第一章 神秘息づく大図書館

第1話 魔法学校の噂

「『聖なる光は天を割り、邪なる者を貫く』!」


 グリムアル大図書館の地下室。古書の香り漂う暗がりを、鋭い声が切り裂いた。それと同時、少年の手もとから白い光線が伸びる。言葉通り天を割った太い光線は、空中を飛び回る邪竜を追尾した。そして、竜の動きが鈍った瞬間、光線がその巨体を焼いた。


 絶叫した竜は、あぎとを開いて炎を吐く。凄まじい速さで宙に浮く少年のもとへ到達した炎は、けれど彼を焼くことなく弾ける。少年――メルクリオの体を薄い光が覆った。


 竜の瞳がぎょろりと動く。彼はすぐさま方向転換して、メルクリオに牙を剥いた。太い牙が体をかすめる。その瞬間、月の色の火花が弾けて竜の口腔へ飛んでいった。バチン! と耳障りな音を立て、その火花が一気に大きくなった。竜が巨体を跳ねさせて、空中で身もだえする。


『メルクリオ、今です!』

「よし!」


 相方の声を受け、メルクリオは竜を封じるための書を呼び出した。



 どうにかこうにか書――石板に竜を封じたメルクリオは、ため息をついて「『戻れ』」と呟く。すると、石板が手の中から消えた。


 時間や心身に余裕があるときは自分の手で書棚に戻しにいくのだが、今の彼は余裕がない。もっと言うと、体力と気力がない。


 自分にかけていた魔法を解き、ゆっくりと地上に下りる。彼の靴が床板を叩いた瞬間、ルーナが耳元でささやいた。


『メルクリオ、ちょっと急ぎましょう。もうすぐ学生寮の点呼の時間です』

「うそだろ!?」


 メルクリオは、ぎょっと目をみはる。それから部屋の西側――梯子のある方めがけて走り出した。


「やばい、再封印に時間かけすぎた!」

『あの子は一回暴走すると粘りますからねえ……』

「寝てたい……仮眠とりたい……!」

『どうどう。学校すっぽかしたら、学長先生に呼び出されますよ』

「ああああめんどくせええええ!」


 絶叫が、グリムアル大図書館に響き渡る。


 ――大図書館の番人が、『メルクリオ・シュエット』として同じ敷地の魔法学校に入学してから、半月が経とうとしていた。



     ※



 グリムアル魔法学校は、名前からもわかる通り、魔法を専門的に学べる教育機関だ。優れた才能を持つ魔法使いの卵たちが、厳しい入学試験を突破してこの学校の門をくぐり、通常六年の教育課程を経て巣立っていく。


 そんな魔法学校の校舎は、宮殿と見まごうほど大きく、豪奢だった。目の覚めるような緑色の屋根を持ち、細かな装飾がほどこされた柱が白壁を彩っている。ずらりと並ぶ窓のすべてに硝子が嵌め込まれ、真昼の淡い陽光を反射してきらめいていた。


 その一角にある教室の中から、穏やかな声が響く。朝と昼のはざまの、『魔法基礎』の授業である。


「まずはおさらいといこう。そもそも魔法とは、この世界に満ちる生命の源・アエラをを操り変化させることで、様々な現象を起こすわざのことだ」


 八人の少年少女が机を並べる教室。その最前で教壇に立つ男性教師が、長い棒でトン、と黒板を叩く。それから彼は手前の教卓に棒を置くと、生徒たちを見回した。


 同じローブを身にまとい、教科書と筆記具を机に広げる生徒たち。真剣に板書する子もいれば、机に頬杖をついている子もいる。微妙に異なる色合いを放ちながら、けれども彼らはある程度の好奇心と意欲をもって、黒板と教師の方に目を向けていた。


「アエラはありとあらゆるものに宿っている。風や大地、草や木、火や水――もちろん、人間ひとの体にも、な」


 緑色の瞳を細めた彼は、自分の胸を軽く叩いた。


「魔法を使うために必要なことは、ふたつ。ひとつは、アエラに集中し、こういう魔法を使いたい、という意志を届けること。もうひとつは、アエラに言葉をかけること。けど、ただ呼びかけりゃいいってものじゃあない。火を起こしたいときに、『火』と言うだけでは魔法は発動しないよな。じゃあ、どうすればいいか? ここからが今日の本題だな」


