第5話

『このくらいのことは覚悟している。古い家が焼けたら新しい家を作れるが、ただ無益の騒動で、尊い人命を殺傷するのがいかにも残念だ』 完用ワニョン



       5


 パルガッタが、「赤い」という意味なのは知っていた。基本的な単語と、ハングル文字については、渋谷から教わっている。 

『ハングル文字』という呼び方が、重複表現になっていることも重々承知だ。ハングルは朝鮮半島で使用されている文字の名称だ。ただし韓国語をハングルと呼ぶこともあるので、美里はあえてそう呼ぶことが多かった。

 予想に反して、パルガッタという店は食堂ではなかった。韓国料理は唐辛子やコチュジャンを使用したものが大半で、色味が赤い。だからそういう料理を出す食堂だと思い込んでいたのだ。

 バーのような店だった。

 午後三時過ぎ。いまの時間でもあいているようだったので、川嶋の先導で店に入った。

 内装は、赤を基調としていた。料理ではなく、こちらのほうの色だった。

 店内には、カウンターに数席、テーブル席もいくつか設置されている。客の入りは、カウンターに一人、テーブル席にカップルと思われる二人がいるだけだった。時間帯を考えれば、こんなものだろう。

 カウンターの男が、鋭い視線を向けていた。三十歳前後で、革製のジャケットを着ている。

 美里は、カウンターに近づいた。

「あの」

 バーテンダーに声をかけた。

「イルボノ クムジ」

 韓国語のようだが、ゆっくり発音してくれなければ、聞き取れない。川嶋も同じらしい。

「イルボノ コジョル」

「ごめんなさい、日本語でお願いします」

 日本で働いているのだから日本語はできるだろうと、単純に考えた。

「コジョルハダ」

 本当に日本語を話せないのかと思いはじめたころ、バーテンダーは、ため息をついた。

「日本語、お断りだよ」

 流暢な日本語で言った。

「わたしたちは、お客じゃないの」

 川嶋が警察手帳をかかげた。

「用件は?」

 バーテンダーは、不愉快そうな顔になっていた。

「ここは、韓国人しか入っちゃいけないんですか?」

 日本語をしゃべってはいけないのなら、そういうことになるはずだ。

「そんなことはない」

 ぶっきらぼうな返事だった。

「もしそうだったとしても、法律に抵触するのか?」

「いえ……」

 美里は、困った視線を川嶋に向けた。川嶋も同じような感情をしめしていた。

「日本人の店でも、外国人お断りの店があるじゃないか」

「もちろん、悪くはありません。そのことで警察が文句を言うこともありません」

 川嶋が言った。それでも、バーテンダーの表情がやわらぐことはなかった。

「で?」

 とっとと用件を言え──そんな催促のようだった。

「この店に、なんていうか……」

 とても訊きづらいことだった。

 川嶋の顔を見た。

「ヘイトに反発している人たちがいるという話を耳にしたんだけど……」

 気持ちをくみとってくれた川嶋が、かわってくれた。というより、本来は刑事である彼がやるべきことだ。

「反日ってことか?」

「いや、ヘイト感情への──」

 川嶋は言葉に詰まった。とても表現が難しく、デリケートな問題だ。言葉を選びながら慎重に会話を続けるしかない。

「だから、反日だろ?」

「……」

「嫌韓と反日。そういうことだろ?」

 そこまで露骨に表現されると、美里も川嶋も二の句を継げなかった。

「ものは、はっきり言ったほうがいい」

「……あなたは、韓国人なんですよね?」

 美里は、念のためたずねた。

 ますます気分を害することを予想したが、バーテンダーは同じ口調で答えた。

「いや、日本人だ」

 その答えに、美里は意外さを隠しきれなかった。

「日本国籍ということですか?」

 自分と同じように、どちらかの親が韓国人なのではないかと考えた。

「言っている意味がわからない。日本人なんだから、あたりまえだろ」

「……」

 真意は伝わらなかった。

「ですから……親が──」

「あんたとはちがう」

「え?」

 バーテンダーの瞳が、すべてを見透かしているように思えた。

 川嶋のことを見てしまった。彼には意味が通じていないようだ。そのことに安堵して、バーテンダーに視線をもどした。

「どっちの親も日本人だよ」

 つまり、生粋の日本人だということだ。

「……日本人なのに、ここで?」

「悪いか?」

「いえ……」

 店内の空気は、これ以上ないほどに悪くなっている。

「あなたが日本人なら、はっきり言いましょう」

 川嶋が引き継いでくれた。

「われわれは、ヘイト問題が根底にあるかもしれない事件を追っています。ぼくのほうが、ヘイトスピーチ動画を配信している男性への傷害事件です。彼女のほうが、韓国料理店への落書きです」

