第6話
『九州を退治し、海を越え朝鮮を統べ、明を征伐する許可を請うた』 豊臣秀吉
6
署にもどってみれば、課長の用事はたいしたものではなかった。わざわざ帰ってくることもなかったのに……。
次の行動を考えつかずにいたら、急にお腹がすいてきた。バタバタしていたから昼食をとっていなかったのだ。喫茶店では紅茶しか口にしていない。
あのまま彼女といっしょだったら、いまごろ二人で食事をしていたかもしれない……。
課長のことを恨めしく思った。
「どうしたの、うかない顔して」
食堂のおばちゃんに心配された。新署はできたばかりということもあって、かなり小綺麗な食堂が併設されている。免許の更新に来た一般客も想定してあるので、名目上はだれでも入店することはできる。ただしこれまで、警察官以外が食べているところを見たことはないが。
午後三時半。食堂内は閑散としている。おばちゃんは、話し相手をさがしていたようだ。
「あ、いえ……」
「その顔は、恋の悩みだね」
おばちゃんはきめつけた。まったくの的外れでないところが反論を難しくしている。
「ほら、噂をすれば、あんたのマドンナが来たよ」
店内が急に華やいだ。
警視庁美人警察官ランキング2位の星村あすかだ。名前までがアイドルのようだった。うちの交通課に勤務している。遅い昼食をとるのだろう。
「わたしも、若いころはあんぐらいもてたけどねぇ」
それは聞き流すことにした。
「ね、となりで食べちゃいなよ」
そうしたいのはやまやまだが、そんな度胸も自信もない。
「いやぁ……」
「だらしないねえ。あの子を狙ってる男は多いんだから」
それはそうだろう。なんせ、警視庁管内で2位なのだ。
「そうそう、刑事課の若い男の子も、あんたみたいに弱々しく隠れて見てるわ」
あきれたように、おばちゃんは言った。
刑事課……英吾も、一応はここの刑事組織犯罪対策課ではある。たぶん英吾のようにキワモノ部署ではなく、正規の強行犯係ということなのだろう。
いっしょに仕事をすることはないが、みかけたことぐらいはあるはずだ。たしか、同世代の男が二、三人いたはずだ。そのうちのだれかなのだ。
「噂は聞いてるよ」
おばちゃんが瞳を輝かさせながら言った。
「え?」
「あんたの噂」
「は、はあ……」
「やくざ相手に大立ち回りしたんだって?」
「そ、それは……」
ふれられたくない話をされた。
英吾は以前、足立区の竹の塚署に勤務していた。地域課の、いわゆる「交番のおまわりさん」だった。居酒屋で喧嘩をしているという通報をうけて急行してみると、若い男性二人が激しく殴り合いをしていた。
止めに入ろうとしたときに、その二人から何発かもらってしまった。それで、われを忘れた。気がついたときには、二人が泣きながらあやまっていた……。
頭に血がのぼって見境がなくなるなど、警察官失格だ。当然、暴力行為をしたわけだから、重い処分が科せられるはずだった。
が、のちにその二人が同じ暴力団事務所に所属していたことがわかった。いわば、飲みの席での身内同士のいざこざだった。組にとっては恥ずかしい話であったために、双方とも被害を訴えることもなく、それどころか店と署に組の幹部がお詫びに来たほどだ。
そういうことが重なって、処分は免れた。ただし居づらくなったのは事実で、新署の誕生とともに異動となった。いまのキワモノ係に配属されたのも、そのときのペナルティーの一つなのかもしれない。
「それぐらい強くあたらなきゃ」
「い、いやぁ……」
結局、近寄ることすらできず、憧れの彼女は食事を終えてしまった。
「ま、がんばんなよ」
おばちゃんの声を背中にうけながら、英吾も食堂を出た。
さて、これからの行動だが……。
いまさら新井と合流するというのも、無理がある。
「ん?」
廊下を歩いているときに、連絡がきた。課長からだった。
『おい、刺されたぞ』
「はい?」
またどうでもいい連絡なのだと考えたが、そうではなかったようだ。
「刺されたって……だれがですか?」
『おまえにまかさせた件の被害者だよ』
「佐川ジョーですか!?」
『そうだ。佐川譲司だ』
それが佐川の本名なのだ。
とにかく英吾は、運ばれた病院を教えてもらい、急行した。
同じ病院だった。重症ではあるが、命に別状はないということだった。麻酔がきいているので、佐川は死んだように眠っていた。いまは事情を聞けない。かといって、殺人未遂の捜査は強行犯係がやるだろうから、英吾は病院で佐川が眼を覚ますのを待った。
その時間をつかって、新井へ連絡を入れた。
『え!?』
さすがに彼女も驚いていた。
『わたしもそっちに行きます』
