第35話 森の猛者

「『地を蹴る足には力がみなぎる。それは羽根のごとく軽くなる』!」


 メルクリオたちの耳に早口の呪文詠唱が飛び込んできたのは、数分ほど走ったときだった。同時、凄まじい勢いで迫るアエラを察知した二人は、とっさに茂みの中へ身を隠す。そうっと顔をのぞかせて、思わず悲鳴をこぼした。


 同級生が一斉に走ってくる。そして、その後ろから狼が迫っていた。


 何をそんなに怒っているのか、狼は時折低くうなる。逃げる子供たちはみな必死の形相だ。明らかに脚力で劣る彼らが追いつかれていないのは、先ほどから発動している魔法で加速しているからだろう。


「『土よ、堅固な壁となれ!』」


 メルクリオは考える前に叫ぶ。狼の前の地面が低い音を立てて盛り上がった。それはたちまち一枚の高い壁を作り出す。メルクリオとユラナスが茂みから飛び出すと、同級生たちも足を止めた。


「メルク!」

「ユラあぁぁ、助かったああぁ!」


 エステルとポルックスが涙目で駆け寄ってきた。


 苦笑している少女のかたわらで、メルクリオはなんとなく頭をかく。ちらと視線を動かすと、荒く呼吸をしている少年と目が合った。彼は口を開きかけたが、状況を思い出したのか、すぐに顔を背けてしまう。


