第19話 妖精の悪戯 1

 様々な色に輝く球。その表面に指を置き、文字を書く。すると球が輝いて、空中に文字の羅列を生み出した。それを目で追い、一文字一文字、紙に刻んでいく。写本――本の復元は、この作業の繰り返しだ。


 作業自体は単調だが、基本的に間違いが許されないので常に気を張っている。加えて、〈記憶の球メモリアエ・スパエラ〉から一度に引き出せる情報には限りがあるため、次の情報を引き出すのにいちいち魔法を使わなければいけなかった。


 歴代番人が、この作業を「もっとも難しい仕事」「地獄」と評するゆえん。それをメルクリオは、身を以て体験しているところだ。


 徹夜の成果――と言ったらルーナに怒られそうだ――か、依頼された物の半分は復元できた。気を抜かなければ予定通りに終わるだろう。


 黙々と作業をしていたメルクリオはしかし、途中で顔を上げる。アエラが揺らいだ。その元を辿って、眉をひそめる。


 一度道具を整理し、手袋を慎重に外して立ち上がる。写本室を出るなり館の端へ飛び、大急ぎで地下に下りた。


 広い部屋の壁を埋め尽くす書棚。そのひとつに近づき、魔法で浮上する。比較的新しい本の中から、小さな本を引き抜いた。子供向けの絵入り本。それをぱらぱらとめくったのち、メルクリオは頭を抱える。


「……しまった……」


 うめきに近い呟きを聞いていたのは、そばにいた精霊だけだった。



     ※



 宣言通り、メルクリオは計四日、学校を休んだ。


 ほかの生徒たちはそれぞれに騒いだり不服そうな顔をしたりしていたが、理由を知っているエステルは動じない。ただやるべきことだけをやった。移動中や休み時間にそれとなく周囲を観察してみたが、特に怪しいと思う人はいなかった。


 四日目の昼休み。エステルは学校図書館に足を運んでいた。彼女自身の目的のためだ。


 広々として開放的な学校図書館には、日々生徒が盛んに出入りする。今日のエステルはそのうちの一人となり、魔法学関連の書架の前を行ったり来たりしていた。


「あっれ、おかしいな……先生はこのあたりにあるって言ってたけど……」


 小声で呟きながらいくつかの棚をのぞきこみ、首をひねる。もう少し上の段も探した方がいいかもしれない。そう思い、台を取ってくるべく踵を返したとき。背後の書架の隙間から、短い茶髪がのぞいた。


