第33話 怒りと傷と 1
そよ風が木々をざわざわと揺らし、少年たちのローブをはためかせる。沈黙の中で、木の葉が踊って地に落ちた。
メルクリオは、先ほどまでつかまれていた腕を見る。それから、ゆっくりと顔を上げた。
何が起きたのか――何をしたのかを、ようやく自覚する。情報とともに、冷たいものがひたひたと頭の中を満たした。
全身がこわばる。何か言わなければと、震える唇をひらく。けれど、彼が言葉を発する前に、マルセルが
「……っんだよ。そんなに怒らなくたっていいだろ」
拳を握って吐き捨てた少年は、わざと音を立てて身をひるがえした。鳶色の瞳が、メルクリオをにらみつける。
「もう知らねえ。おまえなんか二度と誘わねえよ!」
憤然と叫んだマルセルは、大股で来た道を戻っていった。かすかにこぼれた声は、もう彼には届かない。
メルクリオは、どうすることもできずに同級生を見送った。その姿が完全に見えなくなると、両手で頭を抱えてうつむく。静かだった呼吸の音が徐々に激しくなり、低いうめき声が漏れた。
冷たい汗が全身ににじんで、顔がゆがむ。
『メルク』
「……る、さい……」
『メルク、大丈夫ですから。ちゃんと息をして』
「うるさい!」
すぐそばで響く非現実的な声が、ひどく耳障りだった。あの日を想起させる音を振り払おうと、少年は引きつった声で叫ぶ。
けれど、声はやまない。
『メルクリオ。あなたはもう、大図書館の番人です』
淡い光がまなうらに差し込んで、夜の火のような温かさが全身を満たした。
メルクリオは、灰青の瞳を見開いた。ひどく熱かった頭が冷めて、一拍ごとに呼吸が穏やかになってゆく。
歯を食いしばる。隙間からまた、獣みたいな声がこぼれる。
額から流れて頬を伝った汗が、ぽたり、と落ちて足もとを黒く染めた。
「……ごめん」
『……大丈夫ですよ』
耳元でささやく声は、変わらず優しい。けれど、メルクリオはその場にくずおれた。
うずくまり、情動のままに声を絞り出す。
形にならない言葉は、色づいた木立の中に吸い込まれていった。
※
茂みをかき分け木立の奥を覗いていた双子は、荒々しい足音を聞いて振り返った。鼻息荒く歩いてきたマルセルに手を振る。
「あ、マルセルー!」
彼らが揃った声で呼びかけると、マルセルは顔を上げた。
「山羊は?」
「どっか行った」
いつもよりやや低い問いかけに、少年たちはきれいな二重奏を返す。それを聞いたマルセルは、舌打ちして地面を蹴った。
「くそっ。やっぱり逃げられた!」
「なにカリカリしてんのさ」
さすがに、カストルがじっとりと目を細めた。その隣でポルックスが身を乗り出す。
「あれ、メルくんは?」
そう問われた瞬間、マルセルは双子の弟をにらんだ。それからすぐに、顔を背ける。
「知らねえよ。あんな奴」
カストルとポルックスは、琥珀色の目をしばたたいた。数秒顔を見合わせたのち、わかりやすい同級生に向き直る。
「ははーん。さては」
「けんかしちゃったな?」
そっくりな二人に迫られたマルセルは、顔をしかめて後ずさる。
「け、けんかなんて……」
「ごまかしたって無駄だよ」
「無駄だよー。さっきまで『あいつも呼んでくる』って張り切ってたのにねー」
目を細めた双子は、それから流れるようにマルセルと距離を取る。彼は怒ることなく、けれど相手の言葉を認めることもせず、もぞもぞと口を動かした。
「けんかじゃねえよ。あいつがいきなりキレてきて」
彼の言い分をゆっくり聞くつもりでいた双子は、しかしその言葉に目を丸くする。
「キレた?」
「メルくんが?」
マルセルは小刻みにうなずいた。その対面で、双子がまた顔を見合わせる。
「えー? ちょっと意外」
「でもさ、普段静かな人ほど怒ると怖いって言うよね」
ささやきあった双子はしかし、そこでぴたりと口を閉じる。少しずつ近づいてきた足音に耳を澄ませ、音の方を振り返った。
「誰が怒ると怖いの?」
さっぱりとした少女の声が、重い空気を一刀両断する。
少年たちが見ていたのと反対側の木立から、ユラナスとエステルが顔を出した。
「なんだか気になる話が聞こえたんだけど」
「あ、ユラとエステル」
「意外な組み合わせ」
頭の葉っぱを払った少女たちは、お互いを見て首をかしげる。「そうかな?」と碧眼を瞬かせたエステルに、ユラナスがほほ笑んだ。彼女は先んじて少年たちに歩み寄る。
「たまたま近くで観察してたんだよ。君たちもでしょ」
「うん。おれたちは――」
「でっかい山羊を見つけたんだ。逃げられちゃったけど」
ユラナスが、へえ、と呟き、エステルは身を乗り出した。
