続いた大戦が終結したのです」
ケートゥスの語りを聞く生徒たちは、どことなく退屈そうだ。グリムアル魔法学校の学生にとっては常識の範囲だからだろう。そんな彼らを見渡して、ケートゥスは「ポラリスと〈封印の書〉は必ず覚えてくださいね。試験に出ますよ」とほほ笑む。そして、分厚い本を教卓に置いた。
「終戦後、〈封印の書〉はオロール王国のある都市の館で保管されることになりました。その館は、大戦の影響で所有者がいなくなって放置されていたそうです。〈封印の書〉の開発者であるポラリスは、館の管理と〈書〉の見張りを精霊プラネテスとともに引き受け、死の間際までその仕事を続けました」
ポラリスの死後、プラネテスと相性のよかった別の魔法使いがその仕事を引き受け、以後、力ある魔法使いに受け継がれてゆくこととなる。
ケートゥスは、そこまで語って窓の方へ視線をやった。彼が見ているのは――グリムアル大図書館がある方角。
「やがて、その館は貴重な書物を収める図書館となり、管理者の魔法使いは『大図書館の番人』と呼ばれるようになります。そして、その大図書館を隠すように建てられたのが、このグリムアル魔法学校なのです」
教師の声音は少しばかりしんみりしている。彼の目が、またメルクリオを見た。メルクリオは何も応えず教科書をめくる。
そこで、マルセルが手を挙げた。
「先生、質問いいっすか」
「もちろんです。なんでしょう、マルセルくん」
「大図書館の番人って、今もいるんすか?」
窓際の席に座っているエステルが、ちらりとメルクリオの方を向く。当人はこれまた知らないふりをした。
「もちろん。今も〈封印の書〉を見張り、すぐ近くでみなさんを守ってくれていますよ」
ケートゥスはそう言って、また白いひげを揺らした。
※
授業の後も、エステルの猛攻は続いた。
「メルクリオくん、お願いがあるんだけど――」
「却下」
「まだ何も言ってないじゃん!?」
その日の一限の後、だけではない。すきま時間、メルクリオを見つけるたびに、彼女は元気よく突進してきた。授業と授業の間だろうが昼休みだろうがお構いなしだ。
『保険』をかけたときのメルクリオの言葉を覚えているのか、少しでも人の目がありそうなところでは「大図書館」や「番人」という言葉は出さない。が、何度もメルクリオに何かを頼み込むその姿は、すぐに注目の的となった。
「おまえらほんとに何があったんだよ」
三日後の昼休み、とうとうマルセルが呆れたように聞いてくる。エステルはすぐさま「秘密!」と答えたが、生徒たちの好奇心――あるいは疑念――はそれだけではおさまらなくなっていた。
「毎日毎日にぎやかで、結構なことね」
少し離れたところから、ヴィーナが口を挟んでくる。そんな彼女とエステルを見比べながら、ティエラが「けんかでもしたんですか?」と問うてきた。遠慮がちな女子生徒の問いを受け、ようやっとメルクリオも頬杖をついて口を開く。
「けんかってほどじゃない。こいつがしつこく頼みごとをしてくるだけ」
メルクリオはエステルをじろりとにらむ。にらまれた方はまったく委縮せず、むしろ胸を張った。
「メルくんはずっと断ってんのか?」
カストルがマルセルの後ろから顔を出して訊いてくる。メルクリオはうなずいた。それを見て、カストルの反対側から出てきたポルックスが、エステルに湿っぽい視線を送る。
「しつこい女子は嫌われるよー」
「それ、意味ちがくない!?」
エステルが怒鳴ったところで、それまで興味なさげに本を読んでいたユラナスが顔を上げる。かと思えば、静かな瞳で二人の方を見つめてきた。
「どんな会話をするのも自由だけど、ほかの人たちに迷惑をかけないようにね」
注意する声音は穏やかだ。その分、言葉そのものが鋭く突き刺さる。メルクリオは頭をかいたのち、誰にともなく「ごめん」と言った。彼が望んでやっていることではないが、当事者の一人であるには違いない。
エステルも、さすがに気まずくなったのか、背中を丸めてごにょごにょと謝罪した。
それ以降、エステルが突撃してくる回数は少し減った。しかし、メルクリオの心が休まることはなかった。むしろ、人目を避けるようになったぶん、より対処に困るようになった。
「メルクリオくん、大図書館に入れてください!」
「一日――いや、数時間だけでいいから!」
「どうか! どうかお願いします!」
そのたび、メルクリオは「無理」「却下」「だめ」「できない」を駆使して断り続けたが、頑固な少女はまったく引き下がらなかった。
