第4話

『ドイツ連邦の如く韓国を指導し、財政経済教育を普及して、ついには連邦政治をしくにいたるや、おそらく日本の利益になることを余は信じる』 伊藤博文



       4


「怒ってます?」

 英吾は、恐る恐る確認した。

「いえ、べつに」

 新井の冷たい声が店内に響いた。新大久保駅前の喫茶店にいた。

「……怒ってますよね?」

「怒っていません」

 感情を押し殺している顔も、涼やかな美人にとっては印象を底上げする要因になっている。

「でも、どのみち犯人を捕まえなければならないですから」

「それは、川嶋さんの仕事ですよね?」

「新井さんの仕事だって、韓国人とのトラブルを解決することでしょう?」

 とりあえず、そう言ってみた。

「あんな挑発的な真似をしなくても……」

「申し訳ありません、つい……」

 佐川ジョーの策略に、まんまとはまってしまった。

 あの男は動画を盛り上げるために、あんなことを仕掛けた。案外、頭のキレる男なのかもしれない。

「わたしの希望もきいてください」

「なんですか?」

 こんなことに巻き込んでしまったのだから、きかないわけにはいかないだろう。

「いまわたしは、韓国料理店のシャッターに落書きをした犯人をさがしています」

「落書き……ですか?」

 落書きも立派な犯罪だが、刑事課が動くべき案件ではない。とはいっても、英吾の国際捜査係は刑事組織犯罪対策課のなかでは、軽微なものを押しつけらている「なんでも屋」のようなものだ。

「こちらに協力してもらうんですから、もちろんそちらにも協力します!」

 上が彼女との協力を認めたのだから、その逆を英吾の判断で了承してもかまわないはずだ。報告をあげるつもりもないから、このことに関しては好きにやらせてもらう。

 どっちみち、重要な部署というわけでもない。うまく事件を解決させたとしても、自分の評価が上がるわけではないのだ。

「落書きは、どこでみつかったんですか?」

 さっそく、その話を進めることにした。ここで後回しにしたら、信頼は得られない。

 彼女は、意外そうな顔をした。どうせ口先だけだろうと思っていたのだ。

「イケメン通り近くの韓国料理店です」

「では、そこにいきましょうか」

 おたがいが飲みかけの紅茶を流し込んで、喫茶店を出た。割り勘で会計をすませ、外に出てからも、新井は半信半疑のようだった。

 二人で歩いていると、恥ずかしさのようなものが背筋を駆け抜けた。こんな美人と並ぶのは滅多にないことだ。

「新井さんは、モテるでしょう」

 ヘタをすればセクハラになってしまうが、思わず口をついていた。

「いえ、そんなことはありません」

 すましたように彼女は答えた。モテる人のかわし方だ。

「どうしていまの仕事につくことになったんですか? 外務省って言ってましたけど、本当は入管が希望だったんですか? 韓国のことが大好きだったとか」

「いえ、とくには……成り行き上としか」

 どこか困ったような表情になっていた。

「……異動の辞令に従っただけなんです」

 彼女との接点である藤森が外務省なのだから、彼女が外務省の職員であることも、あまり不思議には思わなかった。

「出向ということは、いまの身分も入管か法務省ということになるんですか?」

 法務省と外務省の関係を知らないから、そういうことはめずらしいのか、よくあることなのか推し量れない。ただし、どの省庁でも出向は少なくないはずだ。警察組織だって、それは例外ではない。

