第32話 〈かくれの森〉の野外実習

 ある日の放課後。時を告げる鐘の余韻が消え、生徒たちのはしゃぐ声が校舎のまわりに響き渡る。


 そんな中、エステル・ノルフィネスが大きなあくびをした。隣を歩いていたメルクリオは、両手で口もとを覆った少女を横目で見る。


「お疲れだな」

「つかれたぁ……」


 力ない声が返ってくる。メルクリオは肩をすくめ、姿を消している精霊と視線を合わせた。


 いつもはメルクリオの方が早く教室を出てグリムアル大図書館に直行しているのだが、今日は帰りが一緒になった。彼がある理由からコルヌ・タウリーズに呼び出されていたからである。その理由というのが――


「いきなり聞き取り調査なんてものが始まるんだもん。緊張したよ……」


 目尻ににじんだ涙をぬぐって、エステルがぼやく。メルクリオは淡白にうなずいた。


「二年生の〈杖の教室バークルマ〉で粉々になった青銅の塊、覚えてるだろ。あれからヒトのアエラが検出されたんだと。それで解析が進んできたから、生徒と教師への聞き取りを始めよう、ってことになったんだ」

「ああ。やっぱりそういう話だったんだね」


 秋休み前に起きた魔法暴発事件。その詳細を大図書館の番人の口から聞いていたエステルは、驚きもせずにうなずいた。だが、すぐに唇を尖らせて、石畳を蹴りつける。


「でもさ、なんでうちの教室だけ全員が呼ばれたんだろ。ほかの教室は一部の人だけだったんでしょ?」

「そりゃあ……〈鍵の教室〉は人数が少ないからな、基本的に」


 ほかの教室の生徒数が三十人ほどで統一されているのに対し、メルクリオたちの教室の生徒はたったの八人。ほかの学年を見ても〈鍵の教室〉は少人数で、多い学年でも十人ほどだ。


「その上、今年の一年〈鍵の教室〉は優秀な生徒ばかりだ。先生たちも、一応全員に注意しておかなきゃならない、と思ったんだろ」

「だからって、金属の中に別のものを移動させる、なんてことができる人はいないと思うけどなあ」

「本性を隠してる人がいるかもしれないだろ。俺みたいに」


 そこで、エステルがぴたりと足を止める。彼女はメルクリオをまじまじと見て、片側の頬を引きつらせた。


「……メルクが犯人だったら、誰にも手がつけられないね」

「そうか?」


 メルクリオは首をかしげる。


「さすがに、この学校の教師が束になってかかってきたら、かなり苦戦すると思うけど」

「先生たちが束になってかからなきゃいけない時点でやばすぎるよ」


 わずかに声を荒らげたエステルに、メルクリオはやはり不思議そうな顔を向ける。隣でルーナが笑っていることには気づいていたが、その意味を問うことはしなかった。ろくでもない答えが返ってきそうだったので。


「疲れてるなら、『仕事』は無しにするか?」

「うーん……ちょっとはやりたい……。体を動かすのはできる気がするから」


 そんなやり取りをしながら、生徒たちの流れを抜け出そうとしたとき。「さようなら!」「ごきげんよう」と近くでいくつもの挨拶が弾ける。それに答えていたらしい教師が、二人に声をかけてきた。


「あら、メルクリオさん、エステルさん」


 メルクリオは顔をしかめ、エステルは目をみはる。二人が振り返ると、正門付近に立っていたヴェルジネ・リアンが手を振りながら歩いていた。


「学長先生!」

「二人とも、変わりないようね。安心しました」


 エステルに笑いかけたリアンが、そのままメルクリオの方へ顔を動かす。メルクリオも形だけほほ笑んだが、その一瞬、二人の周囲だけが吹雪いたように思われた。


 リアンは、何事もなかったかのようにエステルへ目を戻す。


「一年生の〈鍵の教室〉は、聞き取り調査があったでしょう。授業の邪魔をしてごめんなさい」

「いえ、大切なことですから! ……ちょっと疲れましたけど」


 胸を張ったエステルはしかし、すぐに背を丸めて頭をかく。くすりと笑ったリアンは、優しい瞳で彼女を見た。


「それなら、今日はしっかり息抜きして、早く休んでくださいね。明日は確か、〈かくれの森〉での実習があるでしょう」

「あ――そうだった!」


 学長の言葉に、エステルは顔を輝かせる。そのまま勢いよくメルクリオを振り返った。


「メルク! 明日だよ、初めての野外実習!」

「あー。そうだな。よかったな」


 何と返したものかわからなかったメルクリオは、適当に相槌を打つ。騒がしい二人をにこやかに見守ったリアンは、その後「では、さようなら」と一礼して正門の方へ戻っていく。エステルが元気よく「さようなら!」と返して、全力で手を振っていた。



     ※



〈かくれの森〉は、グリムアル魔法学校の敷地内にある広大な森林だ。清らかなアエラで満たされており、様々な魔法的現象を見ることができる。さらに、実り豊かで動物も多い。そのため、しばしば野外活動の場として活用される。


