第10話 名無しの魔族

 メルクリオたちを捉えた猿は、その場で叫び声を上げた。腹の底を突くような低音に耐えかねて、エステルが耳をふさいでいる。メルクリオもわずかに顔をしかめた。


 次の瞬間、猿は凄まじい速度でこちらに向かってきた。メルクリオはすぐさま身構え、右手を前に突き出す。


「『魔を拒む聖なる盾』!」


 呪文に呼応してアエラが集まり、メルクリオの眼前に半透明の大楯が現れる。それは猿の爪を阻み、さらに突進してくる彼を弾き飛ばした。


 斜め後ろでエステルが唖然としているが、構ってやる余裕はない。メルクリオはすぐさま光を灯した五指で空中を叩き、呪文を刻む。防御魔法を突き破って起きたつむじ風が、猿の表皮を鋭く切り裂いた。絶叫が上がり、猿がばねのように飛びのく。


『厄介ですね。今週中に新しく〈封印の書〉が入るとは聞いていましたが……よりにもよって、この子ですか』


 メルクリオのすぐ隣でルーナが呟いた。その表情は心なしか険しい。


「知ってるのか、ルーナ」

『知ってはいます。が、名前はわかりません』

「は?」

『この子は“名無し”なんです』


 ぽかんとしていたメルクリオは、相棒の言葉に息をのんで猿を振り返る。猿は敵意をむき出しにして、こちらをにらみつけていた。


『彼は元来、群れをなさない大猿の魔族の一頭でした。そして、魔族の例にもれず凶暴でした。いえ――魔族の中でもことに攻撃性が強く、時に同胞や精霊にすら牙を剥いたそうです。彼らにも手がつけられず、シェラ・レナリア大戦よりさらに前に、名前を取り上げられたと聞いています』


 魔族は個々の名前を持たない者がほとんどだ。その代わり、自分たちの種族名はとても大事にする。もともと精霊と同じアエラの集合体である彼らにとって、自分たちの存在を定義づける『名前』は、肉の身や意思を保つ重要な要素のひとつなのだ。その名前を取り上げられたということは、精霊や仲間から存在を否定されたに等しい。


 名を取り上げられた魔族は大きく力を削がれることがほとんどだが、まれに理性の方を失う者もいるという。あの猿は後者だったようだ。


 さらにそれが〈封印の書〉の魔族となると、大図書館の番人にとっても大きな問題になる。


「名前がないんじゃ、〈封印の書〉を検索できないじゃないか……!」

『だから厄介なんですよ!』


 ルーナが悲鳴じみた声を上げながら薄い結界を張る。ちょうどそこへ猿が飛びかかってきて、攻撃は弾かれた。しかし、猿は何度も毛むくじゃらの腕を振りかざしてくる。素早く鋭いひっかき攻撃は、確かにオグルのそれより凶悪かもしれない。


「きりがないな――『砕け集いて天へと昇れ』」


 詠唱と同時に、メルクリオは石畳を足で叩く。すると、石畳の一部が剥がれて粉々に割れ、それが竜巻のごとく渦を巻いて猿に襲いかかった。


 猿が岩土に叩かれている間に、メルクリオは飛びのいて距離を取る。身をひるがえしてエステルの手を取った。


「ちょ、メルク?」

「時間稼ぎだ。あれを引きつけつつ、作戦を考える」


 言い終わるやいなや、メルクリオは石畳を蹴って駆けだした。エステルはもたつきながらもついてくる。手もしっかりと握ったままだ。


「あの、作戦考える前にいっこ聞いていい?」

「何」

「〈封印の書〉が検索できないとかなんとかって……どういうこと?」


 メルクリオは、あー、とうめいた。短い逡巡ののち、口を開く。


「まだ大図書館に入ってない〈封印の書〉の情報は、俺にもわからないんだ。わからないと手もとに呼び出すことができない」

「えっ、それじゃあ封印できないじゃん。前はどうやったの?」

「オグルのときはそこのルーナに探してもらったんだ。オグルについて書かれた書物の中に〈封印の書〉があるかどうか」


 エステルは、薄羽を持つ光の球をぎょっとして見ている。ルーナは何も言わない。自己紹介をしている余裕はない、と判断したのだろう。メルクリオも同感だった。


「ルーナは古今東西あらゆる〈封印の書〉を探すことができる。でも、それにも元となる情報が必要だ。その情報ってのが〈封印の書〉に割り振られた番号、本の題名、魔族の名前。このいずれかがわからないと、検索は難しい」