「……」

 バーテンダーは、さぐるような視線を向けた。

 そのとき、カウンターにいた客が立ち上がった。無言で店を出ていった。その行動を不審に思いながらも、美里はバーテンダーとの会話を続けた。

「なにか心当たりはありませんか?」

 美里は、あらためてたずねた。

「おれを疑ってるのか?」

「いえ、そういうわけでは……」

 あの二人組から、ここの店を教えてもらったことを口にするわけにはいかない。

「どうしてここへ来た?」

「なんとなくです。そうですよね?」

 川嶋に同意を求めた。

「ええ。なんとなく韓国の方がよく来店しているのかと思って、お邪魔したんです」

 この街では、川嶋の嘘は通じるはずだ。イケメン通りにある店の場合は、韓国人が経営していても、日本人相手に商売をしているところも多いだろうが、この店は少しはずれにある。むしろ韓国人を相手にしているだろうことは、あの二人組に話を聞いていなくても想像はついた。

「なにかこう……日本人に反発しているような方をご存じないですか?」

 言葉を選びながら、美里は問い直した。

「……どうだろうね。客がどんな人間かなんて、こっちは関心ないから」

 真実を語っているとは思わないが、疑うにしても根拠はない。あくまでも心証的な感想にすぎない。日本人でなかったとしたら、このバーテンダーのことも疑っていただろう。

「そうですか……ありがとうございました」

 川嶋と目配せして、店を出た。

「どう思いました?」

 川嶋のほうから話しはじめた。

「なにか知っていると思います」

 率直に思ったことを、美里は口にした。

「でしょうね」

 川嶋も、その考えに同意した。

「それと……」

「どうしました?」

 美里は続きをうながした。これから口にすることは自信がないようだった。

「途中で出ていった男がいましたよね?」

「ええ」

 カウンターにいた客のことだ。

「出ていくまえに、あのバーテンと視線を合わせてたような気がするんです」

 言われてみたら、そうだったような気もしてくる。

「じゃあ、あの客がなにか知っていたかもしれないんですか?」

「なんとも言えないけど……」

 川嶋にも明確なものがあるわけではないようだった。

「顔は覚えてますか?」

「なんとなく」

 切れ長の眼をしていた。無造作ヘアで、ジャケットと黒系のシャツを着ていたことは覚えている。

「たぶんですけど、日本語はわからないのかもしれません」

 バーテンダーが合図を送ったのだとしたら、たしかにそういうことになるのかもしれない。会話の内容がわかるのならば、自分の意思で退出できただろう。

 川嶋の携帯が鳴った。

「あ、ごめんなさい、署にもどらないと」

 ということなので、ここで別れることになった。

 川嶋の姿が見えなくなってから、美里はある思いにかられた。

「……」

 どうしても気になることがある。

 さっきのバーテンダーだ。

 美里は踵を返して、パルガッタという店にもどった。

「あの……」

 まだカップルの客がいて、店内の様子に変化はなかった。

 バーテンダーは美里の姿を見ても、言葉を発しなかった。

「あの!」

 もう一度、声をかけた。

「まだなにか?」

 不機嫌な返事だったが、もしかしたら彼はいつもこんな態度なのかもしれない──そうも思いはじめていた。

「さっき言ってたことなんですけど……」

「あ?」

「ですから──」

 とても言い出しづらかった。

「……わたしに言いましたよね? あなたとはちがうって」

「そのことか……」

 興味なさそうに、バーテンダーは言った。

「あのそれって、どういう……」

「そのまま意味だよ」

「わたしの親が……」

「韓国人なんだろ?」

「ど、どうしてわかるんですか?」

 それを口にするということは、それを認めてしまうことになる。が、美里はどうしても、その答えを聞きたかったのだ。

 あの二人組の韓国人からも、それを疑われた。どこでそう判断されたのだろう。

「見ればわかる」

「どうやって?」

「それ、そんなに気になるか?」

 気になる。

 美里はこれまで、韓国人の血か流れていると言い当てられたことはなかった。高校生のとき父親から告白をうけてから、悟られないように気をつけていた部分もあった。

「安心しろ。わかるやつじゃなきゃ、わからない」

「どうやって見分けられるんですか?」

「勘みたいなものだ。はずれることもある」

 しかし、現にこうして当たっている。

「ちゃんと教えてください!」

 その一生懸命さに、彼は引いていた。

「……おれの育った町には、在日朝鮮人が多かった。幼いころから、よく見ていたからな。たぶん、そういう積み重ねだ」

