第3話
『日本の悪い癖を叩き直してやる!』
3
「──ということになりました」
美里は、所長へ報告した。
「そうですか」
その一言だけしか聞けなかった。
所長は、もうすぐで六十歳をむかえようとしているはずだ。定年間際に赴任してきた、やっつけ感がどこかにある。入管の次長以外に、これまでどのようなポストについてきたのか知らないが、ここを閑職だとでも考えているのだろう。
もちろん、美里の思い込みかもしれないが。
「事件捜査にねえ……」
自分の席にもどったら、渋谷が興味深げにその話題をふった。
渋谷は今年で三二歳になる。が、美里の眼には同年代に映るほど若く見えた。童顔だが、男性としての色気もそこはかと漂っているのが不思議だ。
もとは、入国管理局で韓国語の通訳として働いていたそうだ。ソウル大学への留学も経験していて、語学だけでなく韓国人についても造詣が深い。ほかにも短期間ではあるが、北京大学にも在籍していたようで、中国についても語ることができるらしい。
「ヘイトスピーチ動画か」
事件の概要を渋谷に話したら、すぐに動画サイトで該当の動画を閲覧していた。事前に観たことがあったようだ。
「こいつか……この動画は、かなり悪目立ちしてたからね」
「わたしには理解できません。それ、ただの悪口ですよね?」
ヘイトスピーチという呼び方だと、なんとなく大層に聞こえるものだが、口にしていることは口汚い誹謗中傷だ。
朝鮮人は、嘘しか言わない。
朝鮮人の歴史はファンタジー。
ただの下劣な反日国家。
その他、言葉にするのも抵抗を感じるほどの文言が連続する。
「まあ、偏見であることはまちがいないけど、まったくの見当違いということでもないよ」
渋谷の擁護するような意見に、美里は引いた。
「韓国人と日本人とでは、嘘の概念がちがうんだ。日本だと、嘘をつくことは絶対的な悪だろ? でも韓国人にとっての嘘は、生き抜くための知恵なんだ。だから、騙されるやつが悪くて、騙したやつがよくやったってことになる」
いつもながらに、極端な論評だ。内容だけ聞いていると、どうみても嫌韓の急先鋒だが、本人は親韓だと主張している。
「歴史がファンタジーっていうのも、ある意味、仕方のないことなんだ。建国のときから反日をかかげてるからね。北朝鮮指導者の伝説的な逸話は耳にしたことがあるだろ? 韓国は、それと対抗する必要があったからね」
どこかの山で日本軍を超常の力でねじ伏せたというやつだ。北朝鮮関連のワイドショーで観たことがある。そのほかにも、砂を米に変えたとか、瞬間移動ができるとか……。
どう考えても、洗脳がすすんでいる北朝鮮でも信じている人はいないだろう。
「まあ、日本も人のことは言えないけどね。千年ぐらい経てば、神武天皇の神話のようなものになっているかもしれないし」
そこで一拍置いて、さらに深い分析に入った。
「だから韓国の歴史も、反日の歴史でなければならなかったんだ。国民を率いるためにもね。徹底的な反日教育だ。反日でない歴史は修正されてしまう。それを韓国通の連中は、ウリナラファンタジーと呼んでいる」
その韓国通に自身もふくまれているのか、渋谷は言及をしなかった。渋谷の口にした名称からは、どうくみとっても悪意しか感じない。
「韓国人にとって反日はあたりまえのことだから、それを疑問に感じることができない。たとえば、テレビドラマでやっていたストーリーが、そのまま歴史になってしまう」
「でも、そんな人ばかりじゃないでしょう?」
「もちろん。でも、ちゃんとした事実を認識できる人数は、とても少ないの現状だよ」
なんだか自分の父親をバカにされたような気持になって、美里は気分が悪くなった。
「韓国のドラマだったら、わたしも観たことあるし……」
韓国ドラマは日本でも人気がある。
「最近は、そこまでの抗日ドラマはやってないよ。あくまでもむかしの話さ」
「それなら、中国のほうがひどいんじゃないですか?」
「たしかに中国はいまでも抗日ドラマをやってるけど……当の中国人も、真剣に観ている人はいないよ。まあ、新喜劇のお約束のようなものさ」
「だったら韓国の人だって、同じじゃないですか?」
「残念だけど、そうはならないのが韓国人の特性なんだ。まあ、時間があるときにでも、そこらへんはレクチャーしてあげるよ」
ちょくちょくこうして解説してくれるのだが、聞くたびに新しい見識が広がる。美里は韓国人のことをあまりにも知らないのだと痛感していた。
最初のころは、父を思い浮かべれば、それが韓国人だろうと考えていた。だが、そうではなかった。理由はわかる。あくまでも父は日本人としてふるまっていたからだ。十七年間、まったく在日であることを疑いもしなかったのだから、それも当然だ。
「それはそうと、新井さんが抱えている案件についても、むこうに協力してもらえばいいんじゃない?」