「いえ、あくまでも外務省職員のままです」

 彼女の返事には、覇気がなかった。どうやら、この話題は好ましくないようだ。

「本当に韓国とは、なんの接点もないんですか?」

 しつこいかとも思ったが、もうひと押ししてしまった。素朴な疑問をぶつけたつもりだ。

「この仕事以外、ありません」

 気分を害したように、彼女は答えた。

 マズいことを質問してしまったのかもしれない……。

 そのスラっとした足が止まった。

 被害にあった店についたようだ。カプサイシン豊富そうな香りが周囲には漂っていた。

「あ」

 新井が、なにかに反応していた。ちょうど店内から男性客二人が出てきたところだった。

「あなたたち……」

 知っているようだ。そういえば、英吾にも見覚えがあった。

 さきほど──佐川ジョーと言い争いをしていた男たちだ。二人とも二十代で、小綺麗な身なりをしている。

「さっきの……」

 二人のほうも、新井のことを覚えていたようだ。が、英吾のことは眼中にないようで、視線を合わせようともしていない。

 彼女は、だれからも眼を惹くような美人で、英吾は、どこにでもいるような容姿だから、それも仕方のないことだ。

「ねえ、話をきかせてくれない?」

 新井が、親しげに話しかけた。

「あんたたち、刑事だろ?」

 二人は、どこか警戒している。

「それは、ぼくだけです」

 英吾は、あらためて身分証を提示した。

「おれたち、なにもしてないぜ」

「だったら、話ぐらいいいでしょ?」

 二人は顔を見合わせた。一人が代表して、うなずいた。

 どこかの飲食店に行こうと考えたが、彼らはいま食堂から出てきたばかりなのだ。英吾たちも喫茶店についさっきまでいたこともあり、公園で話すことになった。

 すぐ近くにある公園だ。存在は知っていたが、その公園の名前が『西大久保公園』ということは、彼女に教えてもらって知ったことだ。

 ベンチは見当たらなかったが、花壇の植え込みのふちを椅子がわりに座っている人がいたので、英吾たちもそれにならうことにした。

 公園内は場所がらなのか時間の関係か、子供たちの姿はなかった。くたびれたサラリーマン風の男性や、老後を退屈にすごすような人しかいない。

「で、なんの話?」

 一見すると迷惑そうな顔をしているのだが、声音からはそこまでいやそうな印象はうけない。根は良い人たちなのか、それともたんに美人に弱いのか。

「お二人は、韓国の方ですか?」

「それは国籍、という意味?」

「え、ええ」

 新井は困ったように返事をしていた。

 二人がうなずいた。

 一人は、韓流のアイドルがよくしているおかっぱ風の髪形をしている。顔もきれいで本当に芸能の仕事をしているのかもしれない。もう一人のほうは、前髪をあげている。失礼だが容姿は洗練されていないので、こちらの男性は芸能人ということはないだろう。

 おかっぱのほうがダンディカット。あげているほうがリーゼントカットと呼ばれ、韓国では二大髪形になっていることを、国際捜査係になってから知った。ダンディカットはアイドルを真似て、リーゼントは俳優を真似ていると思ってまちがいない。

 韓国では日本よりも髪形やファッションが単一化しているのだ。ひと目で日本人なのか、韓国人なのか、中国人かを見極めるのは、この地区の警察官としては必要なスキルになる。

 韓国人は女性の場合でもメイクに特徴があるのでわかりやすい。とはいえ、日本人でも韓国メイクを真似ている女性は多いので、そこが難しいところになる。男の髪型にもそれはいえるが、そういうときは態度で判断すればいいと、先輩刑事に教えてもらったことがある。その先輩は、新署ができるまえからこの地域の担当だったのだ。

 先輩いわく、歩いているとき道を譲るのは日本人ぐらいだという。他人の主張のまえに自分の主張を優先すると日本では自己中だと非難されるが、外国ではあたりまえのこと──等々、外見がほぼ同じでも、日本人かそうでないかは、いろいろとちがうそうだ。