「ノルフィネスさん?」

「ひゃっ」


 いきなり姓で呼ばれたエステルは、驚いて半歩後ずさる。書架の後ろから出てきた女子生徒を見て、目を丸くした。


「ゆ、ユラ――」

「しっ。図書館ではお静かに」


 名前を叫びかけたエステルは、慌てて口を押さえる。ごめんなさい、とささやき返すと、ユラナス・サダルメリクは小さくうなずいた。


「で、何か探してるの?」


 ユラナスは何食わぬ顔で歩み寄ってくる。エステルは答えに迷って頭をかいたが、結局正直に話すことにした。


「ええと……禁術の本を……」

「禁術? 捕まりたいの?」

「そうじゃなくて!」


 予想通りの反応だが、わかっていても堪えた。無表情で頭を傾ける少女に向けて、エステルは慌てて言いなおす。


「どういうものが禁術なのかとか、何をしたら捕まっちゃうのかとか、そういうことが書かれた本!」

「ああ。『魔法の禁忌 概要と事例』ね」


 ユラナスは平坦な声で、先ほどエステルがコルヌから聞いた書名を挙げる。「そう、それ!」と彼女が勢い込むと、ユラナスは少し眉を下げた。


「それならさっき、別の生徒が借りてったよ」

「うそっ。さっき?」

「うん。見た感じ、三年生か四年生っぽかった」

「……そ、そっかあ……」


 見事な空振り、しかも僅差である。エステルは肩を落としてうなだれた。見かねたらしいユラナスがぽんぽんと頭を叩いてくる。


「来週には返ってくるよ」

「うう……しょうがない、教室戻る……」


 エステルしょぼくれたまま、出入り口の方へ足を向ける。すると、ユラナスが当然のようについてきた。二冊ほどの本を抱えた彼女を振り返り、エステルは目を瞬く。


「あれ? ユラナスはもういいの?」

「必要な本は見つけたから」


 淡白な言葉が返ってくる。あまり話したことのなかった少女は、そうしていると大図書館の番人たる少年を思い起こさせた。


「ノルフィネスさんは――」

「あ、エステルでいいよ。苗字で呼ばれるの、落ち着かなくて」


 エステルは反射的に口を開いた。言葉をかぶせてしまったことに気づいて後悔したが、ユラナスは気にしていないようだった。じゃあ、と答えて、あっさり言いなおしてくる。


「エステルは、意外と難しい本を読むんだね」

「い、意外と?」

「あまり勉強は得意じゃないように見えたから」


 容赦のない一言に、エステルは片側の頬を引きつらせる。自分が同級生の目にどう見えているのか、知りたいようにも、知るのが怖いようにも思えた。


 彼女の表情に何を思ったのか、ユラナスも口もとをほころばせる。そして、かぶりを振った。


「でも、決めつけはよくないね。エステルは先生の話を真面目に聞いてるし、実践授業だって一生懸命やってる」

「まあ、楽しいからね。魔法の勉強は好きだし」


 加えて、『大図書館の番人の助手』であり続けるためには、何が何でも好成績を維持しなければいけない。リアン学長と約束を交わした後から、エステルはより真剣に授業に取り組んでいた。


 そんな少女の内心を知ってか知らずか。ユラナスがわずかに目を伏せた。


「楽しい、か」


 ささやきは、そよ風よりもか細い。だから、エステルの耳にも届かなかった。


 なんとなく発言するのが憚られて、エステルは口を閉ざす。ユラナスも、それ以上話しかけてくることはなかった。


 無言のまま、二人並んで『民俗学・民間伝承』の書架の前を横切ったとき――エステルはふと顔を上げる。


 アエラが大きく動いた気がした。


 なんだろう、と振り返りかけたとき、かたかたと書架の方で音が鳴る。そして、エステルの頭に何かが降ってきた。


「だっ!?」


 頭のてっぺんに衝撃が走る。さすがに悲鳴を上げたエステルのもとへ、ユラナスが駆け寄ってきた。


「エステル? 大丈夫?」

「う、うん」


 涙目で頭をさすったエステルは、反射的に受け止めた本を見下ろす。


「よかった……本も無事だ……」

「貸して。戻しておく」


 エステルは、差し出された手に何も考えず本を渡す。同級生の足音と気配がすぐそばを通り過ぎる。


 しばらく頭をさすっていると、徐々に痛みが引いてきた。エステルはゆっくりと顔を上げる。書架から体を離したユラナスと目が合った。


「なんで降ってきたんだろうね。収納が甘かったのかな」

「いや……違うと思う。アエラが動いたもん」

「そうなの? じゃ、妖精の悪戯か」

「そ、そんなあっさり……」


 うなずいたユラナスに、エステルは引きつった顔を向ける。冷静な同級生は、心底不思議そうに目を瞬いた。


「妖精くらいいるでしょ。魔族が出るくらいだから」


 何気ない一言。それが妙に引っかかって、エステルはまばたきした。しかし、再びアエラの揺らぎを感じて顔を上げる。今度はユラナスも気づいたようで、鋭く目を細めた。


「なるほど。これか」


 呟く彼女の前で、エステルは拳を握った。なぜかわからないが、放っておいてはよくない気がする。


 迷っている暇はない。ローブの裾をひるがえした。


「ごめんユラナス! 先行くね!」

「おお。頑張って」


 妖精探しをすると思われたのか、ユラナスは気を悪くした様子もなく手を振ってくれる。


「ありがと!」


 それに応えたエステルは、叱られない程度の小走りで図書館を飛び出した。



 エステルが女子生徒の悲鳴を聞いたのは、馴染みのある区画に戻ってきたときだった。同学年と思しき少女たちが、何やら騒いでいる。そのまわりには、授業で使ったものだろうか、文字がびっしり書かれた紙が散らばっていた。それを何人かの生徒が遠巻きに見ている。