本来なら、自分一人だけで抱えている案件ではなく、このヘイトクライム対策機構全体でどうにかしなければならないはずだが、美里はすでに特殊な環境に慣れてしまった。
あくまでも調査員は、美里一人なのだ。渋谷はアドバイスをしてくれるだけの補佐で、所長も責任者としているだけだ。事務の女性とは、話をしたこともない。
これには、外務省と法務省のパワーバランスと、それぞれの思惑が絡んでいるという。
ヘイト問題の組織を立ち上げるために、法務省と外務省で話が進められたが、いざ運営するとなると、どちらの省が主導権を握るのか問題になったそうだ。
どちらも主導したい半面、差別というデリケートな事象のため、同時に尻込みしてしまった。そこで、出入国在留管理庁の外郭団体として、外務省の出向職員を調査員にすえることで落ち着いたという。
いわば、箱が法務省で、中身が外務省ということになる。
「警察が、こちらに協力なんかしてくれますかね?」
「だって、むこうには協力するんだから、ギブアンドテイクってやつじゃないか」
「協力っていっても……」
自分が捜査の役に立つとは思えない──そのことは、美里自身がよくわかっている。
「でも、そのことは刑事さんにも伝えたんでしょう?」
「ええ」
「だったら、それでも協力を求めてるむこうの勝手だ。こっちの要求を突き付けても、文句は言われないでしょう」
渋谷は、お気楽な意見をのべた。
おそらく、むこうにはむこうの都合がある。藤森の要望だから断れなかったのだろう。藤森が外務省のなかでも、どのあたりのポストなのか美里は知らない。警察にまで影響をあたえる地位にいるのかどうか……。
「機会があったら、切り出してみます」
美里は腰を浮かせた。
渋谷との会話で、そもそもの仕事を思い出した。いまは、韓国料理店の看板に落書きした犯人をみつけなければならない。
「がんばってね、新井さん」
どこかいい加減な渋谷の言葉を背中にうけて、美里は外出した。
といっても、あてがあるわけではない。アジアの店が並ぶエリアを見てまわるしかできることはなかった。
美里が学生のころは、ほぼ韓国の店だけしかなかったが、いまはアジア各国の店が乱立している。
通りにはスパイシーな香りが漂い、活気に満ちあふれていた。人通りは多く、けっして上品な雰囲気ではない。が、そこが魅力なのだろう。
と──、なにか人だかりができていた。
なんだか騒がしい。
美里は近づいた。金髪に染めた男性がわめき散らしている。
「チョンは出てけ! 日本から出てけ!」
その男性には見覚えがあった。外出するまえに、事務所で渋谷が観ていた動画に映っていた。
「みなさーん! この傷を見てくださーい!」
金髪男は、後頭部を指さしていた。だが、傷があるかは髪の毛があるのでよくわからない。
「こいつらに襲われたんでーす!」
周囲の視線は冷たく、迷惑者を見る眼つきだ。
「おい! なんなんだ、おまえは!」
そこに、二人組の男性が現れた。
「このヘイト野郎!」
金髪男に食ってかかった。
「うっせえ! おまえの国に帰れ!」
汚いののしりあいがはじまった。
もしや、と思い、美里は周囲でこの光景を撮影していないか確認した。人だかりにまじって、携帯で撮影している男がいた。あきらかに仲間だ。
これも動画にあげるつもりなのだ。
美里は、川嶋に連絡をとった。
「川嶋さんですか!? 大変です!」
『どうしましたか?』
「川嶋さんが捜査している男性が、ここで暴れています」
『ここって?』
「新大久保です!」
『そんなはずはないと思います。佐川ジョーは、入院していますから』
「いえ、まちがいありません!」
美里は細かな位置を教え、すぐに来てくれと告げた。
そうこうしていると、自転車に乗った制服警官がやって来た。だれかが110番通報したのかもしれない。
「どうしましたか!?」
「この男が、へんなことを喚き散らしてんだよ!」
二人組の男が、警官に訴える。
「おにいさん、なに騒いでるの?」
金髪の男──佐川ジョーは、警官にも臆することはなかった。
「なんもしてねえよ。チョンどもを、この世から消すためにがんばってんだよ! 邪魔すんじゃねえ!」
どこか演技がかっている。もちろん、仲間による撮影は続いていた。
「それとも、なにか法律に違反してるんですかあ?」
「大声で騒ぐんじゃない!」
「ああ? それ、なんの罪なの?」
警察官は、金髪男に翻弄されていた。直接的に暴力をふるっているわけでもないし、悪口にしても個人を特定して暴言を吐いているわけでもない。明確な法律違反を犯していない以上、拘束もできないはずだ。
佐川ジョーは、それをわかったうえでやっている。大声で叫ぶ行為がなにかしらの軽犯罪にひっかかったとしても、拡声器を使っているわけでもなく、閑静な住宅街というわけでもない。繁華街で叫んだだけで逮捕されたら、日本は犯罪者だらけになる。
「いいから、やめなさい!」
