第7話

『戦いは切迫している……くれぐれも、私の死を知らせぬよう、に……』 舜臣スンシン



       7


 夜になり、美里は我慢できなくなった。

 住まいは、百人町三丁目にあるアパートだ。外務省が用意してくれた部屋になる。ただし、藤森からはマンションだと聞かされていたのだが、実際に来てみれば、どう見ても貧相なアパートだった。名前だけは『マンション西川』と立派だが。

 美里は、部屋を出た。昼間行ったばかりの場所へ。

『パルガッタ』は夜に見たら、新大久保が似合わないぐらいに洒落た雰囲気があった。六本木とか青山のたたずまいだ。といっても、そういう街はほとんど知らない。雑誌やテレビから受けるイメージでしかない。

 店内は、昼間とはくらべられないほどに客が入っていた。

 美里は、あの当麻というバーテンダーをさがした。いまは三人がカウンターのなかにいる。

 一番奥にいたので、美里はその近くの席についた。

「さっそく来たのか」

 むこうのほうから声をかけてきた。当麻の顔は、とてもではないが歓迎しているようではなかった。

「……あなたが来いと言ったから」

「ふうん」

 やはり、興味のないように声をもらした。べつの客のためにカクテルをつくっている。

「特別に日本語もОKにしてやる。で、なににする?」

「甘いやつを」

 お酒は苦手なのだ。

「ケーキのような甘さ? それともフルーツ?」

「フルーティーなのを」

 こういうとき、お酒やカクテルの名前を出せればカッコいいのだろうが、そんな知識もない。

 当麻は了解してくれたのか、無言で作業をしている。美里は店内を観察することにした。

 このなかに、反日の韓国人グループがいるのだろうか?

 韓国人と日本人を見分けるのは難しい。ただ韓国人は似たような髪形やファッションを好むから、なんとなくわかる場合もある。しかし最近は韓国のファッションを日本人が真似る場合もあるし、そもそも在日韓国人だったとしたら、感性は日本人と同じだ。

