第二章 〈鍵の教室〉の子供たち
第28話 『東方神話集 第八巻』
広大な地下室は、明かりが乏しく薄暗い。四方を囲む壁沿いに大きな棚がずらりと並び、その中は様々な書物で埋め尽くされていた。書架以外の家具はなく、あとはただ空白が広がっている。
グリムアル大図書館の地下室。かつてこの世界に攻め入り、封印された魔族たちが眠る、言葉通りの魔窟。普段は不気味な静寂に包まれているその空間が、今は激しく震動していた。
だだっ
牡牛と対峙するのは、一人の少年と小さな精霊。魔族たちを見張るべくこの館に居続ける、大図書館の番人と館長だ。
牡牛が鼻息荒く突進してくる。それを転がるようにかわした少年――つまりメルクリオは、起き上がるなり右手を牛の方へ突き出した。
「『風よ、渦巻け』!」
端的すぎる詠唱に呼応して、アエラがざわりと沸き立つ。一瞬後、窓などないはずの地下室に突風が吹いた。それは牛を取り囲んで渦を巻き、巨体をわずかに浮かせる。
牛が空中でもがき、激しく咆哮した。部屋を囲む書架が小刻みに揺れ、魔法の明かりが不安定に波打つ。直後、天井に黒雲が現れて、青白い雷光がほとばしった。
雷雲をにらみつけたメルクリオは、しかし眉一つ動かさない。ただ淡々と、口を動かした。
「『根源たる力よ。天を漂い、地に潜む偉大なる
細い稲妻が、黒雲の間で何度もはしる。それでもメルクリオは言葉を止めない。
「『この地の御霊は今、魔に惑わされり。同一たるものたちよ、その流れに語りかけ、その流れを揺り動かし――』」
風の渦が勢いを弱め、牛が地に投げ出される。
地下室全体が白に覆われ、轟音が鳴り響いた。
「『――
雷が落ちたその瞬間、アエラが少年の頭上で渦巻き、流れをつくり、青白い筋にぶつかった。雷電は激しく音を立てながら飛び散り、暗い雲は吹き飛ばされる。揺らいでいた魔法の明かりが元の球体に戻り、しん、と部屋が静まり返った。
しかし、すぐに揺れが襲ってくる。巨大な牛がもがいているせいだ。床に手をついてしのいだメルクリオは、幾度も床に叩きつけられる牛の尾を一瞥する。そして、めいっぱい息を吸った。
「今だ、エステル!」
息とともに、声を吐き出す。ほぼ同時、牛の尾のむこうから人影が飛び出した。金髪を振り乱して駆けた少女は、その勢いのまま牛の巨体にしがみつく。
「『木は目覚め、あるがままの姿へ還り、獣をその足もとに縫いとめる』!」
詠唱は高らかに響き渡る。一瞬後、床がめきめきと盛り上がって木の幹のような質感に変形し、牛に絡みついた。それは一か所だけでなくいたるところで起き、牡牛の胴や四本足をがっちりと固定する。
メルクリオはすぐさま両手を掲げた。
「〈封印の書〉第九百七十三番『東方神話集 第八巻』」
この牡牛に対応する〈封印の書〉は、彼の手もとに現れるとひとりでに開いた。〈封印の書〉――巻物の両端をしっかりと持った少年は、輝く文字に目を走らせる。
「『牡牛の蹄は地震をもたらし、その咆哮は嵐を呼ぶ。黒き角をふりかざし、牡牛は人里を荒し回った。困り果てた人々は、外から来たメンカリナンに助けを求める』――」
声に反応した文字の光が、音もなく浮き上がる。それが封印魔法の呪文詠唱だと気づいたのだろう。牡牛が激しく暴れ出した。
少女がその胴にしぶとくしがみつき、「『絡みつき、縛れ』、『絡みつき、縛れ』――」と繰り返す。魔法学校の教師が聞いたら眉をひそめそうな呪文詠唱だが、今はそれでも構わない。目的と想像がしっかりしていれば、どんな言葉でも呪文になりうるのだから。
彼女が奮闘している間にも、メルクリオは淡々と詠唱を続ける。そのたびに文字が踊り、牡牛を取り囲んだ。
「エステル、離れろ!」
檻が形成されつつあることを確かめたメルクリオは、少女に鋭く呼びかける。彼女が飛びのいて尻餅をついたとき、彼は最後の一節を唱えた。
「――『それを三度繰り返したのち、ついにメンカリナンは牡牛を投げ飛ばした。牡牛は雄叫びを上げ、もがいて暴れ回った。メンカリナンは牡牛にまたがり、巨体を押さえつけた。牡牛が息絶えるまで、決してその上からどかなかった』」