そんな『お願い攻撃』は一週間にわたって続き――
「私を! 大図書館に! 入れてください!!」
「無理だっつってんだろ! あんただいぶしつこいな!?」
――とうとう、メルクリオは我慢の限界を迎えた。
ひと気のない小さな中庭。その真ん中で声を荒げた少年は、肩で息をしながら少女をにらみつける。しかし、彼女はまったくひるまない。
メルクリオは舌打ちすると、その場に座り込む。芝生はほどよく冷たくて、しっとりとやわらかい。しかし、ささくれた番人の心は少しも癒されなかった。
「ほんっっとその根性だけは尊敬するわ! 根性、だ、け、は!」
「それは私の台詞だよ」
エステルも刺々しく返してくる。どうも、頼み込む側も似たような苛立ちを感じていたらしい。
メルクリオは、わざと大きなため息をつく。少しの間、芝生をにらんだのち、エステルを見上げた。
「……なんでそんなに必死なんだよ。前にも言ったけど、素直に認可生目指せばいいじゃんか」
「私を認可生にする気、ないでしょ?」
「今はな。数年したら気が変わるかもしれない」
「でも、少なくとも五年は新しい認可生が出てない」
エステルがぎゅっと目を細める。
「ってことは、あなたが五年間、生徒を誰も大図書館に招き入れてないってことでしょ。そんな中で私だけ都合よく選ばれる、なんて思えるほど鈍くはないつもりだよ」
メルクリオは再びため息をつき、目を逸らす。図星だった。
五年どころではない。もっと前から、認可生を選ぶことを拒否している。まともにその選定を行ったのは、正式に大図書館の番人となった直後の二回だけだ。その二回で――学生を招き入れるべきではない、と悟った。
もちろんエステルだって入れたくない。けれど、彼女自身はかたくなだ。
「それに正直、何年も待ってられない。その間に、手遅れになるかもしれないから」
ローブを強く握りしめて、言い聞かせるように呟いている。その言葉を拾ったメルクリオの眉が跳ね上がった。
「手遅れ?」
引っかかった言葉を繰り返すと、エステルの顔がこわばる。
大図書館の番人は、冷たい光を湛えた灰青の瞳を彼女に向けた。
「何が手遅れになるんだ。――あんた、大図書館に入って何をしたいんだ?」
鋭く問う。エステルが息をのんだ。
エステルはグリムアル大図書館で何をしたいのか。それは、メルクリオが触れないようにしてきた疑問だった。
訊けば彼女の事情を知ることになる。知れば情が生まれてしまう。情に流されてしまうことを恐れたから、問うことを避けてきた。
けれど、内容次第では知らない方が危険かもしれない。エステルがここまで食い下がるなら、なおのこと。そう思ったから、重い口を開いた。
苦々しく沈黙する二人の上を爽やかな風が通り抜ける。葛藤を抱えて佇む彼らのそばで、月光が息をひそめている。
何度目かの、葉擦れの音。それが消えたのち、エステルが息を吸った。
「――探したいものが、あるんだ」
しぼり出すような言葉。メルクリオは答えない。無言で続きを
「シリウス・アストルムの研究書。その中で、大図書館にあるものを全部見たい。どうしても」
そして続いた言葉に、目をみはる。表情の変化を見たからか、エステルがふっと笑った。今まで見たことのなかった、すさんだ微笑だった。
「シリウス・アストルムは知ってるよね?」
「……当たり前だろ」
メルクリオはうめくように答えた。
シリウス・アストルムは、魔法研究者だ。精霊や魔族に関する研究で優れた成果をいくつも残している。魔法使いなら知らぬ者はいないほどの偉大な研究者だった。しかし――三年前、
シリウスの逮捕後、彼の研究書や彼が関わった書物の多くが発禁・処分になっている。
「けど、大図書館にはあるんでしょ? どんなに偉い人でも、大図書館には手出しできないから」
「そうだな。
メルクリオは少しだけ姿勢を正してエステルを見上げる。まだ疑問は解消していない。
「で。その研究書を見てどうするんだ?」
「……なんの研究をしていたのか、詳しく知りたい。調べたい」
少女は、小さな手を拳にする。震えて骨が浮き出るほど、かたく、強く握って。
「そうしたら、お父さんが逮捕された理由がわかるかもしれないから」
震える声で紡がれた言葉を聞いて、メルクリオは息をのんだ。
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