「日本人とちがうんですか?」

「同じだ」

 それなら見分けられるわけがない。美里は、眼光で真相を問いただした。

「ほぼ同じだ」

 バーテンダーは言いなおした。

「だから、ほとんどの人間にはわからない。が、おれのように、そういう環境に慣れている人間にはわかる。これでいいか?」

「……わたしのどこが、韓国人っぽいんですか?」

「顔」

 単刀直入に彼は断言した。

 意外な答えだった。美里は流行している韓国メイクは意識的に避けている。化粧品も韓国産ではなかった。

「あと、スタイルかな。身長も高い」

 なんとなく日本人女性よりは背の高いイメージはあるが、日本人でも高い女性は山ほどいるだろう。

「だから、感覚的なものだって。はずれることも多い」

 それがたとえこの男性だけの特殊能力だとしても、やはり釈然としない考えに襲われる。

「っていうか、そんなに韓国人だと思われたくないのか?」

「日本人です」

「……親が韓国人だと思われたくないのか?」

 その質問は、とてもデリケートだった。鋭利であり、むき出しの神経のような痛みをともなった。

 ある日突然、在日だと知らされた。自分を人種差別主義者だと考えたことはなかったが、自身にそれがふりかかったら、こんな偏狭な人間だったなんて……。

「……そんなことはありません」

 美里は嘘をついた。

 いや、嘘であって嘘ではない。

 在日韓国人に対して差別意識をもったことはない。そのはずなのだが、自分の素性を知られたくないと考えている自分がいることも事実だ。

 それが自身でもよくわかっていない。

「ふーん」

 バーテンダーは、気のない相槌をうった。

 テーブル席にいたカップルが会計に来た。すぐに店内は二人だけの空間になった。

「どうして隠してる?」

 客が美里だけになったからか、それまでよりも大きい声でバーテンダーは話しかけてきた。

「……」

「在日差別は、むかしほどじゃない。それに、あんたは日本人なんだろう? 親が在日だからって、必死に隠すようなことか?」

 彼の口調は責めているのではなく、たんに興味があるから聞いているだけのようだった。

「……ある日突然、告白されたの。突然よ……まったく疑ったこともなかった」

 美里も二人きりになったから、感情的になってしまった。

「家でキムチは出なかった?」

「出たことない。わたし、辛いの苦手だし」

「クリスマスを祝ったことは?」

「それぐらいある。っていうか、それ普通のことですよね?」

「日本のクリスマスは、ただのイベント。それにくらべ、韓国は実質的にキリスト教国だ」

「そうなんですか?」

「そういう国は、だいたいクリスマスが祝日になってるもんだ」

 それは知らなかった。渋谷からも教えてもらっていない。韓国は儒教のイメージが強いから、それがそのまま宗教のようなものになっているのかと思っていた。

「でも、韓国ではそうでも、わたしの父は日本育ちなんですけど」

「在日にも、信心深い人は多いんだ」

 思い返してみると、そういえば、ちゃんとお祈りをしていたような気がする。クリスチャンでもないはずなのに、ミサに行ったことがある。友達の家でクリスマスパーティをやったときは、たんにケーキを食べてプレゼント交換をしただけだったことに違和感をおぼえたことがあった。

「……そんなことじゃ、わかんないよ」

 バーテンダーがいることも忘れて、美里は愚痴をこぼしてしまった。

「ま、血筋をなかったことにはできない。受け入れることだな」

 思えば、こういう話をしたことは初めてだった。他人とだけではなく、父とも母とも、この話題からは逃げていた。

「あなたの名前は?」

「……」

「わたしは警察官じゃないから、警戒しないで。わたしは、新井美里」

「父親が在日なら、韓国名があるんじゃないか?」

「パク・ミリだって」

美里ミリは同じなのか」

 父もそう言っていたが、韓国の女性の名前になんて興味はなかった。

「まあ、韓国は漢字を捨てたが」

 1970年に漢字を廃止すると当時の大統領が宣言をしたのだ。渋谷からレクチャーをうけている。ただし、その後も漢字は新聞などで使用されつづけていたそうだ。完全に消えたのは2000年代に入ってからだという。

「で、あなたは?」

「おれは、当麻」

 姓なのか、下の名前なのか、それだけではよくわからなかった。だが教えてもらっただけでも、受けて入れてくれたということだろう。

「この店が気に入ったのなら、夜にまた飲みに来てくれ」

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