第2話
『民の命も、富も、尊厳も守ってくれないような国は、むしろ滅びたほうが民を救うことになる』 福沢諭吉
2
川嶋英吾は、警察官になって三年。新新宿警察署の刑事組織犯罪対策課に配属されて一年のまだ若手だ。
新新宿警察署──新が二つ重なっているので誤りだと勘違いされるが、所轄警察署としては日本最大の規模を誇っている新宿署の負担を軽減するために設立された警察署だ。
昨年できたばかりなので認知度はまだ低く、元祖の新宿署とよくまちがえられてしまう。区別しやすいように『新署』と呼ばれることが多い。規模も小さく、刑事課と組対課が同じ課としてくくられている。英吾の所属している係は、その課のなかでもさらに小さくて特殊な部署だった。
新署は、新宿区の一部を管轄にしているが、そのなかには百人町もふくまれている。これまで二丁目から四丁目を新宿署が、一丁目を戸塚署が管轄していたが、それが新署の管轄で統一された。
百人町には新大久保駅があり、いまではアジア各国を中心とした外国人街と化している。それを専門にあつかう部署が、英吾の所属する国際捜査係だ。
「痛みますか?」
場所は病院だった。病室のベッドで上半身をおこしているのは、傷害事件の被害者である佐川ジョーだ。本名ではなく、動画配信サイトで使用している名前になる。
「痛いにきまってんじゃん」
頭部を負傷している。派手な金髪を隠すように包帯が巻かれていた。
「撮っていい?」
携帯を手にして、佐川ジョーは言った。
「撮影は遠慮してください」
不服そうに表情を歪めた。
動画の広告収入で食べているようだが、かなり問題のある映像をあげることが多く、炎上することがあたりまえとなっているようだ。俗にいう『迷惑系』と呼ばれている人種だ。
「犯人に心当たりはありますか?」
「あ? 知らねえよ!」
吐き捨てるように答えた。捜査のためにこの男の動画を観てみたのだが、正直、胸糞の悪くなるようなものばかりだった。
スーパーのお惣菜を素手でさわったり、弁当をわざと床に落としたり……。
あきらかな犯罪行為はないにしろ、世間のモラルからいえば、完全にアウトだ。
これまでに、警察が捜査に動いたこともある。が、逮捕されたことはなく、厳重注意にとどまっていた。
典型的な炎上商法だ。非常識な動画をあげることで再生回数を増やす。増えれば増えるほど、お金がこの男の懐に入る仕組みだ。
「なにをしてるときに襲われたんですか?」
「歩いてただけだよ」
信じられなかった。またなにかトラブルになりそうなことをしていたのではないか。
「ホントだよ……コンビニに行こうとしただけだ」
英吾の表情から感じ取ったのか、佐川は言った。
「動画撮ってたわけじゃねえ」
「そうですか……では、突発的なケンカでしたか?」
「んなわけねえだろ! 相手の顔も知らねえんだ!」
憤慨したように、唾を飛ばしながら否定した。
ということは、待ち伏せされて殴られたのだ。つまり、佐川ジョーだと知っていた。
これまでのイタズラ動画では、炎上するのがあたりまえの非常識なことはしていたが、だれかを個人攻撃するようなことはしていない。襲撃されるほど恨まれることはないだろう。
非難のコメントに対して佐川が反論して、トラブルにまで発展した可能性はあるだろうが、コメントをつけるほうも、この男がわざと炎上を狙っていることは理解できるはずだ。たとえ怒りをおぼえたとしても、傷害事件までおこそうとするだろうか……。
では、残る動機は──。
「犯人は、日本人でしたか?」
「わかんねえよ……」
声のトーンが弱くなった。この男も、そう思っているということだ。
佐川の最近の動画は、むしろ迷惑ものがメインではなく、べつの趣旨をもつものが多くあげられていた。
ヘイト動画だ。
アジア諸国──とくに韓国に対するヘイトスピーチがほとんどだった。実際に会ってみてわかることだが、この男に思想的なものはない。
政治、イデオロギー、ナショナリズム──そういうものに突き動かされているわけではないはずだ。学識もないし、動画での言葉を聞いても、ただの悪口だ。ヘイトスピーチと呼べるほどのレベルにも達していない。視聴者数をかせげると考えての路線変更だろう。
そしてそれこそが、英吾がこの事件を担当することになった理由でもある。
外国人が絡む事件捜査のために、国際捜査係は新設された。新署だけにある部署であり、英吾はただ一人の捜査員だ。
本来、刑事は一人では捜査活動をしない。が、英吾の場合は、一人で動くしかない。一人での捜査が不都合であるケースでは、刑事組織犯罪対策課から、応援を呼べることになっている。