「この森、山羊なんているんだ」
楽しそうに頬を染めるエステルの隣で、ユラナスが顎に指をかける。
「山羊もすごく気になるけど……。その話がどう『怒ると怖い』に繋がるかも気になるな」
「あー。それはね……」
引きつった笑みを浮かべた双子は、少女たちにこれまでのことを説明した。マルセルの言い分まで聞いたところで、エステルが「あちゃあ」と額を押さえる。一方のユラナスは淡白だった。
「確かに意外だ。あんまりそういうことはしない子だと思ってた」
「そうでもないよ。私、結構怒られたことある」
エステルの証言に、全員が目を丸くした。視線を一身に浴びた少女は、作り笑いを浮かべて頭をかく。
「あ、でもね。大体私が悪いんだ。やりすぎちゃったり、無茶しちゃったり」
双子とユラナスが納得した様子でうなずく。一時期、二人が毎日のように言い合いをしていたことを思い出したのだ。
そして、彼らの視線はそのままマルセルに移る。見られた本人は当然、不快そうに眉を寄せた。
「な、なんだよ」
「いや。マルセルは何しちゃったのかなーって」
「なんもしてねえよ! 山羊を追っかけようって誘っただけ!」
「……それ、シュエットさんは行くって言ったの?」
堂々巡りのやり取り。そこに、ユラナスが割り込んできた。赤毛の少年の顔がわずかにこわばる。目を泳がせた彼は、胸の前で手を組んで、ごそごそと動かした。
「……いや。あんまり乗り気じゃなくて……」
かたい沈黙が落ちる。
エステルが頬をかき、ウィンクルムの双子はかぶりを振って両手を挙げた。ユラナスは「なるほどね」と呟いて、遠くを見る。
「シュエットさんと会ったの、どこ?」
唐突な問いかけに、マルセルがつかの間固まる。しかし、静かな黒茶の瞳に見つめられると、慌てて来た道を指さした。
「こ、この奥だよ。赤いちっちゃい花がたくさん咲いてるとこ」
「わかった。ありがとう」
うなずいたユラナスは、マルセルが指さした方角に足を向ける。エステルが慌ててその背中に呼びかけた。
「ユラナス、どこ行くの?」
「シュエットさんの様子を見てくる。怒って冷静じゃなくなってる人を、森で一人にするのは危険でしょ」
踏み出したユラナスは「観察、続けてて」と言い残して、そのまま奥へ歩いていく。
四人は、去りゆく背中を呆然と見ていた。
少ししてポルックスが「ユラは大人だねえ」と呟く。その声で我に返った面々は、気まずい顔を見合わせた。
「で、おれたちはどうしようか」
「と、とりあえず。このあたりで観察を続けない?」
わたわたと提案したエステルに、双子が「さんせーい」と返す。マルセルも、むっつりとしたままうなずいた。
しばらくの間、ほとんど無言で観察を続ける。目的の動植物はいくらでも見つかったが、四人の間には息が詰まるような空気が漂っていた。
沈黙に耐えかねたエステルが口を開きかけたとき、二人分の足音が響く。ユラナスの帰還に期待して、少女と双子が顔を上げた。しかし、やってきたのは別の同級生たちである。
「なんだ、あなたたちか」
「みなさんお揃いだったんですね」
ユラナスと反対の方向から歩いてきた少女たちが、意外そうな顔をする。エステルたちも、驚いて立ち上がった。
「ティエラにヴィーじゃん」
「二人も一緒に観察中?」
手を振るカストルを一瞥して、エステルが問いかける。予想に反して、二人はかぶりを振った。
「いえ。私たちは別々の場所で観察をしていたんですけど……」
「こっちの方から変なアエラを感じたから、様子を見にきたのよ」
控え目なティエラに続いて、ヴィーナが尖った声で言う。それを聞いた四人は、思わず首をかしげあった。
「変なアエラ……って、なんだろう?」
「あ。さっきの山羊かな」
む、とエステルが目を細めた直後に、カストルが手を叩く。ほかの三人が納得しかけたところで――どこかの茂みが大きく鳴った。
後から来た少女たちが、一斉にマルセルの方を見る。そして、顔をこわばらせた。視線に気づいた少年は、草をかき分けていた手を止めて立ち上がる。
「なんだよ」
「う、うしろ――」
「だ、だめです。振り返らないで」
震えるヴィーナを制止するように、ティエラが言葉をかぶせた。首をかしげたマルセルは、王女の忠告を聞かずに後ろを見る。
「え」
そして、凍りついた。
マルセルの真後ろの茂み。そのむこうには、巨大な狼がいて。うなりながら、ぎらついた目で子供たちをにらんでいた。
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