 美里の前に、グラスが置かれた。

「ファジーネーブル」

 となりの女性客にはカクテルグラスで出したのだが、これは普通のグラスだった。居酒屋で酎ハイを注文したみたいな。

「ロンググラスのほうがアルコール度が低いんだ」

 表情に出ていたのか、当麻は言った。

「あっちは、高い。すぐに酔うぞ。それは、ほとんどオレンジジュースだ」

 酒好きの友人がそう言うのを信用して、何度も騙されている。だがこれは、本当にジュースだった。

「なんだったら、カクテルグラスで出してやろうか?」

「いえ……」

 その申し出をことわってから、美里は本題に入ることにした。反日のグループがこの店に出入りしているのかどうか。昼間は、はぐらかされたが……。

 いや、それは建前で、ここに来て彼に会いたかっただけなのだ。これまでに会ったことのないタイプの男性……。

 惹かれているのかもしれない……。

 その思いを振り払うように、美里は話しかけた。

「いまいるお客さんは、韓国人ばかりなんですか?」

 基本的に日本語が禁止なら、自然にそうなっているはずだ。韓国人以外の外国人については、どうなのか予想すらできないが。

「さあ、どうだろうね。ここでは酒の名前さえ知っていれば、会話をしなくても飲んでいられる。昼にも言ったが、日本人をお断りしているわけじゃない」

 突き放したような、つれない応対だった。

「見たらわかるんですよね?」

「おれは、超能力者じゃない」

「でもあなたは、わたしのことを言い当てました」

「……まあ、そうだな。わかるときもあれば、わからないときもある」

 どちらともとれる返答だった。

「昼間の続きをしようか。あんたは、韓国人が嫌いなのか?」

「だから……そんなことありません」

「でも、韓国人だと思われたくない」

「……ちがう」

 否定はしたが、語気は弱かった。

「そういう感情の積み重ねが、民族差別というやつになる」

「……」

 そこをつかれると、なにも言い返せない。

「もしあんたが、フランス人やイギリス人のハーフだったら、いまとはちがうんだろうなあ」

「……わたしをいじめて楽しいですか?」

 思わず言ってしまった。

「そうじゃない。昼間も言ったが、境遇をうけいれろってことだ。ハーフのあんたがその仕事についたのも、なにかの運命なんだろ」

 達観しているようなセリフだった。

「在日差別は根深い。それはつまり、在日だけではなく、韓国人そのものを差別しているということだ」

 当麻はあえて韓国人と限定しているが、正確には北朝鮮をふくめた朝鮮人に対してのことをさしているのだろう。

「でも、それはむかしのことでしょう?」

 在日差別が現在でも横行しているとは考えられない。当麻自身も口にしていたことだ。あるにしても、一定以上の年齢の一部だけのはずだ。

「たとえば、バカでもチョンでもの『チョン』は、朝鮮人のことだといまでは差別用語に指定されている」

 そのことは、かなり大きくなってから知った。子供のころは、知らず知らずにつかっていた言葉だ。

「バカチョンカメラもそうですよね?」

「まあ、そうなんだが……じつは、チョンは江戸時代からあった言葉で、半人前とか取るに足らない者という意味でつかわれていた。だが、いつのころからか、朝鮮人に対しての別称である『チョン』と混同されてしまった」

「じゃあ、差別用語じゃないんですか?」

「そのはずだが、みんながそう考えていたから、差別とされた。べつの言い方をすれば、日本人の根底に朝鮮人差別があったということだ」

 耳が痛い話だが、それでも美里自身は差別などしていなという思いもあった。

「ちなみに、いまでは『朝鮮人』という呼び方も差別用語とされることがある。韓国人、もしくは北朝鮮人という呼称をつかうのが無難だな。もしくは『朝鮮半島の人々』とか」

 呼び方一つとっても、デリケートにならざるをえない。

「在日は就職が難しい……そういうことぐらいは知ってるだろう? 朝鮮人学校の生徒は色眼鏡で見られるし、一般の学校へ通えばいじめにあう」

 実際にそういうことがあったという話は聞いたことがない。もっとも、在日の知り合いが美里の身近にはいないからかもしれないが……。

 父は、どうだったのだろう。苦労したから秘密にしていたのだろうか。

「そんなことが本当にあるんですか? いじめは、なんとなくわかります。子供って、そういうものだから」

「子供だけじゃないから、タチが悪い。在日差別をする子供は、まちがいなくその親が差別しているということだ」

 たしかに、そうかもしれない。そもそも子供に在日という知識はない。学校で教えるわけはないし、漫画やゲームであつかう題材でもない。

 事実、美里もそんなことを考えたこともなかった。

「親に差別意識がない子供に、そんな偏見はない。が、厄介なのはそういう負の感情は伝染するってことだ」

 つまり偏見のない子供でも、偏見のある子供に感化されてしまうということを言いたいのだろう。

「……でも、大人になってから差別意識をもつ人もいますよね?」

「ああ」

 美里の身近にも何人かいる。在日ということではなく、韓国という国に嫌悪感を抱いているのだ。俗にいう嫌韓というやつだ。

「まあ、あれだけ反日してる国だからな。そりゃ日本人にしてみれば、好きになれるはずがない」

 簡単に答えを出すように、当麻は発言した。

「そんなに韓国の反日はひどいんですか?」

 美里も韓国が反日なのは、もちろん知っている。だが、彼の口からリアルな体験を聞きたかった。当麻は日本人ではあるが、韓国人ハーフの美里よりも韓国にくわしい。そして、研究者に近い渋谷よりも現実的だ。

「韓国人が反日になったのは、いつからだと思う?」

「戦争……ですよね?」

「まあ、普通はそう考えるな。太平洋戦争。とはいえ、韓国と戦争したわけじゃない。むしろ韓国は日本軍だった」

 だが韓国の主張は、日本に無理やり植民地にされ、しかたなく戦争行為に加担していた、というものだ。そのことを伝えると、当麻は続けた。

「つまり、植民地にされた日韓併合ってことだな?」

「え、ええ……」

 美里は、急に自信がなくなった。そう念を押すということは、答えはちがうのだろう。

 1910年に日本は韓国を併合した。けっして武力で占領したわけではないが、韓国人は武力で一方的に制圧されたと考えている。それから韓国では日本に対する反発──現代風にいえば、ヘイトをはじめた。それが美里の見解だったのだが……。

「イザベラ・バードという英国人が書いた『朝鮮紀行』という本がある。1894年から97年まで、当時の韓国──李氏朝鮮を訪れたときの紀行文だ。その本の一説に、朝鮮人はとにかく日本が嫌いだ、というのがある」

 その年代ということは、併合前になる。

「理由を聞くと、壬辰倭乱イムジンウェランのせいだという」

「それって……」

「日本でいうところの、朝鮮出兵だよ。豊臣秀吉の」

 何百年前の話だ?