と言うのを、とどめさせた。
いつ眼を覚ますかわらない。意識をとりもどしたら連絡するということを伝えて、通話を終えた。
それから二時間後、佐川が目覚めた。新井には伝えなかった。すでに午後六時を過ぎている。いまから呼べば時間外の勤務になってしまうかもしれない。彼女の仕事の契約がどうなっているのかわからないが、公務員の場合、キッチリと九時五時が守られている職場も多い。
「大丈夫ですか?」
「……」
佐川は瞼をあげていたが、すぐには言葉を発さなかった。痛みのためか、それともまだ麻酔がきいているのか……。
「佐川さん?」
「……なにがあった?」
佐川には、事情が理解できていないようだった。
「あなたは、何者かに刺されたんです」
「刺された?」
実感がないようだ。
「なんで……」
「犯人は見ましたか?」
刺されたこともわかっていないのだから、もし見ていたとしても記憶から抜け落ちているだろう。
「なんなんだ……おれがなにを……」
佐川は、力なく憤慨していた。
こうたてつづけに被害にあったのだから、気持ちも理解できる。いかにヘイト動画が非常識な内容だったとしても、さすがにこれは……。
「覚えていることはありますか?」
佐川から答えはなかった。刺されたという事実に、恐怖がふつふつとわきあがっているのだ。
「なにか思い出したことがあったら、連絡してください」
名刺は午前中に渡してある。粗雑な性格だったとしても、まだ無くしていないだろう。
病院を出てから、新井に連絡をしておいた。佐川が意識をとりもどしたことを伝えると、安心したようだった。迷惑な人物とはいえ、会ったばかりの人間が事件に巻き込まれるという経験は、一般人にとっては重荷になるものだ。
英吾は、署にもどった。佐川のことを報告しなければならない。
「そうか……犯人は見ていないんだな?」
「はい」
課長は、失望していた。ほかに目撃証言はなく、現場付近には防犯カメラも設置されていないということだった。
「命に別状はないんだな?」
「それは大丈夫です」
「殺人未遂になると、さすがに捜査はこっちでやる。まあ、外務省や上の意向とかあるから、おまえにも動いてもらうことになるが」
課長の言うことはつまり、捜査のメインはまさせられないが、雑用としては使ってやる、ということだ。
落胆はない。そもそも国際捜査係という部署は、そういうところなのだ。
「今日は、もういい。明日、また被害者から話を聞いてくれ」
「わかりました」
それからすぐに署を出た。
帰宅しようかとも考えたが、そのまえに街を歩くことにした。歩くだけで事件の手掛かりがつかめるわけもないが、所詮は一人だけの部署なのだ。どう動いたとしても成果などあるわけがない。
日中にも立ち寄った公園を抜けて、新大久保駅の方角へ歩いていた。
夜でも人の通りは、それなりにある。
「ん?」
いますれちがった通行人に、見覚えがあった。
夜の闇に溶け込むように、その人物は早足で歩き去っていく。
昼間、あの『パルガッタ』というバーにいた男だ。バーテンと話していたら、逃げるように店を出ていったのだ。
英吾は、男のあとをつけることにした。
これまでに尾行した経験はない。それでも問題なく男の動向をさぐることができた。
男は、コリアタウンから離れていた。
有名な居酒屋チェーン店に入った。これまで男のことを日本語のわからない韓国人だと決めつけていたが、ちがうのだろうか?
いや、外国人だって日本の居酒屋に入るだろう。英吾は、自身の考えがまとまっていないことを実感した。心のどこかで、あのバーに行くのではないかと思っていたのだ。
英吾も居酒屋に入った。
男は、べつの男女と三人で席についていた。その近くのテーブルに座りたかったが、店員から案内されたのは一人客用のカウンター席だった。
これでは、三人がなにを話しているのか聞き取れない。ビールと焼き鳥の盛り合わせだけを注文して、英吾は三人の様子をうかがうことに集中した。
なにか不穏なことを話しているという雰囲気はない。和気あいあいとしているわけではないが、普通に飲んでいるように見える。
トイレに立つふりをして近寄ってみようか……。
英吾は立ち上がった。が、すぐに座りなおした。トレイのある位置を確認した結果だ。三人のテーブルとは真逆の方向になる。
「……」
このままでは埒が明かない。理由がなくてもかまわない。彼らのテーブルに近づいてみた。
すぐにUターンした。
会話が聞こえたのだが、韓国語だった。
自分の席にもどって、思案してみた。
この三人が、反日思想のメンバーだろうか?