 教師の低い声は、やはり穏やかに響き続ける。


 メルクリオは、それを一番後ろの席で聞いていた。


 本来この学校に通う必要もない彼にとって、今の話は常識のようなものだ。しかし、綿密に計算された教育課程に沿って展開される授業を聞くのは初めてだった。知っている内容でも、その工夫や順序が新鮮で、興味深い。なので、なんだかんだ聞き入ってしまうのだ。――いつもなら。


 今日のメルクリオは、落ちかかってくる瞼をどうにか制御しながら、頭の位置を保っていた。頭を覆いつくす睡魔は、知的好奇心すらも喰らおうとしている。そのおかげで、教師の声が妙に遠く聞こえた。


「――こうして工夫された言葉のことを、一般的に呪文と呼ぶ。呪文を口に出すことは、呪文詠唱、あるいは詠唱という。まあ、このへんは試験のときだけ覚えておけばいい。魔法を使い続けていれば、そのうち嫌でも覚えるからな」


 冗談めかした物言いに対して、生徒の中から笑い含みのざわめきが起きる。教師は悪戯っぽく片目をつぶって、再び棒を手に取った。


 棒が黒板を叩く。その小気味いい音を聞きながら、メルクリオは一生懸命目を開ける。いつもなら警戒心を掻き起こす声も、今やほどよい子守歌だ。


『……メルクリオ』


 ふいに、少女の声が名を呼ぶ。メルクリオは半開きの目で左を一瞥した。


『居眠りしたら、さすがに怒られますよ』

「わかってるよ……そう言うんなら、寝ないようになんか話しててくれ……」

『あなた、時々そういう無茶ぶりしますよね』


 メルクリオがささやくと、彼女は呆れたように返す。それから、小声で何やら歌を歌いはじめた。彼の要望に応えたつもりらしいが、耳元で響く歌声が絶妙に邪魔をして、肝心の授業が聞き取れない。


 メルクリオは顔をしかめたが、これ以上要求を重ねるのも気が引けて、しかたなく黒板の方に向き直る。


 二人分の声をずっと聴き続けていたおかげでどうにか意識は保てたが、授業内容はまったく入ってこなかった。



「――メルクリオくん?」


 ふわふわと、夢とうつつを行き来していた思考。それがはっきりと現に着地したのは、すぐそばで少女の声がしたときだった。


 メルクリオは一瞬、相棒の名を思い浮かべた。だがすぐに、違う、と気づく。『彼女』と似ても似つかぬ声質であるうえに、肉声だ。


 彼がのろのろと顔を上げると、見覚えのある女子生徒と目が合った。彼女は長い金髪をさらりと揺らし、碧眼を見開いている。相手の名を記憶の中から掘り起こしながら、メルクリオはまばたきした。


「あー……エステル、さん?」

「大丈夫? 次、魔法実践の授業だよ。演習場に行かないと」


 女子生徒、エステル・ノルフィネスは小首をかしげながらも左手を差し出してきた。メルクリオは、応答ともうなりともつかぬ声を上げながらその手を取る。


「そうだな……ありがとう」

「どういたしまして。せっかくだから一緒に行こう!」


 ほほ笑むエステルを見て、メルクリオは眉を寄せる。同級生との距離を一定に保ちたい彼としては、構わず先に行ってくれと言いたいところだ。しかし、起こしてもらった上に、こうもいい笑顔で誘われると断りづらい。結局、曖昧にうなずいた。


