大図書館の番人

蒼井七海

序章

第0話 魔窟の番人

 生ぬるい闇を、ふわふわと漂う無数の明かりが照らし出す。風に吹かれても水に濡れても球体の形を保ち続ける魔法の灯火は、けれど子供の手のひらほどの大きさしかない。この広大な地下室をまんべんなく照らすには、光量が足りていなかった。


 その光が――めったなことでは揺らがないはずの灯火が、ふっとぶれる。遅れて、低く大きな咆哮が部屋中に響いた。空気が震え、地面は揺れたが、壁際を埋め尽くす書棚は変わらず佇んでいる。


 大きな書棚に囲まれた広い地下室、その中央。一人の少年と一頭の獣が向かい合っていた。黒い短髪の少年は、灰青の目を細めて獣をにらむ。その手には分厚い本があった。


 対する獣は奇妙ないでたちである。頭と体はまさしく狼。しかし、臀部でんぶから生える尾は三つ又に分かれていて、生き物のようにうねっていた。――いや、その尾はまさしく生き物、蛇である。その上、獣の体躯はこの広大な部屋を圧迫するほど巨大だった。


 吠えた獣が少年めがけて突進する。彼が軽々と攻撃を避けると、獣はすぐに方向転換して少年を追ってきた。少年は身をかがめると、本を放り投げた。そのまま走って狼の腹の下に滑り込むと、その背後へと躍り出る。


 尾の蛇が、激しく威嚇の声を上げた。けれど、彼らが体を伸ばす前に、少年が口を開く。


「『炎よ』、『闇を照らす灯火のごとく、在れ』」


 静かに紡がれた言葉に呼応して、空中に小さな火の球が浮かび上がる。少年が腕を振ると、ふたつの炎は音もなくふたつに分かれ、飛んでいった。――それぞれ、狼の頭上と蛇の前へ。


 そして――


「『爆ぜろ』!」


 少年が叫んだ瞬間、炎が弾け、それぞれの顔を焼いた。


 耳障りな悲鳴がこだまする中、少年のもとにふわふわと本が飛んでくる。彼が手繰り寄せるそぶりを見せると、本は力を失ったように手元へ落ちてきた。


 異形に目を向けたまま、少年は本を開く。すると、ページがひとりでにめくれて、あるところでぴたりと止まった。


 燃え盛っていた炎が、ぱっと散る。獣によって振り払われたのだ。しかし少年は少しも動じず、古びた紙の表面に並ぶ文字を目で追った。


「『木々が爆ぜ、舞い、炎が踊る』」


 淡々と読み上げた。その声に反応してか、文字が一斉に光り輝く。そして、文字から剥がれ、分かれたかのような光が、獣に向かって飛んでいった。


「『真紅の炎は、轟々とうなりを上げて輪を描き、尾の蛇をたやすく焼き払う。やがてはその両目すらも焦がし、彼を深き眠りへと誘った』」


 文字が獣のまわりをぐるぐる回り、それはやがて赤い球体を生み出した。球体に囲まれた獣は、苦しげに咆え、ぎらついた両目を少年に向ける。少年は眉ひとつ動かさず、獣を見つめ返した。