四十分ほど経ったところで、三人は席を立った。英吾も会計をすませて、彼らを追おうとした。
が、不覚をとった。会計で小銭を出そうともたついていたら、店を出たときには彼らを見失ってしまった。
これでは、居酒屋で無駄な時間を過ごしてしまったようなものだ。
「ん?」
いま、声がした。
聞き取れないが、口調からは緊迫したものが伝わってきた。
張り裂けるような声が、再び。
英吾は、声のした方向へ歩き出した。
路地に行き着いた。女性の声がする。
「どうしましたか!?」
だれかが倒れていた。
女性の言葉は、韓国語のようだった。さきほど居酒屋にいたうちの一人だ。そして倒れているのは男性で、その彼も居酒屋にいた。あのバーでみかけた男性のほうではない。
ほかに人の姿はなかった。
「なにがあったんですか!?」
「たたかれた! おそわれた!」
片言の日本語で、女性が答えた。倒れている男性が襲われたようだ。
頭部を鈍器のようなもので殴られたのだろうか、出血が確認できる。
「襲ったのは、だれですか!?」
「男」
「知ってる人ですか?」
女性は首を横に振った。見ず知らずの人間に襲われたということだ。
とりあえず英吾は救急車を呼び、次いで署に連絡した。
「あなたたちは、韓国の方ですか?」
「そう」
短い返事があった。
「この男性も?」
「そう」
「もう一人、男性がいましたよね?」
女性は、どうしてそのことを知っているのか、という顔をしていた。それとも、たんに日本語が聞き取れないだけなのか。
「その方は、どこへ行きましたか?」
救急車のサイレンが聞こえてきた。いまの質問は、その音にかき消されたようになってしまった。
この路地まで救急隊員を誘導した。意識は完全に失っていたが、命に別状はないようだった。
ストレッチャーに乗せたところで、地域課の制服警官二名が自転車でやって来た。そのうちの一人は同期だった。
「川嶋!」
口早に英吾は状況を説明した。そうこうしていると、強行犯係の同僚たちも到着した。
現場は彼らにまかせて、英吾は病院へ向かった。搬送された韓国人男性が病院で意識をとりもどすかもしれない。
運ばれたのは、歩きでも行ける近くの救急病院だった。佐川が入院しているところとはちがう。
被害者の名前は、キム・ユジュン。所持していたパスポートから判明した。観光ビザで、昨日入国している。
観光客が襲われただけの事件とは、英吾には思えなかった。意識がもどったということで、十分だけ聴取の許可を得た。
「日本語はわかりますか?」
男性は首を横に振った。インドの一部地域などでは縦が否定で、横が肯定の意味になるそうだが、韓国では日本と同じだはずだ。
つまり日本語はできないとアピールしていることになるが、すくなくともいまの言葉は通じていることになる。
「犯人の顔は見ましたか?」
再び首を横に振った。もしかしたら、言葉がわからないという意味で振っているのかもしれない。
「あなたは、韓国人ですか?」
これでも横に振ったら、通訳を手配するしかない。
が、首は縦に振られた。簡単な日本語ならば会話は成立するようだ。
「犯人は男でしたか? 女性でしたか?」
「ナムジャ……」
英吾も簡単な韓国語なら理解できる。犯人は男性のようだ。ただし表情をうかがうかぎり、自信があるわけではないのだろう。顔は見ていないのだから、背格好や雰囲気でそう判断したものだと思われる。
「犯人に心当たりはありますか?」
横に振った。
最後にもう一つ、どうしても確認しておかなければならないことがあった。
「あなたは、日本が嫌いですか?」
首は、どちらにも動かなかった。しかし眼を見ればわかる。やはり彼らは、反日思想のグループなのだ。
これは、報復?
だとすれば、一番に疑うべきは、佐川ジョーだ。佐川を襲ったのが、このキム・ユジュンだと仮定すればの話だが。
佐川が入院しているのはべつの病院なので、急いで電話をかけて、病室を確認してもらった。しかし佐川は、麻酔のために眠っているという。
それに佐川は、犯人を見ていないはずだ。だとしたら……。
「あ」
もう一人いたことを思い出した。佐川を撮影していた男だ。もしあの男が、佐川襲撃を目撃していたとしたら……。
あの撮影者については、氏名すらわからない。佐川から話を聞くべきだが、今日は無理だ。あの撮影者が犯人ときまったわけでもない。
英吾は、課長にそのことを念のため電話で伝えておいた。強行犯係では、いまのところ有力な情報はないということだった。怨恨の線だけでなく、通り魔的犯行も視野にいれているらしい。
ヘイト問題が関係しているという英吾の見立ては、まだなんの確証もない。まずは、キム・ユジュンが佐川襲撃の犯人であるかどうかを捜査しなければならない。
仲間の女性は、あのあと捜査員から聴取をうけているはずだ。英吾はどうしても、もう一人の仲間のことが気になっていた。
あのバーにいるかもしれない……。
英吾は『パルガッタ』に向かうことにした。
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