「お、珍しい組み合わせ」


 二人のやり取りを近くで見ていた男子生徒三人が、ひょっこりと顔を突き出してくる。そのうちの一人、短い赤毛と鳶色の瞳を持つ少年が、にやりと笑った。


「珍しいと言えば、メルクリオ、授業中に寝てただろ」

「……寝てない。寝かけてはいたけど、負けてない」

「なんだよその判定。寝てたってことじゃねえか」


 少年が呆れたように目をすがめる。湿っぽい視線を向けられたメルクリオは、頭をかきながら歩き出した。


「しょうがないだろ。最近、夜眠れてないんだよ」。

「はあ? 大丈夫かよ、それ」


 少年が駆け足で追ってくる。エステルも当然のような顔をしてついてきた。そして、さらに残る二人の男子生徒が、少年の背中をつついた。


「まあ、そういうこともあるよー。メルくんは、ちゃんとやることやってるから大丈夫」

「ちゃんとしてるからね。宿題忘れたマルセルと違ってね」

「……うるせえ! 傷をえぐるなそこの双子ジェメリ!」


 二人のからかいに顔を赤くした少年、マルセル・グラディウスが振り返って叫ぶ。演習場に向かう生徒たちの間に、生ぬるい空気が漂った。


 茶色い扉を開き、通路に出る。慌ただしく行き交う少年少女の間をすり抜けて目的地へ向かう。人波に突っ込んですぐ、先ほどの男子二人――黒髪と琥珀色の瞳を持つ双子――と残る三人の女子は、メルクリオたちを追い越して歩いていった。メルクリオとエステル、そしてマルセルが並んで歩く格好になる。二人が挙動不審な自分の歩調に合わせているのだと、メルクリオはぼんやり察していた。


「そういえば、さっきの休み時間に〈短剣の教室シーカ〉の奴がおもしろい噂してたぜ」


 のんびりと歩きながら、マルセルが口を開く。エステルが首をかしげた。


「噂? 何?」

「大図書館の近くで骸骨男を見た! って」


 それまで同級生たちから視線を逸らしていたメルクリオは、そこで初めてマルセルを振り返った。エステルもきょとんと目をしばたたいている。


「え、大図書館? 近くまで行ったのかな?」

「そうなんじゃね?」


 マルセルがくつくつと笑う。そのそばで、メルクリオとエステルは顔を見合わせた。無意識のことだ。


 マルセルが上機嫌に笑う。


「さすが伝説のグリムアル大図書館! それっぽい話が山盛り出てきて面白いぜ」

「それにしたって、骸骨男を見たって話、なんか多くない? 私たちが入学してからもう十回は聞いてるよ」


 単純に噂を楽しむ同級生とは対照的に、エステルが眉をひそめる。


 メルクリオは、半月に十件は確かに多いか、などと無言で細かい計算をしていた。


 彼の頭の中を知るすべのない二人は、変わらぬ調子で会話を続けている。その中で、マルセルが少し声を低めて言った。


「さっすが、エステルはよく知ってんなー。大図書館に入るんだ! って張り切ってるだけあるぜ」


 メルクリオは、思わず足を止める。自分でも驚くほど素早く、二人の方を振り返った。彼の視線に気づいたのか、エステルは唇を尖らせている。


「別にいいじゃん。行きたい場所について調べるのって、大事なことでしょ?」

「悪いとは言ってねえよ。ほんとに入れんのかなあ、とは思ってるけどな。大図書館に入れる『認可生』ってやつ、もう五年はいないらしいぜ」

「だからって、私ができないとは限らないでしょ。それに、私には、何が何でも大図書館に入らなきゃいけない理由があるんだから!」


 エステルの言葉は、妙に力強い。聞く者の胸に痛みが走るほどの必死さがのぞいていた。マルセルは、そこまでの感情は読み取れないのか、単に聞き飽きただけなのか「はいはい、頑張れよー」と軽くあしらっている。


 メルクリオは、目をすがめて二人の姿を追っていた。少しして、彼らが足を止め、怪訝そうな顔をする。


「メルクリオくん、どしたの?」

「ぼーっとしてんなよ。この学校、意外と広いんだからさ。はぐれたら迷子になんぞ」


 そんなふうに言われて初めて、メルクリオは自分が追い越されていることに気づいた。「ああ、ごめん」と小走りで追いつき、頭をかく。


「……エステルさんの話でびっくりしちゃって」

「あー。メルクリオは聞いたことなかったか? こいつ、しょっちゅう騒いでるぜ。おかげで俺は慣れちまってたよ」

「騒いでるって何さ」


 エステルが刺々しく言い返すが、マルセルは涼しい顔で受け流していた。それこそ、慣れてしまったのだろう。メルクリオは、気が立った獣のように鼻を鳴らしているエステルをうかがう。


「あんな、おっかない噂だらけの場所に入りたいのか?」

「そう! さっきも言ったけど、ちょっと理由があってね」


 限りなく確認に近い問い。それにエステルは、胸を張って答えた。


 メルクリオは、何と言ってよいかわからず、口を閉ざす。とりあえず、意識して足を動かした。


『……バレたら面倒なことになりそうですね』

「言うな」


 またすぐそばで響いた声に短く返したメルクリオは、しかめた顔を前に向ける。


 視線の先、少し遠くに外へと続く扉と『東演習場』という看板が見えてきた。

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