係長は、刑事組対課強行犯係の係長が兼任している。ほかには事務員すらいない。
「韓国人だっていうのか?」
「動画でいろいろと言ってるでしょう? それで恨みをかったのかもしれない」
「ふざけんなよ! ここは日本なんだぞ!」
「でも、外国人だって住んでいます」
「ここは日本だ! 日本に文句があるなら、国に帰れ!」
「日本や日本人への文句じゃなくて、あなたに対しての文句なんじゃないですか?」
冷ややかに英吾は応対した。それが、佐川の怒りに油をそそいだようだ。
「なんだ、てめえ! おれは被害者だぞ!」
「興奮しないでください」
「だまれ! 説教する気なら、帰れ!」
英吾は、ため息まじりに病室を出た。ああなってしまえば、もう話は聞けないだろう。
落胆はない。英吾の仕事は、事件を解決することではない。
いや、それは暴論か。しかし署としても、そんなことを期待していないことはあきらかだった。
国際捜査係などと、それらしい名称をあたえられていても、解決の難しい外国人犯罪をていよく押しつけられているだけなのだ。
殺人や強盗のような重要事件ならいざしらず、ほんのトラブル程度の外国人犯罪を強行犯係から分離することで、検挙率を向上させる意図があるのだ。
いわば英吾は、捨て駒なのだ。
「えーと、藤森さんだったな……」
こういう外国人のからむ犯罪であった場合、外務省の藤森という人物に連絡をすることになっている。それが新署の国際捜査係だけのことなのか、警察全体での決まり事なのかは知らない。そう指示をうけているので、そうするだけだ。
捨て駒であろうと、警察の超縦社会の構図は例外なく適用される。
「藤森さんですか? 国際捜査係の川嶋です」
理知的な声が返ってきた。
英吾は、佐川ジョーが襲われた事件の概要を伝えた。
『そうですか』
冷たい印象の声に、どこか熱のようなものがこもった。
『でしたら、いまの話をこれから言う連絡先の人間にも伝えてください』
藤森に連絡をとったのは、これで五度目だが、こんなことは初めてだった。
携帯の番号と、新井という名前を教えられた。
『事件の捜査に、その新井も同行させてください』
そして最後に、そう付け加えた。
「……」
事件捜査に、どこのだれだかわからない人物を同行させろというのか……。
英吾の独断で決められることではない。すぐに署へもどり、聴取の結果と、藤森の話を係長に報告した。新署はいま、三人の死者を出した通り魔事件の捜査のために、たいへん慌ただしくなっている。特別捜査本部も設置されていて、本庁捜査一課もつめているので、いつもより人数が多かった。
そんな状況だからか、係長からは、藤森に関することは課長に伝えろと言われた。なので刑事組織犯罪対策課の課長に報告したら、署長に話を通す必要があると、さらに言われた。
これではまるで、役所のたらいまわしだ。
藤森は外務省の人間だから、かなり高レベルの意思決定が関係してくるようだ。署長室へ行って、話をした。この署に赴任して、初めての入室だった。
「わかりました。そのようにしてください」
署長の許可をうけて、新井という人物と捜査をともにすることになった。
そもそも、その新井という人物の素性も知らない。外務省の人間なのだろうが、捜査権はないだろうから、あくまでもアドバイザーとしての同行になるはずだ。
自分の席にもどると、英吾は連絡をとった。強行犯係のオフィスと相部屋だが、一人しかいないから隅っこに追いやられている。何人かデスクワークをしていたが、離れているから通話をしても迷惑にはならない。
「あの、新井さんでしょうか?」
『はい、そうですけど』
予想外だった。女性の声だ。
「私は、警視庁国際捜査係の川嶋といいます」
本来なら、新新宿署の、と伝えたほうがいいのだが、新宿署と混同されるとややこしくなるので、そう名乗った。
『は、はあ……』
新井という女性は、ピンときていないようだった。つまり彼女には、話は通っていないということだ。
「藤森さんからの紹介です」
それすら通じなかったら、もうお手上げだ。
『藤森さんですか?』
どうやら、藤森のことは知っているようだ。少し安堵した。
「とにかく、いろいろ込み入った話になりますので、お会いしたのですが」
電話で話せるようなことではない。
むこうの職場が新大久保駅前にあるそうなので、いまからたずねると伝えた。
英吾は、すぐに向かった。その職場の名称を知って、少し驚いた。出入国在留管理庁ヘイトクライム対策機構──。
出入国在留管理庁ということは、法務省の管轄になるはずだ。しかし藤森は外務省の人間……どういうことだ?