「イザベラ・バードが訪れたときですら、三百年が経過している」

 韓国は恨みの文化であると、渋谷がかつて語っていたことがあった。それを実感するような内容だ。

「出発点がちがうんだ。日本人が考える反日は、見当ちがいなんだよ。植民地支配うんぬんは、関係がない。DNAレベルで、とにかく日本人が嫌いなんだ」

「それじゃあ……日本と韓国は、わかりあうことはできないんですか?」

「日本人が折れるしかない」

 当麻の答えは簡潔だった。

「慰安婦問題、徴用工、独島──竹島だな、すべて日本が折れるしかない。百パーセント日本が悪くて、韓国が正義なんだよ」

 さすがにそれは乱暴な見解だ。韓国人の血が半分混ざっている美里ですら、暴論に聞こえる。

「そんなことになったら……」

「たいへんなことになる。たとえば竹島だ。日本人が領有権を主張すればするほど、彼らは自らの正義に火をつける。火病というやつだ」

 火病という単語は、渋谷から耳にしていた。本来は、怒りの感情からくる精神的不調のことを意味しているそうだ。そしてそれは、韓国人特有の病気だという。

 いつしか、韓国人が怒りにまかせて暴走するさまをそのように表現するようになった。いま当麻が言った『火病』も、そういう意味でつかったものだ。

「その結果、いまや韓国人は対馬も自分たちの領土だと思い込んでいる。竹島の主張に対する報復のようなものからはじまって、そこまで考えが飛躍してしまったんだ」

「……歴史的に見て、正しいんですか?」

「どっちが?」

「対馬」

「そんなわけない。だが、彼らの正義とは真実にもとづいている必要はない。まあ、さすがに対馬を本気で韓国領土だと信じている者は、それほど多くはないだろうが」

 そのフォローを耳にしても、そら恐ろしさを感じてしまった。

「竹島の次は対馬、対馬の次は九州だな。そこは中国も同じだろうがな。尖閣諸島の次は沖縄だ」

 ここまで話を聞くと、当麻が親韓というのを疑いたくなる。

「竹島については、どうお考えなんですか?」

「おれは学者じゃない」

 学者よりもある意味、詳しく分析しておいて、白々しく思えた。

「どっちの領土かなんて、興味はない。だが、どんなに日本が証拠をそろえようとも、韓国人が認めることはない。日本は絶対的な悪なんだから」

「……」

 日韓関係の深い闇を見たような気がした。

 おたがいの誤解をとけば──そのような次元ではない。

 もやもやが胸中に広がっているさなか、美里の瞳には店内にあらわれた男性の姿が映っていた。

 見覚えがある。昼間にいた男性だ。この当麻と目配せしたあとに店を出ていった。

 美里は、すぐに当麻の表情をうかがった。べつに様子はかわっていない。彼にも昼間の男性が入店したことは気づいているはずだ。

「あの人、反日グループじゃないの?」

 ストレートに質問した。

「ただの客だ」

「あなたも、仲間なんですか?」

 日本人だからといって反日ではないとはいいきれない。ヘイトという観点ではないが、左翼思想であれば反日になるだろう。とはいえ、それについては美里の管轄外だ。そういうのは、警察のなかでも公安が担当するような案件だろう。

「さあな。そんなに気になるなら、直接聞いてみればいいだろ」

「いいの?」

「こっちは関与しない。ほかの客に迷惑がかからないのなら」

 美里は席を立って、昼間の男性のいるテーブルに行った。夕方とはちがって、丸テーブルが置かれているだけで、イスはなくなっていた。

「ここ、いいですか?」

 美里は、男性の正面に立った。

「……だれ?」

 日本語がわかるか心配だったが、簡単なやりとりならできそうだった。

「わたしは、新井といいます。あなたは?」

 答えを聞く前に、男性は携帯を取り出した。着信音はなかったから、バイブレーションにしていたようだ。

 男性は携帯を耳にあてた。店内はそこまで騒がしくないから、通話も可能だ。

 そこからの話し声は韓国語だった。美里では聞き取れない。しかし、様子がおかしかった。驚いたような顔をしている。なにか不測の事態がおこってしまったようだ。

 カウンターに近寄って、韓国語で当麻に話しかけていた。

 なにやら男性が質問をして、当麻が答える、というやりとりを二度、三度と繰り返してから、男性は店を出ていった。

「どうしたの? なにがあったの?」

「彼のつれが襲われて、怪我をしたらしい」

 想定以上に物騒な内容だった。

「それで?」

「病院の場所を教えた」

「どこだって?」

 当麻は、近くの救急病院の名前を告げた。

「どうする気だ」

「わたしも行ってみる」

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