 実習以外での立ち入りは原則禁止だが、エステル・ノルフィネスは一度だけこの禁を破っていた。


 そう。名無しの魔族暴走の折に、彼女が〈封印の書〉を見つけたのは、この森の端である。


 そんな〈かくれの森〉で一年生〈鍵の教室〉が行う初の実習は、動植物の観察だ。この森では時折、アエラの影響か不思議な成長や進化を遂げた動植物を見ることができる。その一部は魔法薬の材料になったり、研究に使われたりする。


 そういったものたちを発見、観察し、感じたことを記録する。それが生徒たちに与えられる課題だ。


「みんな揃ったかなー? 記録用紙もちゃんと持ったー?」

「はーい」


 森の前に集った少年少女を見渡して、アストリア・カマリが声を上げる。何人かの生徒が元気よく応じた。


 カマリは大きな帽子の大きなつばをつまんで、楽しげに片目をつぶる。


「よろしい! それじゃあ、〈かくれの森〉野外実習を始めるよー!」


 彼女の号令に合わせ、拍手や歓声が起きる。それが収まるのを待って、カマリは言葉を続けた。


「内容は昨日話したとおり。実習区域の中なら何を観察してもいいけど、なるべく動植物を傷つけないように気をつけてね」


 くるり、と手袋に覆われた人差し指を回す。すると、空色のオウムが飛んできて、彼女の肩にとまった。


「私とチェロちゃんで森の中を巡回しているから、何かあったら知らせてね!」


 生徒たちはそれぞれにうなずいた。人によっては、腰に革帯ベルトで固定した小さな鞄を気にしている。記録用紙と筆記用具をこの鞄の中に入れているのだ。


 それを見て、カマリは満足そうにうなずき――手を叩いた。


「それじゃあ……観察、開始!」


 言うなり、彼女は踊るようにして生徒たちから距離を取る。それを合図に、八人の少年少女は森の中へ入っていった。


 活動的かつ好奇心旺盛な生徒たちは、すぐに各々散らばって、動物や植物を探しはじめた。そんな中でのんきに歩いていたメルクリオは、少女の声に呼ばれて振り返る。


「うわっ! メルク、見てよ!」


 茂みのそばでしゃがみこんだエステルが、頬を紅潮させてこちらを見ている。メルクリオは、首をかしげつつもそちらに足を向けた。


 茂みの中には大きな黄色い花をいくつも見いだせる。エステルはそれを興奮気味に指さしていた。


「これ! コリュウノオじゃない?」

「そうだな。にしても、ずいぶん大きく育ってる」


 それは、オロール王国の各地で見られる植物だ。黄色い花弁が密集しうねっている様が竜の尻尾に見える、というのが名の由来らしい。しかし、本来はもっと小さな植物だ。目の前の花々のように、メルクリオたちの身長に迫るほど大きな個体はない――と、されている。


「これも、森のアエラの影響かなあ」

「そうだと思う」


 メルクリオが淡白に答えると、エステルは歓声を上げて記録用紙を取り出した。書き損じの紙片を束ねたそれに、うきうきと植物の名前を書いている。


 その間にも、後ろで黄色い声が上がった。


「何、あの蝶。きれー!」

「あんな蝶々見たことないよー」


 はしゃぐヴィーナとポルックスの前を、白銀色の透き通った羽をもつ蝶が通り過ぎる。その蝶が飛んだあとには、虹色の薄い光が舞っていた。


「そこらへんを飛んでる蝶に似てるんだけどなー。あんな色のやつ、いるっけ?」

「そこらへんを飛んでる蝶だよ。もともとは羽の色が茶色だけど」


 蝶の軌跡を目で追うカストルの隣で、ユラナスが呟く。「まじで?」と振り返った双子の片割れに、茶髪の少女は悪戯っぽくほほ笑んだ。


 橄欖石ペリドットの瞳を輝かせて蝶に見入っていたティエラが、そこで手を叩いた。


「そういえば、あのしゅは蝶の中でもアエラの影響を受けやすいのだと、本で読んだことがあります」

「そうなのか。ティエラはだなー」

「そ、そうでしょうか。ありがとうございます……」


 感心のまなざしを向けるカストルに、ティエラは恥ずかしそうに返した。やり取りを見ていたユラナスが肩をすくめていたことに、彼らは気づいていない。


「あの蝶にまつわる面白い話も書かれていました。〈かくれの森〉に生息するものは、かつては羽が夕日のような美しい赤色だったそうです。それが今は、あのような白銀色に変わっているんですよ」