輝く文字に作り出された半球は、真っ白く輝くと急速に縮む。牡牛を押しつぶしたのではないかというほど小さい球体になると、ふわりと浮き上がって巻物に吸い込まれた。メルクリオが片手を離すと、巻物は勝手に巻きなおされ、紐でしっかりとくくられた。
地下室に、真の静寂が戻る。ややあって吐息の音が響いた。それはそれは盛大なため息である。
「よ、よかったあ……なんとかなった……」
尻餅をついたままの体勢だったエステル・ノルフィネスがその場でうなだれる。苦笑したメルクリオは、巻物を小脇に抱えて彼女に歩み寄り、細い肩を叩いた。
「お疲れ様」
「うん……。メルクも……」
力なく答えた少女はけれど、顔を上げると歯を見せて笑う。すぐにでも崩れそうだが、やわらかな笑顔だった。
『今回は、私の出番がなかったですね』
メルクリオのかたわらを飛んでいるルーナが、薄羽を動かして呟く。精霊の言葉に、契約者は肩をすくめた。
「冗談よせ。ルーナの結界がなかったら、俺たち今頃、頭打って死んでる」
「怖っ! けどまあ……それもそうだね」
ぶるりと震えたエステルが、巻物をにらんで肩を抱く。それに気づいたメルクリオは、意地悪くほほ笑んだ。
「ちょうどいい。この〈封印の書〉、エステルに戻してもらおうか」
「ええー?」
案の定、不服そうな声が上がった。しかし、頼もしい助手はそれ以上の反抗をしなかった。「わかったよ」と低い声で答えて、立ち上がる。
エステルが呼吸を整えている間に、メルクリオは地下室の隅へ走って、寝かせてある
そこへ駆け寄ってきたエステルに指示を出し、『東方神話集 第八巻』の収蔵場所を教える。こわごわと梯子を上る彼女を見送ってから、メルクリオは何食わぬ顔で詠唱し、飛んだ。
ひし形に区切られた書架。その中にはびっしりと巻物が収められている。ひし形のひとつをにらんだエステルは、恐る恐る〈封印の書〉をその中に差し入れた。その手は終始震えていた。
「うぅー……こ、こわ……」
「そんなにおびえなくて大丈夫。アエラを流し込んだり開いて音読したりしない限り、魔族が飛び出してくることなんてないから」
エステルは、虫にでも触れていたかのように素早く手を引っ込める。彼女の様子を横で見ていたメルクリオは、淡々と口を挟む。それは、少し前に彼女に教えたばかりのことであった。
エステルは「そうかもしれないけど」とぼやきながら金髪を振り乱す。頭ではわかっていても怖いものは怖い、というところだろうか。
メルクリオは腕を組んでため息をつく。
「……ま、恐れもしないで軽率に〈封印の書〉を開かれるよりはいいか。気をつけて下りなよ」
そっと足を動かしはじめた助手に気づき、番人はいつもの調子で声をかける。返事はなかったが、彼女は小さくうなずいた。
エステルは足を踏み外すこともなく梯子を下り切る。そして、メルクリオが魔法で梯子を畳み、元あった場所に戻した。その様子を見ながら、エステルは首をひねる。
「あのさ。メルクは〈封印の書〉をいつでも呼び出せるんでしょ? さっきみたいに」
「ああ」
「じゃあ、一瞬で元の場所に戻すこともできるんじゃない?」
「できる」
エステルのもとに戻ってきたメルクリオは、あっさりと肯定した。少女はあっけにとられて固まる。
「でも、再封印のときは、なるべく自分で戻すようにしてる。今エステルがやったみたいにな」
「え、なんで?」
メルクリオが言い足すと、エステルは率直な疑問を投げかけてきた。変わらぬ助手の言葉に、番人も変わらず応じる。
「自分の体を使ってできることは自分でやりたい、っていうのがひとつ。これまではずっと
「なるほど」
「もうひとつは――」
淡々と言いかけて、けれどメルクリオは言葉を切った。なんとなく、このまま続けることにためらいがあったのだ。しかし彼の内心など知る由もない少女は、「もうひとつは?」と無邪気に急かしてくる。
メルクリオは、頭をかいて、のみこみかけた言葉を形にした。
