第34話 怒りと傷と 2

 メルクリオは、大木の下で膝を抱えて座っていた。


 丸まって、顔を膝の間にうずめる。何も見えず、木々のそよぐ音だけが聞こえるこの状態が、今は一番心地よかった。


『……落ち着きました?』


 うかがうように、ルーナが問うてくる。メルクリオはその姿勢のままうなずいた。


 ややあって、口を開く。


「あのさ」

『はい』

「……さっきは、当たってごめん」


 授業の最中であるから、ルーナは姿を隠したままだ。けれど、彼女が羽を震わせるさまが、少年には容易に想像できた。


『気にしないでください。私が声をかけるのが逆効果だということは、よく知っていますから』


 メルクリオは答えない。答えようがない。


『ほかに誰もいなかったので、つい口を出してしまいました』

「別に、いい。しかたないだろ」


 言いながらも、さらに顔を押し付けた。


「嫌になるよ」


 くぐもった声は、自分の耳には大きく響く。


 それは刃となって、彼の胸を引っかいた。


「……何十年も前のことをずるずると引きずって、ついには他人ひとにぶつけてさ」


 ルーナは今度、何も言わなかった。


 風が吹く。息を吐きだす。のろのろと、顔を上げた。


 謝らないと。


 そんな思いがひらめいて、我知らず草の上に手をついた。しかし、立ち上がることはできない。体に力が入らない。


 いら立って、情けなくなって――その後で、ふと目を瞬いた。


「……何考えてるんだ」


 関係を修復する必要などないではないか。


 メルクリオが魔法学校の生徒をやっているのは、潜入調査のためだ。マルセルと決裂したところで、調査には何も影響しない。


 そして、調査が済めば彼は大図書館の番人に戻る。メルクリオ・シュエットという偽りの生徒の記憶は、子供たちの中から消えるだろう。メルクリオが記憶を消さずとも、ほかの誰かがやるはずだ。


 どうせ忘れられるならば、友達ごっこなどしない方がいい。


「入れ込みすぎるな」


 いつかの館長の忠告を繰り返し、メルクリオは静かに嗤う。


『……メルク』


 彼女の声に応えることなく、再び膝を抱えた。


 しばし、静寂の中に身を置く。そのうち、彼の耳はかすかな音を捉えたが、彼の頭はそれを認識しなかった。


 気づいたのは、すぐそばで呼びかけられたときだ。


「――シュエットさん?」


 息をのんで、顔を上げる。茶色い髪を肩口で切りそろえた女子生徒が、じっとのぞきこんできていた。


「ユラナスさん」


 恐る恐る呼ぶと、ユラナス・サダルメリクは口元に笑みを刻んだ。


「やっと気づいた。何回か呼んだんだけど」


 え、とこぼしたメルクリオは、それから灰青の瞳を見開く。


「ごめん。家名で呼ばれるの、慣れてなくて」


『シュエット』というのは、大図書館の番人であることを隠したいときに使う姓だ。だからか、その名で呼ばれるとすぐに反応できないことがあった。


 もちろん、ユラナスにそこまで打ち明けるわけにはいかない。だが、彼女はメルクリオの少ない言葉から何かを読み取ったらしい。小さくうなずいた後、口の端を持ち上げた。


「エステルと似たようなことを言うね」

「……あー。エステルも、家名まわりでは色々あったみたいだからな」

「ああ、なるほど。だからか」


 ユラナスは感心したように、拳で手のひらを叩いた。


 メルクリオは、少女たちの間でどのようなやり取りがあったかを知らない。ゆえに、頭を傾けてその様子をながめるしかなかった。


 ほどなくして、少女の視線がメルクリオの前に戻る。


「にしても、安心したよ。思ったより落ち着いてて」

「どういうことだ?」

「マルセルと喧嘩した、って聞いたから。一応、様子を見にきたんだ」


 メルクリオは、小さくうめいて顔をしかめた。気まずさをごまかすように、頭をかく。


「それは……世話をかけた」

「いいよいいよ、あたしが好きでやっただけだ」


 軽く手を振ったユラナスは、大木の幹にもたれかかる。


「何があったの? マルセルからは、山羊を追いかけないか誘った、ってところまでは聞いたんだけど」

「そっか」


 少し黙ったメルクリオは、心を固めてから息を吸う。


「俺は、あんまり見にいきたくなくてさ」

「うんうん」


 ユラナスの相槌は、ほどよく静かだ。


「そのことを伝えはしたんだけど、マルセルも引き下がらなくて」

「なるほど」

「それで、その……」


 言いよどんだメルクリオは、少し前につかまれた方の腕を握った。


「嫌なことを、されて。取り乱して、怒鳴っちゃったんだ」

「嫌なこと?」


 ユラナスが身じろぎした。ローブがこすれる、乾いた音が響く。


「その話は出てこなかったな」


 彼女の声が低くなったことに気づき、メルクリオは慌てて言葉を繋いだ。


「マルセルは気づいてないと思う。悪気はなかっただろうし」

「……ははあ。繊細な話だね、どうも」


 少女はおどけたように、あるいは困ったように返す。メルクリオも、いたたまれなくなってうつむいた。


 重苦しい空気を打ち払うように、ユラナスが声色を明るくする。


「取り乱すほど嫌なことなら、怒鳴ってしまってもしかたがないよ。あたしだって、ネズミを目の前にお出しされたら、泣きわめいて怒り狂う自信があるもの」


 思いがけない言葉に引かれ、メルクリオはユラナスを振り仰ぐ。


「ユラナスさんはネズミが苦手なのか」

「うん。だいっきらい」


 彼女はぐっと目を狭め、顎を突き出した。メルクリオはつい吹き出してしまう。ユラナスも、小さく笑った。


 それから、茶目っ気たっぷりに片目をつぶる。


「……謝りにいくのは、明日以降をおすすめするよ」

「え? いや――」


 戸惑ったメルクリオに向かって、ユラナスは人差し指を軽く振った。この実習の担当教師がよくやるように。


「マルセルは、まだぷんすか怒ってるからね。頭が冷えてからの方がいい」


 彼にだって非があるのだし、と言う声は妙に凪いでいた。十一、二歳の発言とは思えない。メルクリオは苦笑してうなずいた。


 ユラナスは満足したようだ。うん、と呟いて上体を起こす。


「さてと。それじゃあとりあえず、エステルと双子ちゃんジェメリのところに戻るか。メルクリオさんはどうする?」

「……俺も行くよ。エステルが心配して突撃してくるかもしれないし」


 冗談めかして言ったメルクリオは、ゆっくりと立ち上がる。まだ足の感覚はおぼつかなかったが、なんとかよろけずに済んだ。


 ユラナスが手を差し出してくる。メルクリオは手を取ろうとして――途中で、止めた。


「……ん?」


 ユラナスも眉をひそめて、空を仰ぐ。


 アエラが妙に騒がしかった。どこか一か所に集まろうとしているようにも思える。


「なんだろう、これ」

「わからない。けど――」


 メルクリオはかぶりを振る。それから、空をにらんだ。


「――嫌な予感がする」


 ユラナスも同意見らしい。険しい顔でうなずくと、メルクリオの手を取って駆け出した。

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