「だから、名前がないおサルさんの〈封印の書〉は探しづらい?」

「そういうこと」


 理解が早くて助かる、とおどけたメルクリオはしかし、直後に振り返る。そのときを見計らったかのように、猿の絶叫が響いた。


 石畳の竜巻を振り切ったらしい猿が猛然と走ってくる。あろうことか、渦巻く石の粉をその身にまとわせたまま。


「あいつ、俺の魔法を逆用しやがった!」

『うわあ。アエラを操れるだけの知性は残ってるんですね。これは同胞が手を焼くわけです』


 顔をこわばらせた番人の横でルーナがしみじみと呟く。「感心してる場合か!」と叫んで、メルクリオは足を速めた。しかし、猿の方が明らかに俊足だ。すぐに圧力と息遣いが迫り、巻き上げられた石の粉が降りかかる。


 背後で小さな悲鳴が上がった。


「エステル!」


 メルクリオは、エステルと繋いでいる方の手をとっさに引く。同時に足を斜め後ろに動かして身をひねる。そうして、自分と少女の立ち位置を素早く入れ替えた。


「メルク!?」


 猿が腕を振り上げる。石の粉がぶわりと押し寄せる。一瞬目に痛みを覚えたメルクリオは、無意識のうちに顔を覆っていた。


 しまった、と思うと同時、前方のアエラが熱を帯びる。メルクリオのすぐ隣のアエラもわずかに膨れた。相棒の声が彼を呼んだとき――


「『春にあそぶやわらかな風、ここへきたりて砂をさらえ』!」


 彼女のものではない、力強い少女の声が呪文を紡いだ。


 生温かい風がメルクリオたちの後方から吹き抜けて、石の粉を飛ばす。ついでに、猿もわずかに押し返された。薄目を開けたメルクリオは、とっさに口を動かす。


「『根源たる力よ、あるべきところへ還りたまえ』」


 とたん、あちこちに散っていた石の粉が吸い込まれるように地面へ戻っていく。ほぼ同時に、薄い光が少年少女を覆った。


 メルクリオとエステルは、揃って深く息を吐く。


「よかったあ……。即興だったけどうまくいった」

「一年生で即興とか、末恐ろしいな」


 父親の件がなければ、〈杖の教室バークルマ〉か〈冠の教室クローナ〉に入れたのではないか。メルクリオはそんなことを考えながら、へなへなと身をかがめた少女をながめる。それから、ふと目を細めた。


「……今のは、助かった。ありがとう」


 低い声で感謝を述べると、エステルは顔を輝かせる。


「役に立てたならよかったよ!」


 そう笑った彼女はしかし、少し顔を動かしたのちに頬をひきつらせた。猿と目が合ったらしい。


「わ、わあ……なんかすごく怒ってるような……」

「最初からだろ」

「どうしようか、あの魔族さん」

「そうだな……」


 猿の動きを警戒しつつも、メルクリオは口元に指をかける。思考を巡らせたのち、指を鳴らした。


「――よし。思いついたわ、作戦」

「ほんと?」

「ああ。あんたにも手伝ってもらう」


 メルクリオは改めて身構え、瞠目しているエステルを振り返る。


「俺は今からできる限りこいつを足止めする。あんたには、その間に〈封印の書〉を探し出してもらいたい」

「〈封印の書〉を? でも私、どんな本かわからないよ」

「それは俺もだ。冊子か巻物、あるいは文字が彫られた石板――そんなものが近くに落ちているはずだ。強力な魔法がかかってるから、近づけばわかる」


 口早に言ったメルクリオは、灰青の瞳を狭める。そこに映る少女の顔を、焼き付けるように見つめた。


「できるか? エステル・ノルフィネス」


 ためらいなく、透明な声で。大図書館の番人は、彼女の『今』の名を紡ぐ。


 呼ばれた少女は息を詰める。それから、唇を引き結んでうなずいた。


 よし、とささやいたメルクリオは、猿に向き直って右腕を掲げる。


「『鎖よ』」


 静かな詠唱。それに呼応して、すぐに光る鎖が現れた。術者の腕に合わせて躍った鎖は猿の体に素早く巻き付く。猿は悲鳴を上げて暴れ出した。


「行け!」


 石畳を踏みしめて鎖を制御しながら、メルクリオは叫ぶ。エステルが弾かれたように駆けだした。迂回して、猿の横を通り過ぎる。ひとまず、最初に彼と遭遇した場所へ行くつもりらしい。


