第8話

『語りあひて尽しし人は先だちぬ今よりあとの世をいかにせむ(暗殺された伊藤博文への追悼歌より)』 山縣有朋



       8


 パルガッタに到着したのは、九時少し前だった。

「あ」

 店のなかに入ろうとしたときに、扉が開いた。出てきたのは、目的の人物だった。

 あの三人組の一人──昼間の男だ。

 男性は、英吾のことを見ても、なんの反応もしめさなかった。不思議なことではない。一度だけ会った相手の顔など覚えていないのが普通だ。

 しかし、それだけではないようだった。どこか慌てている。

 反日グループだと思われる男性は、そのままどこかへ歩いていった。早歩きだ。

 たぶん、仲間の女性か、襲撃された被害者──キム・ユジュン自身が連絡してきたのだろう。襲撃されたことを聞かされて、急いで病院へ向かっているのだ。

 英吾はあとを追おうとしたが、考えどおりなら目的地はわかっている。男性の向かう方角とはべつに進み、大通りへ出た。ちょうどタクシーが通りかかったので、それに乗り込んだ。

 さきほどまでいた病院へもどった。車だと五分もかからない。運転手にはイヤな顔をされてしまったが。

 夜間外来のロビーに入ると、例の女性がいた。まだ男性のほうは到着していないはずだ。

 わざわざタクシーを利用したのは、さきに女性のほうに声をかけておきたかったからだ。すでに強行犯係から聴取をうけているはずだが、明日にならなければ英吾に情報は入ってこない。

「どうも、さきほどは……」

 簡単な日本語は理解できるはずなので、とりあえず話しかけた。

「?」

 女性は、英吾の顔を覚えていなかった。

 暗かったし、事件の恐怖でそれどころではなかったのだ。さきほどの男性もそうだが、英吾の顔が覚えづらいほど特徴がないのも原因だ。印象に残らない自身の容姿を悲しく思った。

 英吾は、警察手帳をみせた。

 それでどうにか思い出してくれたようだ。

「担当の捜査員にいろいろと訊かれたでしょうが、もう少しよろしいですか?」

「なに?」

「キム・ユジュンさんにも同じ質問をしたんですが……あなたたちは、日本が嫌いなんですよね?」

「……」

「普段は、どういう活動をしてるんですか?」

 彼女たちの容疑が濃厚というわけではないが、ここは遠慮をして言葉を選んでいる場合ではない。それに、難しい日本語は理解してもらえないだろう。

「なにもしてないよ……」

「キム・ユジュンさんは? 日本人の男性が襲われるという事件がありました。それにかかわってるんですか?」

「なんのこと?」

「ヘイト動画をあげている男性です」

「しらない」

 短く彼女は答えた。

「お名前を教えてもらえませんか?」

「なんで?」

 この女性は被害者の知人という立場だ。強引に聞き出すわけにもいかない。それに、さきほど聴取はされているだろう。

 質問を変えた。

「日本へは、観光ですか?」

 キム・ユジュンは、観光目的での入国だった。

「それとも、留学かなにかで?」

「関係ない、それ」

 英吾としては、とても重要なことなのだ。

「キム・ユジュンさんが襲われた原因かもしれない」

「なぜ?」

「あなたたちが、佐川ジョーという男性を襲ったんじゃないですか?」

 もう一度、核心をつく質問をぶつけた。

「……しらない」

 知っている。そう思った。

「犯人わかってるなら、逮捕して!」

「そのためにも、正直に話してください」

「……ミンジュン来てから……」

 おそらく、ここに向かっているであろう例の男性の名前がミンジュンなのだ。

 まだ到着している様子はない。パルガッタから、ここまでは徒歩でも十分ほどで来れるから、もうついてもいいころだ。

 彼も観光で日本に訪問しているとしたら、病院までの道筋がわからず迷っているのかもしれない。たしか韓国では世界的に有名な大手の地図アプリではなく、韓国独自のものが使われているはずだ。それが原因か?

 いや、これだけ韓国からの観光客が多い現状では、それを使っても便利になっているだろう。道中でなにかあったのかもしれない。

 英吾としても、あの男性に聴取をしておきたい。昼間の様子からは日本語ができるとはかぎらないから、この女性といっしょにおこなったほうが効率的だ。

「そのミンジュンさんからもお話を聞きたいので、いまどこにいるか連絡してもらえませんか?」

 女性は携帯を操作した。この病院は携帯電話を禁止していないようだし、近くには患者も病院職員もいなかったので、問題はないだろう。

「……出ない」

 首を横に振りながら、女性はつぶやいた。

 不吉な予感が駆けめぐった。

 キム・ユジュンを襲ったのは、佐川ジョーの動画を撮影していた仲間だと英吾は考えている。その仲間が、ミンジュンのことも標的にしているとしたら……。

「ミンジュン!」

 そのとき、男性が院内に入ってきた。やはり、ミンジュンというのが、あの男性だったのだ。

 様子がおかしい。英吾は息をのんだ。

 ミンジュンは、頭から血を流していた。

「大丈夫ですか!?」

 英吾は男性に駆け寄った。あきらかに、ふらついていた。

「だれかにやられたんですか!?」

 男性は、答えなかった。

 英吾が看護師を呼んだ。韓国人女性は気が動転していて、それどころではない。

 すぐにストレッチャーが用意され、処置室に運ばれていった。頭を殴られたようだが、命に別状はないだろう。

 キム・ユジュンと同じだ。

 やったのは、あの撮影者だろうか?