 メルクリオは小さくため息をついた。


 一方、ユラナスは腕を組んで土の壁を見上げる。


「なんで狼に追っかけられてるのさ」

「それがわかんないんだよ! あの後、ヴィーとティエラが来たと思ったら、マルセルの後ろからあいつが出てきてさあ!」


 ポルックスが涙声でまくし立てる。名前を出された少女が紫色の瞳を剣呑に細めた。


「わたしたちが狼を呼んだみたいな言い方、やめてよね」

「へ? あ、ごめん……そういうつもりじゃなくて……」


 ぜえぜえと息をしながら言い合った二人は、疲れた顔をユラナスに向ける。彼女は険しい表情で考え込んだのち、先ほど話に出たもう一人の少女を見やった。


 目配せに気づいたティエラは、自分たちが『変なアエラ』を追ってきたことを打ち明ける。それを聞いて、メルクリオとユラナスは無意識に顔を見合わせていた。


「変なアエラ、か」

「発生源はあの狼だろうな」

「メルクリオさんもそう思う?」


 確認された少年は、黙してうなずく。「だよねえ」と呟いたユラナスが、再び壁を振り仰いだ。けたたましい衝突音が響いたのは、そのときである。


 カストルとポルックスが抱き合った。


「ひっ! き、来た!」

「こりゃ突破されるな。――走れ!」


 メルクリオは、小刻みに震える壁を見て、一瞬で状況を判断した。とっさに声を張り上げて反転する。


「こーら。非常時にふてくされない」


 響く足音に混じってエステルの声がする。誰に向けられたものかは確かめるまでもない。居心地の悪さを覚えつつも、メルクリオは振り返らなかった。


「先生は気づいてるだろうか」


 隣に並んだユラナスが、顔色一つ変えずに呟く。メルクリオは彼女を一瞥して答えた。


「おかしな狼がいることには気づいてると思う」

「それにあたしらが追いかけられてるとは、まあ思わないよね」


 苦笑まじりの返答にかぶさるようにして、轟音が響いた。狼が壁を突破したらしい。舌打ちしたメルクリオは、急停止して身をひねる。


「しかたない。先生を呼んでくるか」

「いや、メルクリオさんはここに残って。その方が、生存率は上がると思う」


 ユラナスが声を張って切り返す。メルクリオだけでなく、残る六人もぎょっと顔をこわばらせた。茶髪の少女は全員を冷静に見渡して宣言する。


「あたしがカマリ先生を呼んでくる。だから、それまでなんとか持ちこたえて」


 メルクリオを除く六人の相貌に不安の影が差す。しかし、ユラナスは静かに言い切った。


「大丈夫。みんなならできる」


 同級生たちは、唇を引き結んで互いを見た。


 ――その瞬間、彼らの中でどんな思いが渦巻いたのか、メルクリオは知らない。


 彼はただ、ため息をひとつついて、身構えた。


「それなら、ちょっとは隙を作らないとな。――『風よ』!」


 彼が大喝すると、背後から突風が吹きつけた。それは子供たちの頭上をすり抜けて狼の方へと流れていく。


 その場の誰もが唖然としたが、ユラナスはすぐに口の端を持ち上げた。


「助かるよ、っと!」


 すぐさま反転した彼女は、短い単語を連ねたような呪文を唱えて跳躍した。すると、その体は高く高く舞い上がって、視界から消える。


「い、今のって、飛行魔法か!?」

「ううん。多分、浮遊魔法を何度もかけてるんだよ。器用だなあ」


 素っ頓狂な声を上げたマルセルの隣で、エステルが何度もうなずく。いつの間にやら、浮遊魔法と飛行魔法の見分けがつくようになってしまったらしい。


 メルクリオが苦笑していると、乾いた音がその場に響いた。両手を叩いた双子が、青ざめた顔に笑みを浮かべる。


「さてさて、こっからは持久戦だな」

「持久戦だ! がんばろー!」


 双子が空元気を見せた直後、黒い影が迫ってくる。やや遅れて、吠え声が響いた。応じるように詠唱を始めたのは、最後尾にいたエステルである。


「『森の木々は枝を伸ばす。そのかいなは絡み合い、猛る獣を留めんとする』」


 空気を打ち据えた呪文詠唱は、道沿いの木々に行き渡った。枝が自然ではありえない方向に伸びはじめ、背後の道をふさいでいく。


 それを見るなり、ヴィーナが「走って!」と叫ぶ。みんなが動き出すと、早口で詠唱を始めた。メルクリオとユラナスが最初に聞いた呪文だ。


 メルクリオはひとつうなずいて、気づかれぬように指を躍らせる。刻まれた古代文字が輝いて、ぱっと散った。ヴィーナの魔法を邪魔しない範囲で、同系統のものを重ねがけしたのだ。


「この魔法、速く走れるのはいいけど、あとでめっちゃ疲れるんだよね」

「狼に食べられるよりいいでしょ!」

「仰る通りで! 感謝しますわヴィーナ様!」


 ぼやいたカストルにヴィーナが噛みつく。メルクリオはやり取りを聞き流していたが、声が途切れるとヴィーナの方を見た。


 繰り返し呪文を呟く彼女の横顔は、ひどく切羽詰まっているように見える。この状況の中では当然のことだろうが、危機的状況ゆえの焦りだけではない何かがにじんでいる気がした。