「日本語は、完璧ですね」

「おれは、もともと在日だから。三年間、韓国に住んでもどってきたところ」

 リーゼントのほうが言った。国籍を強調した意味がわかった。そういえば、いままでの発言は、すべてこの男性のものだ。

 ダンディカットのほうは、無口なのか、それとも日本語が堪能ではないのか……。

「あなたは?」

「こいつは、韓国育ちだ。アイドルになりたくて、この街に来た」

 新大久保には、こういうアイドルを夢見る卵たちが韓流地下アイドルとして活動している。そういう店がいくつかある。

「どうも」

 その一言だけで、たどたどしさがわかった。

「さっきいた店なんだけど……シャッターに落書きされてたんだって」

「落書き? ああ、嫌がらせね。よくあることだろ」

 リーゼントが言った。

「ねえ、なにか知っていることはない?」

 わざとなのか、彼女はフレンドリーな口調に徹している。

「おれたちじゃないよ」

「それはわかってる」

 やったのは、韓国人に対するヘイト感情をもっている人間だと考えられる。韓国人である彼らなら、そういうことをしそうな犯人に心当たりがあるかもしれない。

 さきほどの騒ぎでも果敢につっかかっていった。ヘイト感情には敏感なはずだ。

「……やったのは、日本人だろ。さっきみたいな」

「あの人のことを知っていたの?」

「会ったのは、はじめてだよ」

 その言い回しは、以前から知ってはいたようだ。

「佐川ジョーの動画を観た?」

 これまで彼女に聴取はまかせていたが、英吾は声をはさんだ。

「名前は知らないよ。でも、あいつはこの界隈じゃ有名だよ」

 動画のいくつかは、この新大久保で撮影されたものだ。

「あの人のこと、よく思ってないよね?」

「そりゃそうだよ。でもやったのは、おれたちじゃないぜ」

 佐川ジョーへの傷害事件についての否定だ。

「っていうか、なにを調べてるの? 落書き? あいつの件?」

 どちらについても質問してるから、彼らが混乱するのも仕方のないことだ。

「どっちも調べてるのよ」

 正直に彼女が伝えた。

「わたしのほうが、落書き。刑事さんのほうが、傷害の捜査」

 二人は、一応の納得はしてくれたようだ。

「それじゃあ、まず落書きについて、なにか心当たりはない?」

「だから、あいつのような日本人だろ?」

 会話がもとにもどってしまった。佐川ジョーの仕業ではないだろう。もしそういうことをやっているとしたら、動画で拡散しているはずだからだ。

 ヘイトスピーチに関しては、いまのところ違法行為はしていないようだが、それ以前の迷惑動画では刑事案件になるギリギリのところだった。落書きも立派な犯罪だが、あの男にしてみれば、躊躇すべきことではない。軽犯罪での逮捕よりも、視聴者数をかせぐほうが重要なはずだ。

「ああいう人は、大勢いるの?」

「ああ。ヘイトグループは、いくつかあるよ。まえは、特定のグループ……というか、特定の個人が主催してたんだと思うけど、いまはもっと広がってるみたい……」

 憂いを帯びたように、リーゼントは語った。三年ぶりに日本にもどったからこそ、その変化を敏感に感じ取っているのだろう。

「韓国では、もう反日は時代遅れみたいな流れになってたんだけどね……こっちでは、逆に距離ができてる」

 大統領がかわっただけで、国の性質にも変化があらわれたということなのだ。日本では、まずおこらない現象だ。

「そういう人たちが落書きをしたのだと思う?」

「どうだろ……人を集めて嫌韓デモをやってるようなのは、そんなことする必要ないと思うけど」

 たしかに、公衆の面前でヘイトスピーチをやっている人間が、そんな陰湿でセコイまねをするだろうか。

「じゃあ、さっきの男を襲うような犯人は?」

 英吾がそう言ったら、ギロリと睨まれた。彼らの仲間を疑うような発言だけが不快にさせたわけでないだろう。男ならだれだって、新井のような美人だけと話していたいものだ。

「あなたたちのことじゃないわ。でも、そういうことをしそうな過激な人だっているんじゃない?」

 諭すように新井が引き継いでくれた。彼らの眼つきが、途端にやわらかくなった。

 こういう女性と普段仕事をすることがないから、英吾まで明るい気持ちになる。ここまで聞き込みが潤滑に進んでいくのもめずらしい。

 新署にも交通課にみんなが憧れているアイドル的な女性警察官がいる。警視庁管内の独身男性たちが投票する(もちろん非公式)美人警察官ランキングで2位になっているほどだ。

 残念ながら刑事組対課には、そういう女性はいない。いたとしたら、もっと仕事に行くのが楽しくなっているだろう。

(不謹慎だな)

 さすがにその自覚はあった。

「一応、あるよ……」

 どこかためらいがちに、リーゼントが告白した。ダンディカットのほうが、口にして大丈夫か、という眼をしていた。

「どんな人? それとも、グループ?」

「グループ」

 彼女が続きをうながすような視線をおくった。

「……おれたちへのヘイトに対抗するための組織だよ」

 あくまでも、自衛のための集団だ、と強調したいようだ。

「その人たちは、どこにいるの?」

「日本人のことは嫌いだよ」

「近づくと危険だということ?」

「そこまでじゃないよ。でも、イヤな思いをするかもしれない」

「それでも、その人たちに会いたい」

 彼らは、しばらく考え込んだ。

「かわってなければ、パルガッタという店がたまり場です」

 新井の瞳が、英吾に問いかけていた。知らない店だった。首を横に振る。

「どこにあるの?」

 細かな場所を聞き出した。イケメン通りから少し距離があるようだ。

「ありがとう」

 英吾も彼らに頭をさげた。といっても、二人とも新井のことしか眼中にないようだったが。

「ねえ」

 立ち去ろうとしたところで、リーゼントから呼び止められた。

「あなたは、日本人?」

 新井に対しての質問だった。

「どうして?」

「韓国人じゃないの?」

「……わたしは、日本人よ」

 彼女は、そう答えた。

 なぜだが、その言い方に引っかかるものがあった。

 あらためてもう一度、彼女が礼を言って、二人のもとから遠ざかった。

「……」

 いま聞き出した店に向かう途中、つい彼女のことを凝視してしまった。

「どうしました?」

「あ、いえ……」

 きっと彼女には美人だから見蕩れていたと勘違いされただろう。半分は当たっていたが。

 韓国人?

 たしかに、韓国の美人女優のような雰囲気がある。脚も長く、身長も女性としては高い。

 もしや……。

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