「俺が大図書館の番人であることを再確認するため」
エステルが瞠目する。メルクリオは、ふっと笑って書架を振り仰いだ。
「自分の手で〈書〉を戻さないと、魔族たちがここにいることを忘れてしまいそうだからさ」
「……そっか」
ささやきのような相槌。そこに宿る感情がなんなのか、メルクリオは知らない。知らない方がいいだろうと、思った。
※
時は、秋の終わり。沈黙の季節の足音が聞こえはじめ、グリムアル大図書館を囲む木々も、葉を散らすものが増えてきた。
大図書館を囲うように在る魔法学校は、秋休みの終盤である。十日あまりの休みの間、メルクリオは潜入調査が始まる前のように静かな日々を送っていた。
『番人の助手』たるエステル・ノルフィネスはどうだったかというと――前半は実家に帰っていたらしい。数日後には戻ってきて、毎日のように大図書館へ顔を出していた。仕事を手伝うこともあれば、父の研究書とにらめっこしていることもある。今日は主に後者だったのだが、一冊目を読み終えたところで先ほどの牡牛の封印が緩んだため、メルクリオによって地下へと引っ張っていかれたのだった。
「はあ、びっくりしたよ。今日はじっくり暗号を探すんだ! って思ってたのに」
地上へ上がってきた後。再び研究書を広げたエステルが、机に突っ伏す。向かいで字がかすれた本の修復をしていたメルクリオは、ちらと顔を上げた。
「封印が緩んだときは、再封印が最優先。それは助手も同じことだ」
「はあい。覚えておきます」
多少不満そうではあるものの、エステルは素直に答えて目の前の本を閉じた。彼女がそれを脇に避けたのを見て、メルクリオもつかの間手を止める。
「それには何もなかったか」
「うん。変な文章も、暗号っぽいものもなかったよ」
「そっか」
エステルの父、シリウス・アストルムが逮捕された理由を探る――そのために彼の研究書を読み解いてはいるものの、なかなか進展はない。エステル自身も停滞感を感じているのだろう、体を伸ばしながら小さくぼやいた。
「ほんとに私が見つけられるのかなあ」
「俺よりシリウスに詳しい魔法使いなんて、ここじゃあんたくらいしかいないだろ」
「そうだけど。お父さんに詳しい魔法使いがいいっていうんなら、お母さんか叔父さんに見てもらった方がいい気がするよ」
それがいかに危険な行為かは、彼女もわかっているのだろう。あくまで愚痴、雑談の域を出ない言葉であった。
「特に叔父さんは詳しいと思うよ」
「シリウスの協力者だったんだっけか。俺は会ったことないけど」
修復を終えた本を慎重にどけながら、メルクリオは人の好さそうな男の顔を思い出す。エステルが、元気よくうなずいた。
「入学のきっかけをくれたのも叔父さんだしね」
「そういえば、そんなこと言ってたな」
「うん。お父さんが逮捕直前にも大図書館に行ってたらしい、って教えてくれたんだ」
何気ない一言。
それを聞いた瞬間、メルクリオは目を細めた。隣で、相棒のアエラも濃さを増す。
「……直前?」
『その叔父さんは、確かにそう言ったんですか?』
メルクリオの反問と、ルーナの問いが重なった。いきなりふたりに詰め寄られたエステルは、おろおろしながらもうなずく。
彼女から視線を外し、メルクリオは口元に手を当てる。
――最後に彼が来たのはいつだっただろう。直前、と言えるほど最近だっただろうか。
「……あの、メルク?」
おびえたような呼びかけ。それに気づいて、メルクリオは顔を上げた。眉を下げた少女に向かって、ひらりと手を振る。
「ああ、ごめん。ちょっと気になることがあったから」
「気になること? 何?」
「……考えがまとまってから話すわ」
軽々しく口に出してはいけない。そんな気がしたので、メルクリオは言葉を濁した。エステルは、釈然としない、といわんばかりに口を折り曲げる。が、問い詰めても無駄だと察したのだろう。すぐに研究書の山から次の一冊を手に取った。
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