「……ねえ、メルク!」


 すぐ隣で響いた声に思考を引き戻される。メルクリオは、はっとしてその方を振り返った。いつの間にか、エステルが並走していた。


「あれってもしかして、魔族?」


 彼女は後ろを指さして、不安げに問う。メルクリオはかぶりを振った。


「いや。あれはただのアエラを取り込みすぎた狼」

「それはただの狼じゃなくない!?」

「魔族ってのは、精霊が変質した種族だろ。アエラの感じからして、あいつは違う。普通に親の腹から生まれた野獣だ」


 メルクリオは、あくまで淡々と事実を述べた。しかし、エステルは納得できないというふうに眉を下げる。


 いつもなら議論か講義に発展するところだが、今回はそうならなかった。二人ともが、はっと顔をこわばらせたからだ。


 再びアエラの異様な動きを感じた。――そして、もうひとつ。


「――ヴィー!?」


 双子が悲鳴を上げている。振り返れば、ふらついたヴィーナを彼らが両脇から支えていた。ほかの面子と比べて明らかに疲弊している。魔法の使い過ぎだ。


 しかし、ヴィーナは双子の腕を押しのけて頭を持ち上げる。


「いいから……魔法、持たせないと……」

「だめだめ、ちょっと休め!」

「そうだよ! なに無茶してんの!」


 すぐさま立ち上がろうとするヴィーナを、カストルたちが慌てて制止している。その様子を見たメルクリオは、思わず自分の頭を小突いた。


「何やってんだ、俺は」


 毒づいた彼の隣で、アエラが揺れる。


『私も気づけませんでしたよ。狼とそのまわりのアエラに気を取られすぎましたね』


 ささやく声はやや沈んでいる。けれど、それのおかげで少し冷静になれた。細く息を吐きだしたメルクリオは、正面をにらむ。


 アエラが濃い。


 狼の咆哮がすぐそばで響き、空気が震えた。


「追いつかれ――」


 ティエラの悲鳴を聞いて、少年少女は震えあがる。


 メルクリオは再び反転し、彼らをかばうように進み出た。


「しかたない、迎え撃つ」

「わ、私も!」


 すぐさまエステルが駆け寄ってきた。マルセルも「しかたねえな」と吐き捨てて、足もとに落ちていた木の枝をひっつかんだ。


 ――狼は、そんな彼らを睥睨へいげいしていた。


 おそらく、一般的な個体の三倍はあるであろう巨体。そこにまとわりつくアエラはねっとりと濃く、〈かくれの森〉のそれとは思えない。体同様に大きな目はぎらついていて、吐息のぬるさがメルクリオたちに伝わるほど息遣いが荒かった。


「手加減できそうにないな、これは」

『ですね』


 メルクリオの独白にルーナが応じた瞬間、狼が足をたわめた。少年も口を開く。


「『風よ、衝け』!」


 再び、強い風が狼めがけて吹き抜ける。


 彼は顔の前で勢いよく両手を合わせ、詠唱を繋いだ。


「『生命の源泉よ、万物の苗床よ』」


 足もとの土がいくつかの塊となって浮き上がり、徐々に湿り気を帯びる。


「『混ざり合え』、『泥の弾丸前へ飛び、狙い撃つは荒ぶる獣』!」


 流れるような詠唱の直後、泥と化した塊が狼めがけて射出される。それらは巨体を勢いよく叩き、怒り狂っていた狼をわずかにひるませた。


「すげ……」


 双子が唖然として呟く。しかし、それに応える人はいなかった。


 狼が、背を丸めて低くうなる。気おされはしたものの、こちらへの敵意は緩んでいないらしい。


 マルセルが舌打ちして木の棒を構えた。


「くそ、俺だって――」

「待って!」


 踏み出そうとした彼を、エステルが鋭く制する。反論が飛び出す前に、彼女は大きく息を吸った。


「『黒き雲よ、集いてここに雨をもたらせ』」


 凛とした詠唱が天を衝く。狼が、耳をぴんと立てて空を見上げた。間もなく空が暗くなり、どこからか湧いた灰色の雲が視界も霞むほどの雨を降らせた。しかも、彼らのまわりにだけ。


 ずぶ濡れになったポルックスが、ヴィーナに覆いかぶさりながら叫ぶ。


「わー! エステル、やりすぎだ!」

「これでいいの! マルセル、行って!」

「おっ――おう!」


 名を呼ばれた少年が、背中を押されたように飛び出す。木の枝を低く構えた彼は、素早く狼との距離を詰めると、枝にアエラをまとわせる。狼の右前足に狙いを定め、それを鋭く突き出した。


 狼と枝の間で赤い火花が散る。しかし、火花として表出したアエラはすぐに霧散し、耳障りな破裂音が響く。


 細かい樹皮が舞い散る中、狼がいらだたしげに左の前足を振り上げた。次の瞬間、泥が噴水のごとくしぶきを上げ、少年の体が吹っ飛ぶ。


 いくつもの悲鳴が重なった。メルクリオはとっさに呪文を刻み、マルセルめがけて弾く。その体が地面に叩きつけられる直前、白金色の円板が地面に現れ、彼を優しく受け止めた。


「いっ……てえ……」

「マルセル、大丈夫!?」


 エステルが飛びつかんばかりの勢いでマルセルのもとへ駆け寄る。彼は、右手を振って笑った。その手のひらは皮が剥けて真っ赤になっている。


「へーきだ。右手以外は」


 エステルは目をみはり、「わ、大変」と悲鳴を上げた。けれど、すぐに両手で口もとを押さえて固まる。生温かい吐息に気づいたのだ。


「二人とも、下がれ!」


 メルクリオは、叫びながら右手を構える。再び虚空に呪文を刻もうとしたが――


「『我が根源たる力よ、七彩の壁を築きたまいて、我らを守りたまえ』」


 ――その直前に、清らかな詠唱が響いた。

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