「そう怒るなよ。遊びたけりゃ、また遊んでやる。――ただし、最短で五日後な」


 平坦な声音で告げた少年は、細く息を吸う。そして、ページ最後の一文に視線を落とした。


「『そうして獣は鎮められ、二度と目覚めぬようにと貴石の剣で封印された』」


 文字と球体の輝きがいっそう強まり、獣の姿を覆い隠す。絶叫のごとき咆哮を押し込めるように球体は縮まり、最後には光の帯となって本に吸い込まれた。


 光が収まり、本が沈黙する。地下室に暗闇が戻ってきた。


 本を閉じた少年は、ため息をついて革表紙を見つめる。


『――お疲れ様でした、メルクリオ』


 声が響く。少女のように高らかで、けれどひっそりとした声だった。


 地下室に、少年以外の人間の姿はない。けれど少年――メルクリオは少しも驚かず、無言でうなずく。


『念のために訊きますが、他の蔵書に損傷はないですか?』

「ないよ」


 端的に答えながら、メルクリオは足先で床を叩く。すると、白い光の波紋がふわりと広がった。


「ルーナの結界をどうこうできるほど強くはないからな、あいつ」

『高く評価していただけて光栄です』


 くすりと笑った少女の声にほほ笑んで、メルクリオは床を蹴った。


「『翼なき身は、大気をまといて翼とす』」


 力ある言葉――呪文が紡がれると、少年の体は宙に浮いた。そのまま軽やかに飛んだメルクリオは、地下室の四方を囲む書棚に視線を走らせる。そのうちのひとつに目を留めると、一気に下降した。ある書棚の前で停止し、そのわずかな隙間に本を差し入れる。きちんと収まったことを確認すると、額をぬぐった。


「さて、戻るか」

『ええ。もうそろそろ日の出の時間ですしね』

「……まじかよ」


 相方の言葉にげんなりしつつ、着地したメルクリオは部屋の端の梯子を目指す。群青色のローブが、ほのかな明かりに照らされた。



 オロール王国随一の学び舎・グリムアル魔法学校。その敷地内には、大きな図書館が建っている。


 限られた人間しか入ることのできないその場所には、いにしえの大戦で暴虐の限りを尽くした魔族が封印されているという。そして、その魔族を見張るため、この図書館には今も偉大なる魔法使いが住んでいる。


 その図書館は『グリムアル大図書館』と呼ばれ、そこに住まう魔法使いは『大図書館の番人』と呼ばれていた。



     ※



 グリムアル大図書館の地上階。地下室から戻って身支度と朝の仕事を済ませたメルクリオは、二階で書物の点検をしていた。


 静まり返った空間に、時折紙のこすれる音だけが響く。この場所で当たり前となっている静寂は、けれどふいに破られる。


 図書館中に、澄んだ音色が響いた。高らかなハンドベルの音だ。それに気づいたメルクリオは顔を上げ、書物を一度棚に戻す。立ち上がり、振り返った彼の目の前に、虹色に輝く星々の帯が飛んできた。彼を取り巻くなり弾けたそれは、『大図書館の番人』に人の来訪を知らせてくれる。