 英吾は署に連絡を入れた。連続傷害事件である可能性も伝えた。

「え!?」

 英吾は、わが耳を疑った。この近くで、男性と女性が暴力をうけるという傷害事件が発生しているから、人員をさくのが難しいという話を逆にされた。ただでさで、いま新署は通り魔事件で多忙なのだ。

「男女? さっきのじゃなくて?」

 キム・ユジュンと、ここにいる女性の事件のことかと思ったが、ちがうらしい。いまのミンジュンが襲われたのとほぼ同時刻に、べつの事件が発生していたようだ。

 とにかく、だれかは送る、と言われて通話を終えた。

 場所もこの近くだというから、もしかしたらその被害者たちも運ばれてくるかもしれない。

 着信があった。課長からだ。出ると、とりあえず被害者から話を聞いておけ、ということだった。

 さらに、べつの情報も。

『なんていったか……入管の』

「え?」

『だから、捜査に協力してもらってる』

「新井さんですか?」

『そうそう。その女性が、いまおきた事件の被害者なんだ』

「なんですって!?」

 場所もわきまえずに、英吾は大声を出してしまった。

 新井が襲われた被害者の一人……。

 男女ということは、男性といっしょにいたところを襲われたのだろうか?

 救急車のサイレンが近づいていた。

 ミンジュンには、まだ聴取はできないだろう。運ばれてきた人物を確かめることにした。

 搬入口に急ぐと運ばれてきたのが男性だということがわかった。その顔を見て、英吾はすぐに事件のあらましにたどりついた。

 怪我を負っていたのは、あの撮影者だ。

 おそらく……新井は、夜になってあのパルガッタを訪れた。そしてそこに、ミンジュンもいた。ミンジュンはしかし、韓国人女性の電話で事件を知り、病院へ向かったのではないだろうか。そして新井は、それを追いかけた。

 その途中、新たな事件がおこったのだ。

 撮影者が、ミンジュンをみつけて、佐川の仇をとろうとした。ミンジュンは怪我をしたが、撮影者も返り討ちにされた。

 新井は、それに巻き込まれたのではないか。だとしたら……あのとき、パルガッタのなかに入っておくべきだった。そこで合流できていれば、こんなことには……。

「道をあけてください!」

 さすがに警察官だからといって、搬送されたばかりの患者に対して、それ以上近づくことはできない。すぐに処置室へ運ばれていった。意識はあるようだったが、どれほどの痛手を負っているのか素人では判断できない。

 ロビーにもどった。赤色灯の点滅が見えていた。救急車なら裏手に停まる。正面玄関近くに停まっているのが警察車両だということはすぐにわかった。

 外に出ると、パトカーから新井が警官に付き添われながら出てきた。

「新井さん!」

 救急車ではなく、警察車両で運ばれたということは、重症ではない。

「川嶋さん……」

 彼女は力なく返事をした。

「なにがあったんですか!?」

「あの男性が襲われて……」

 自力で病院に来たミンジュンのことだろう。

「昼間の客を追っていたんですか?」

 彼女はうなずいた。

 もっと質問したいことはあったが、付き添っていた同僚に、さきに治療を、と注意された。

「どこを怪我したんですか!?」

「背中を……あと、脚も」

 彼女は付き添われながら、病院の奥へ向かっていった。

 怒りがわいてきた。

 待合室にいた韓国人女性の姿はなくなっていた。

 ミンジュンの処置が終わったのかもしれない。英吾は看護師に声をかけた。

「さっきロビーで倒れた男性は、どうなりましたか?」

 そう声をかけたところで、その看護師が慌てていることに気がついた。

「どうしましたか?」

「いなくなったんです……ちょっと眼をはなしたすきに」

「韓国人男性ですか?」

「国籍まではわかりません」

「いっしょにいた女性は?」

 看護師は首を横に振った。女性の存在に、そもそも気づいていなかったのかもしれない。そんな首の振り方だった。

 二人とも姿を消した。やはり、佐川の傷害事件に関係していたのだ。

「少しまえにここへ搬送された韓国人の患者はどうなっていますか? キム・ユジュンといいます」

「その方も、仲間なんですか?」

「そうです」

 看護師は、確認するために病室へ向かっていった。すぐにもどってきた。

「いません……いなくなっています」

 三人で逃げたのだ。

 料金は支払っていないだろうが、詐欺罪を適用できる食い逃げや窃盗罪になる万引きとはちがって、医療費については即犯罪になるというわけではない。そのことで三人を手配することはできない。しかし、彼らの身柄をおさえるべきだとも思っている。

 ヘイト問題が、報復の連鎖につながっている。

 嫌韓と反日の激突……。

 警察官である英吾には、おたがいの主義主張はどうでもいい。もちろん、英吾自身が韓国の問題点を考えることもある。日本にもいけないところはあるだろう。

 が、刑事課の警察官にとっては、政治思想・ナショナリズム、そんなものは重要なことではない。

 証拠を集めて、犯罪者を逮捕すること。

 犯罪者が反日だろうが、嫌韓だろうが関係ない。法を破った者を検挙する、ただそれだけだ。

 部外者である新井を巻き込んでしまった以上、英吾も本腰をすえて行動していくしかない。

 お飾り部署だとか、不祥事をおこしたから飛ばされたとか、そんな言い訳をして、適当に仕事をしている場合ではなくなった。

 この負の連鎖を終わらせる。

 それが、国際捜査係としての最低限の役目だ。

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