「ちょ……何今の!? めっちゃ紙飛んできたんだけど!」

「誰よー、風魔法なんか使ったやつー」

「俺らなんもしてねえよ!」

「じゃあなんで紙が飛んでくるのよ」

「知らねえ!」


 生徒同士の言い争いに発展しだした騒ぎを、エステルは離れたところから観察する。大急ぎで視線を走らせ――見つけた。


 宙に浮く黒い塊。それがものすごい速さで廊下を横切っていった。廊下から教室へ飛び込み、再び廊下に出た後、遠くに見える角を曲がった、らしい。


「あれ、やっぱり魔族だ」


 エステルは思わず呟く。


 ユラナスが言っていたことはあながち間違いではない。俗に妖精と呼ばれる存在も、魔法生物学上では精霊か魔族に分類される。


 魔族――精霊から分かれた種族。その多くは動物に近い肉体を持っているという。しかし、全員がそうというわけではないらしい。


〈封印の書〉の魔族かどうかはわからない。とにかく追いかけてみないと。そんなふうに思っていたエステルの耳に、澄んだ音が届いた。


『エステル』


 少女はぎょっとして振り返る。薄羽を持つ光は見えない。が、声は確かに聞こえた。


「……ルーナ?」


 慎重に問い返すと、再び少女の声が響く。


『よかった、聞こえてますね』

「どうしたの?」

『少し面倒なことが起きまして。――我らが大図書館の魔族が一体、脱走しました』


 その一報を聞いて、エステルは瞠目した。頭の中で、急速に見たものと起きたことが繋がる。


「もしかして、あの黒いの……」

『あー……。すでにやらかしてましたか』


 ルーナの気配が動き、苦々しそうな言葉が聞こえる。廊下の惨状に気づいたらしい。ちなみに、生徒たちは言い争うのをやめて、紙を集めにかかっていた。


『これ以上騒ぎが大きくなる前に、捕まえないといけません。エステル、お願いできますか?』

「も、もちろん!」


 エステルはとっさに答える。


 きっと、メルクリオは本の復元に追われているのだろう。だからルーナだけが遣わされた。ならば、助手が動くしかない。エステルはそう判断した。どのみち、黒い塊を追いかけるつもりではいたのだ。


『ありがとうございます。ボーくん……その黒いのは、どちらに行きました?』

「あっ……あっち」


 ルーナの問いに答えると同時、エステルは駆け出した。



『今回脱走した魔族は、ボーグルといいます』


 走るエステルの横で、ルーナが説明をしてくれる。もちろん、姿は見えないままだ。エステルは一瞬だけ、声のする方を仰ぎ見る。


「ボーグル? なんか、聞いたことあるような」

『各地に現れる“悪戯好きの妖精”の一種です。伝わる姿も呼び名も地域によってバラバラですが、あのボーグルは黒い毛の塊のような体を持っています。埃にまぎれたり、物に擬態したりして隠れ潜み、人々に悪戯をしかけるんです』

「……私の頭に本を落としたのも、その子だね」


 先ほどぶつけた部分をさすりながらぼやく。とっくに痛みは引いていたが、先ほどの衝撃は簡単に思い出せた。


「でも、それって〈封印の書〉に封じるほどの魔族なの? 戦争で悪いことしたの?」

『いえ、全然。エステルの言う通り、凶暴なわけでも力が強いわけでもありません。あのボーグルは、その……色々事情があるみたいです』


 ルーナがわずかに言いよどむ。気になったエステルは口を開きかけたが、その前に異質なアエラが意識に引っかかった。


『おっと。ようやく引っかかりましたね。エステル、そこの角を曲がってください』

「わ、わかった!」


 ルーナの指示に従って、エステルはそばの角を曲がる。来たことがないところだ。不安に駆られた少女を、精霊の声が後押しする。


『右側、三番目の扉のところです』

「さ、三番目――」


 指示を復唱しながら、エステルは速度を落として扉に近づく。そして、目的の扉の前に着いた瞬間。目の前に白黒の目玉が現れた。すぐ後、細かい毛のような感触が顔を覆い、視界が真っ暗になる。


「むぎゃあっ!」

『ボーくん、やめなさい!』


 エステルの絶叫とルーナの叱声が重なった。エステルが頭を振った直後、視界に色が戻る。黒い塊が、細い廊下を素早く滑って逃げていくところだった。


「ああ……」

『まったく。逃げ足だけは魔族随一ですね』


 情けない声とともに手を伸ばしたエステルの横で、淡い光の粒が弾けた。どうやらルーナが何か魔法を発動しようとしたらしい。


『しかたありません、追いましょう。まだ走れますか、エステル?』

「うん、頑張る」


 姿なき精霊に答えたエステルは、自分の頬を叩いて気合を入れる。そして再び床を蹴った。

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