 弾ける星々を見ていた少年は、ふっと顔をしかめた。


「これって……」

『あら、リアンですか。学長御自らいらっしゃるとは、珍しいですね』

「うげ、やっぱりか」


 少年は、眉間にますます深いしわを刻む。かぶりを振ってため息をつくと、荒々しい足取りで歩き出した。


「いやだ……いきたくない……」

『あなた、本当にあの人が苦手ですよね』

「だって怖いもん……」

『“もん”って、子供ですか』

「何が楽しくて、朝っぱらからあの作り笑いを見なきゃならないんだ……もういっそしかめっ面しててほしい……」


 低く愚痴をこぼす少年を姿なき者がなだめる。幸か不幸か、そんな混沌とした状況を見ている者はいない。



     ※



 来訪者の女性は、今日も変わらず笑顔であった。


「おはようございます、メルクリオさん。今日は一段と空が美しいですわよ」


 メルクリオは、頬が引きつるのを感じながらも、なめらかすぎる挨拶に返す言葉をひねり出した。


「それはそれは。ぜひ見にいきたいものだ」

「そうですね、たまには外出なさってはいかがです? いくら広大な図書館とはいえ、室内にこもりきりは体によろしくありませんよ」

「そうしたいのは山々なんだけど、俺が一歩外に出るだけで騒ぎ立てる人々がいるのでね。なかなか思うようにはいかない」


 二人とも笑顔だが、交わされる言葉に温かみはほとんどない。


 来訪者の女性が、瞼の隙間から葡萄色の瞳をのぞかせた。


「声の大きな方々がいらっしゃるのですね」

「俺はあんたも『声の大きな方々』の一員と認識しているんだけどな?」

「あら。私はお庭でのお散歩を咎めるようなことはいたしませんよ」


 白々しくほほ笑んだ女性は、白い手を口もとに添える。


「……それに、外出を咎めてもいられない状況になっていますしね」


 か細いささやき。それを聞いて、メルクリオは眉を跳ね上げた。


「なんだ。面倒事か?」

「面倒事です。本日はその相談のため、参りました」


 女性はあっさりうなずいた。その顔からは笑みが消えている。


 メルクリオが無言で続きをうながすと、女性は小さな荷物の中から一枚の紙を取り出した。


「――グリムアル魔法学校で、今、魔法の暴発事故が増えています」


 彼女――グリムアル魔法学校学長の言葉を聞き、少年は顔をしかめる。


「暴発? 生徒が失敗してるだけじゃないのか?」

「我々も最初はそう考えていました。しかしここ最近、それだけとは思えない事案が相次いでいるのです」


 女性は両手で紙を差し出してくる。


 これを見ろ、ということか。察したメルクリオは苦々しさを覚えつつも紙を受け取り、その中身に目を通した。


 大きな紙いっぱいに、整然と文字が並んでいる。その内容は、今年に入って魔法学校で起きた魔法の暴発の一覧だ。日付と教室の名前、授業の内容、実際に起きた暴発の概要が端的に書かれていた。


 ひと通りを頭に入れて、メルクリオはため息をつく。


「……確かに、多いな」


 顔を上げ、女性を見たメルクリオは、紙の表面を指で叩く。


「っていうかおかしいだろ。たかが一人の魔法の暴発で、一階の床が丸ごと凍るとか。普通、そんなことになる前に使い手が力尽きる」


 女性は神妙にうなずいた。


「仰る通りです。魔法自体が自然の力を取り込んで暴走したようなのです。その生徒だけでなく、学校全体で異常が起きていたようですわ」


 思った以上の面倒事だ。メルクリオは、出かかった舌打ちをなんとかこらえて、女性に紙を返した。軽く礼をして受け取った彼女は、鋭い視線を彼に向けてくる。


「大図書館の番人様は、この件についてどうお考えになります?」


 含みのある言葉を受け流して、メルクリオは質問にだけ答えた。


「どうって。生徒に問題がないのなら、教師が邪魔をしているか、学校そのものに異常が起きてるんだろう。誰かが変な魔法を使い続けているとか、知らない間に魔族が入り込んで悪戯しているとか」


 淡々と推論を述べた少年に対し、女性は「そうですね」とほほ笑んだ。彼は嫌そうに顔をしかめたが、彼女の方はそれを一切気にしていない。


「原因が私たちの知らぬところにあるのなら、それを突き止めて、取り除かねばなりません。つきましては、あなたにも協力をお願いしたいのです」

「なんで俺が」

「無関係ではないでしょう? 近頃、この大図書館もいささか騒がしいそうではありませんか」


 静まり返った館内を見回して、女性はそんなことを言う。メルクリオは口を折り曲げたが、それ以上の反発はしなかった。持って回った言い回しをするのはいつものことだ。いちいち噛みついていてはきりがない。


 腕を組んで、見せつけるようにため息をつく。


「俺が直接出張ったら、大騒ぎになるんじゃないか」

「そう仰ると思いまして、ひとつ、作戦案を持ってまいりました」

「作戦?」


 片眉を上げたメルクリオに対し、彼女は輝かしい笑みを向けた。


「メルクリオさん。わが校の生徒になりませんか?」


 沈黙が落ちる。二人はただ向かい合う。


 唖然として口を開けたメルクリオは、来訪者の言葉をやや遅れて理解した。その意味が頭の中に染み込んでくるとともに、みるみる顔がゆがむ。


「……はああああ?」


 渋く刺々しい声が、高い天井に反響した。

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