 王女の語りを聞いて、コリュウノオを見ていたメルクリオたちも立ち上がる。エステルが彼女の方へ駆け寄った。


「なんでだろう? アエラの質が変わったのかな?」

「そうではないか、と言われていますが。原因はわかっていません」


 へー、という声がいくつも上がる。その中でメルクリオは、自身の右側をちらと見た。月光のアエラがわずかに揺らぐ。


『あの蝶、私たちに振り回されていますね。なんだか申し訳ないです……』


 精霊のささやきに、契約者は思わず吹き出した。



 その後も生徒たちは森での観察を続けた。仲のいい相手と固まる子もいれば、同級生と一定の距離を保ちつつ一人で観察に勤しむ子もいる。


〈かくれの森〉全体で見れば、実習区域はほんの一部分だ。それでも十二歳の子供にとっては十分以上に広い。迷子になっては大変なので、生徒たちは自然と同級生が見える場所を選んでいた。


 しかし、何事にも例外はある。メルクリオは、その『例外』の一人だった。


 木々の下を駆けるリスを観察していたかと思えば、アエラの影響で実が巨大化している低木を見つけて駆け出す。低木の記録が済むと、遠くの茂みめがけて突撃していった。


「これ、『魔法薬用植物総覧』の二巻に乗ってた薬草! 今も自生してるのか」

『〈封印の書〉を普通に読破する番人は初めて見ましたよ……』

「この花、ザウラクの『森の植物図鑑』で見たな。こんなに小さいんだ」

『挿絵だと大きさがわかりにくいですからね』

「あ、これは――」

『それは大図書館のまわりにもよく生えてますよ。ちょっと落ち着きなさい』


 ルーナにぴしゃりと注意されて、メルクリオはようやく顔を上げる。穂のような赤褐色の花々を見て、苦笑した。


「驚いた。ちょっと足を延ばすだけで、こんなにたくさん実物を見られるんだな」


 我知らずこぼれた呟きに反応してか、ルーナのアエラがわずかに張りつめる。それまでの呆れた様子とは違う感情の波が、メルクリオの中に伝わってきた。


「……楽しいなあ」


 それに気づいてなお、メルクリオはほほ笑んだ。草木の香りを、風の冷たさを、ここにあるすべてを噛みしめるようにして。


 金色の小さな光が宙にこぼれる。ルーナが何かを言いかけたらしい。しかし、彼女の声が奏でられることはなかった。その前に、騒がしい足音が聞こえたからだ。


 赤毛の少年が、木の根を飛び越え駆けてくる。


「あ、いた! メルクリオ!」

「マルセル? どうしたんだ」


 かがんで茂みに見入っていたメルクリオは、立ち上がってローブを軽くはたく。そこへやってきたマルセルは、勢いよく身をのりだしてきた。


「さっき、あっちですげーもん見たんだ! メルクリオも来いよ!」

「す、すげーもん……?」

「山羊だよ山羊! 真っ黒で、こーんなでっかいんだ!」


 マルセルは両腕を回し、つま先立ちになった。その山羊がいかに立派かを表現しようとしているらしい。一方、メルクリオは彼の言葉そのものに違和感を覚えた。


「山羊? こんなところに?」


 この森には山羊など生息していない。誰かが飼っているはずもない。


『……森妖精プーカですかね』


 ルーナが低くささやく。それを聞いて、メルクリオは眉を上げた。


 森――つまりは魔族だ。力じたいはさほど強くないので、今でも多くがこの世界で暮らしている。


「追っかけてみようって、双子ジェメリと話してるんだ! メルクリオも来いよ!」


 マルセルの声で我に返ったメルクリオは、しかし目を泳がせた。


「ええ……俺もか……」

「なんだよその反応ー」


 野生の魔族にはできるだけ関わりたくない。ルーナの――強大な精霊のアエラが、彼らを刺激してしまうかもしれないからだ。


 悩むそぶりを見せつつ思考を走らせたメルクリオは、断るための言葉をなんとかひねり出す。


「俺は、もう少しこのあたりを見て回りたいんだけど」

「そんなの後からでもできるだろ!」

「いや、あんまり外ででかい動物見たくないし……」

「なんだよ、怖いのか? 俺たちが前に立つから大丈夫だって!」


 マルセルは得意げに胸を張る。どうしてもメルクリオを連れていきたいらしい。行く気のない当人は、困り果てて頭をかいた。


 マルセルはマルセルで痺れを切らしたらしい。「あー、もう!」と叫ぶなり、彼の腕を勢いよくつかんだ。


 メルクリオは瞠目する。全身が一気に冷たくなった。


「ちょっ……」

「また一緒に戻ってきてやるから、行こうぜ! 早くしないと逃げちまう!」


 意気揚々とそう言って、マルセルはつかんだ腕を思いっきり引いた。


 かすかな痛みが走る。同時、メルクリオはめまいを覚えた。


 音が遠ざかる。色が抜け落ちる。遠い記憶が、去来する。


 動かせない体。

 痛みと、大きな声。

 こちらを見ない男女。


 笑って手を振るあの子たち。


 たすけてとさけぶ、彼らの、こえが――



「――やめろ!」


 絶叫がこだまする。


 それが自分の声だと、すぐには気づけなかった。


 激しい心音で我に返ったメルクリオは、震える瞼をこじ開ける。


 ゆがんだ視界の中に、呆然と立ち尽くすマルセルの姿があった。

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