オフィスビルの二階が、ヘイトクライム対策機構になっていた。同じビルに公的機関はほかになく、もちろん出入国在留管理庁のほかの部署もない。
ちなみに本部は、霞が関の合同庁舎6号館にある。法務省や検察庁が入っている建物だ。その地方局である東京出入国在留管理局は、京浜運河を渡った先の埋立地にあったはずだ。
オフィスのなかに入ると、面談室のような小部屋に通された。
「どうも、川嶋です」
「新井です」
女性は、これまた予想外の美人だった。
目鼻立ちが整っていて、職業がモデルといわれれば、簡単に信じてしまうだろう。
「あの、それで……」
女性は戸惑っている。
「藤森さんに言われたのは、あなたを捜査に同行させる、ということでした」
「警察の捜査にですか?」
「はい」
ますます混乱してしまったようだ。
「そんなことを許してくれるのですか?」
警察が部外者を捜査に加えることを許可するのか、ということを質問したいようだ。
「署長の許可はとっています」
「でも……もしわたしをアドバイザーかなにかとだと思っているのなら、見当違いになります。わたしは、専門家でもなんでもありません」
そこの部分は、英吾も期待していたわけではない。というより、ここに来るまで、新井という女性が何者なのかまったく理解していなかったのだから。
が、ここに来て、ようやく見えてきた。
ヘイトクライム対策機構──ヘイトスピーチなどの外国人差別に関する組織なのだろう。
「あの、ここはどういった機関なのですか?」
念のため確かめてみた。
「ここはですね……」
新井という女性は、たどたどしいしく説明をはじめた。言い慣れていないのはあきらかだった。
彼女自身も、あまり深くは理解していないようだ。ヘイトクライム──もっと具体的にいうと、韓国との関係を憂慮して設立された団体らしい。
「でもやっていることは、外国の方からの悩みや苦情を請け負う便利屋のようなものです」
──ということだそうだ。
「ですから、韓国の専門家でもありませんし、韓国語すら話せません。わたし自身は外務省からの出向ですから、出入国在留管理庁の正規職員でもないんです」
「え?」
意外な告白だった。
「専門はフランス語です。英語やイタリア語も話せますけど、でもそんなスキル、ここではなにも役立ちません」
「そうなんですか……でも、まあ、ぼくも似たようなものかもしれません」
「え?」
「国際捜査係という部署なんですけど、名前だけ立派な一人だけの係なんです。もちろん、外国語はなにもしゃべれません」
「は、はあ……」
少しでも親近感をもってもらおうと話したのだが、どう反応すればよいのか彼女は困っていた。
「それで……わたしは、どんな捜査に協力すればいいんですか?」
「では、説明します──」
英吾は、佐川ジョーの事件を語った。
そのときには、まさかあんな大きな事件にまで発展するとは夢にも思っていなかった。
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