警官は、キレ気味に注意をかさねた。
そこへ、駆け足で川嶋が到着した。電話の時点では、まだ警察署にもどるまえだったのだろう。
「新井さん!」
「ね、あの人ですよね?」
美里は、それを確かめた。
「佐川……」
驚いた眼をしていた。
「さっきまで入院していたのに」
「重い怪我だったんですか?」
「重症ではないと思いますけど、頭を殴打されたみたいですから、精密検査をするはずです」
すると、検査をうけずに病院を抜け出したようだ。
「なにやってるんだ……」
あきれたように言葉を吐き出すと、川嶋が佐川ジョーに近づこうとした。
「川嶋さん……」
美里は、視線で仲間の存在を知らせた。
「撮ってるのか」
舌打ちをして一瞬、迷ったようだが、川嶋は仲裁に入った。
「佐川さん、もう退院されたんですか?」
数秒前まで舌打ちしていたとは思えない丁寧な口調で、川嶋は話しかけていた。撮影を意識してのものだ。
「刑事さんが捜査してくれないから、自分でやるしかないっしょ!」
「捜査は、ちゃんとやっています」
「嘘だろ、やる気なんてないくせに」
「そんなことはありません」
「だったら、すぐに犯人を見つけてくれよ! どうせ犯人は、こいつらなんだから!」
佐川ジョーは、周囲を対象とするように両腕を広げた。言い合いをはじめた二人組だけでなく、この街の住人すべてを犯人だと主張したいようだ。
「犯人が韓国の方だときまったわけではありません」
「こいつらにきまってるよ!」
「捜査をするのは、われわれです!」
「じゃあ、はやく捕まえろ!」
「捜査には、手順というものがあります……簡単にはいかない」
「へっ! 無能が! 税金ドロボー」
川嶋の顔に怒りの相があらわれた。しかし、撮影されていることを知っているだけに、なんとか堪えているのだ。
「本当に捜査してるのか? この国の政府は、やつらに弱いからな! あいつらに謝罪して、金を渡した!」
2015年の慰安婦合意のことをさしているのだろうか?
だいぶ古い話をもちだしてくる。
「警察だって同じだ! やつらに逆らえないから、便宜をはかってるんだ! 在日特権ってやつだろ!」
「そんなことはありません」
川嶋も、むきになっているようだった。
「だったら、やる気をみせてくれよ! みせてくれたら、おとなしくひいてやる」
「……」
やる気っていわれても──という表情になっていた。
「犯人がこいつらだったら、本当に捕まえるんだろうな?」
「だれであろうと、犯人は逮捕します」
「でも、こいつらのこと、あんたはよく知らないだろうが!」
「犯人がどんな人なのか、まだわかっていません」
「もしもの話だよ。こいつらのことを知らないあんたに、逮捕なんてできるのか?」
「できます」
「本当か? 知らないのに?」
緊迫感が、周囲を支配する。
「……ぼくが知らなくても、こうして専門家の協力をとりつけています」
そう言って川嶋は、美里に視線を送った。
「専門家?」
「彼女は、出入国在留管理庁の韓国専門家です」
まったくのデタラメを川嶋は言い放ってしまった。
「あんたが犯人を捕まえてくれんのか?」
「そ、それは……」
どうにも訂正できるような空気ではなかった。
佐川ジョーだけではなく、周囲の野次馬、制服警官にも、まじまじと見られていた。これでは、自分がどうにかするしかない。
「ホントなんだろうな?」
人ごみにまぎれて撮影していた仲間も、個性を隠すことをやめていた。佐川ジョーのとなりに立って美里を撮影している。
「撮るのはやめなさい!」
慌てたように撮影に気づいた制服警官が注意するが、もう時すでに遅し、だ。
撮影したものを彼らが消去するとは思えない。まちがいなく動画にアップされる。
「……わたしは、ヘイトクライム対策機構の職員です。おもに韓国との差別問題をあつかっています」
美里は腹をくくって、自らの立場を明かした。
「おれを襲った犯人を捕まえてくれるんだよな!?」
「わたしに逮捕権はありません」
出入国在留管理局のなかでも、入国警備官ならそれなりの権限はあるだろう。たしか刑事訴訟法では司法警察職員ではなくなったはずだが、国家公務員法においては警察職員としていまでも定義されている。ルールが変わっていなければ、拳銃の携帯もできるはずだ。
しかし美里は、そもそも法務省の人間ではない。外務省には警察職員は存在しないのだ。
「そんな御託はいい! あんたが協力して、この刑事が逮捕すりゃいいんだ!」
美里は、川嶋と視線を合わせた。
どうやら、そういう流れで話が進んでいきそうだ。
「じゃあ、決まりだな。できるだけ早く、犯人を捕まえてくれよ」
撮影をしている仲間が、川嶋と美里の顔へ携帯を交互に近づけた。
周囲の喧騒が、遠くで聞こえているかのようだった。
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