 悪くない判断だ。メルクリオは口の端を持ち上げた。それからあえて腕の力を緩める。猿が鎖を引きちぎった。


 甲高い音が響く。アエラの鎖は空を舞い、水晶のように光を瞬かせながら消えていく。メルクリオはそれを見もせず猿と対峙する。


「さて。根競べといこうじゃないか、名無しの魔族殿」


 挑発的な言葉の意味がわかったのか否か。猿は低くうなると、メルクリオめがけて跳躍した。高く低く声を上げながら、激しく腕を振りかざしてくる。常人であれば取り乱しそうな攻撃にも、メルクリオはまったくひるまない。素早く後ろに跳んで、連撃を冷静にかわした。


 だが、猿の魔族も執念深い。歯をむき出しにしてうなったかと思えば四本足で飛び上がった。濃密なアエラを手足と口のまわりに集中させている。


 メルクリオは鋭く右手を振った。


「『石よ、つるぎとなり魔を貫け』」


 道の端に転がっていた小石が浮き上がり、短刀のように変形する。それは猿の顔に向かって飛んだ。猿は振り回した腕でそれを払いのけて、叩き落とす。地面に落ちて砕けた小石は今度、破片すべてが浮き上がる。


 メルクリオは右手で呪文を刻みながら、左手を指揮者のごとく振った。


「『飛べ』!」


 詠唱に従い、小石の破片は猿の全身を打つ。板戸に当たる雨のような音を猿の怒声がかき消した。


「『生命の源泉よ、我が手に集え』、『霧となりこの影を隠せ』」


 メルクリオは一切ひるまず呪文詠唱を連ねる。空気が湿ってつかの間冷え切り、白い霧が生まれた。それが通路中に広がると、メルクリオは石畳を指でなぞる。アエラの光が呪文を描きだし、輝いて地面に吸い込まれた。一瞬後、周囲の石畳が一斉に盛り上がり、連なって伸びる。それは石とは思えぬしなやかさで猿の足に巻き付いた。


 霧が薄らぐ通路のただ中。少年と魔族が無言で向き合う。猿は全身に力を込め、両腕を振り回して石を叩き割ろうとする。対してメルクリオも、石に絶えずアエラを注ぎ込みつづけた。


 いつまでも続くかに思われた攻防は、けれど唐突に終わりを告げる。あるとき猿がぴたりと動きを止めた。かと思えば、口を喉の奥まで見通せそうなほどに大きく開く。――ほどなくして、口腔こうこうにアエラが集まりはじめた。


『メルクリオ!』


 相棒の鋭い警告。メルクリオは返事をせず、けれどじりじりと後退した。十分に距離を稼いだ後、打ち消しの呪文を虚空に刻む。猿を拘束していた石がばらばらと崩れ、地面に戻っていった。


 次の瞬間、猿の口の中で赤い輝きが生まれ、放たれる。大気を焦がすほどの熱光線は、霧を突き破って飛んできた。


 無茶苦茶だ、と心の中で悪態をつく。けれど思考とは別に、メルクリオの口は呪文を唱えていた。


「『冬よ来れ』、『白雪は冷気をまとい塔となる』」


 猿のアエラに晴らされた霧の先から雪が降る。それはメルクリオの手もとに引き寄せられるように集まり、たちまち白い塊を築いた。呪文通り塔のような雪に、熱光線がぶつかる。じゅわじゅわと凄まじい音を立てながら雪が溶け、その狭間から湯気が噴き上がった。


 やがて、赤い光は途切れがちになる。魔族の攻撃をなんとかしのいだメルクリオは、なおも後ろに下がり続けた。溶かされた雪のむこうで、猿が背を丸めているのが見える。両目は相変わらずこちらを射抜くような光を放っていた。


「まだやる気かよ」


 げんなりして呟く。頬を伝い落ちる汗を感じながら、左右に視線を走らせた。


 エステルの姿はまだ見えない。アエラを探ってみたいところだが、魔族のアエラが邪魔をして難しそうだ。


 いま少し、時間稼ぎが必要らしい。メルクリオは腕で汗をぬぐい、またも跳躍した猿を迎え撃った。

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