第9話

『日本語を学ぶ者は日本の奴隷になり、英語を学ぶ者は英国の奴隷となる。もし韓国の威が世界に振るえば、世界の人々も韓国語をつかうことになるだろう』 アン應七ウンチル(のちのアン重根ジュングン



       9


 美里の怪我は、たいしたことはなかった。ただ背中を打って、一瞬だが呼吸ができなくなった。腰にも痛みはあるが、それはわずかだ。脚に痛みはないはずなのに、どういうわけかうまく動ていてくれない。

「背中の打撲が原因ですね。でも、レントゲンでは骨に異常はありません。神経も大丈夫でしょう」

 安心はしたが、こんなことになった自身の行動の浅はかさを嘆いていた。

 パルガッタから昼間の客を尾行しようとしたのだが、店を出たときには男性の姿はすでに見えなくなっていた。

 しかし、目的地は当麻との会話でわかっていたので、病院をめざすことにした。歩いて行ける距離だ。

 その途中、言い争うような声が聞こえた。ケンカだろうと簡単に考えたのだが、日本語だけでなく、韓国語も聞こえた。韓国語のほうは、聞き覚えがあった。いま店で聞いたばかりなのだ。

 美里は、声のほうへ急いだ。

 細い路地に入ると、前方で男性二人が争っていた。どちらが韓国男性なのか、暗いし、すぐには判別できなかった。

 だが、もう一人の男性は背が低い。それで理解した。

 街灯のわずかな光を、なにかが反射していた。刃物だ。背の低いほうの男性が手にしていた。

 そういえば、その背の低い男性のほうにも見覚えがある。が、どこで会ったのか思い出せない。

 二人の近くには、鈍器のようなものが落ちていた。どうやら、韓国人男性がその鈍器で襲われた。もみ合いになって、背の低い男性の手からそれがこぼれ落ちた。

 そのかわりなのか、背の低い男性は、刃物を抜いた。

 ──そういう状況だろう。

「なにやってるんですか!?」

 美里は大声を出した。

 そうすれば、襲撃者が逃げるだろうと考えてのものだった。

「うるせえ!」

 しかし、効果はなかった。そこで思い出すことができた。襲撃者の正体だ。あの佐川ジョーの動画を撮影していた人物だ。

 美里は、とにかく二人に近づいた。

「やめなさい! 警察を呼ぶわ!」

 刃物の切っ先が、美里のほうを向いた。

 次の刹那、韓国人男性が地面を転がるように動いた。

 落ちていた鈍器を拾い上げた。遠くから見たら短いバットのようだったが、この距離ではそれが酒瓶であることがわかった。

 韓国人男性が、酒瓶で殴りかかった。

 刃物で威嚇していた小男だったが、その一撃を頭部にうけて、うずくまった。ドラマのように、すぐ割れるような瓶ではない。ドン、という鈍い音が闇夜に震動した。

 小男は、声もない。

「やめましょう!」

 もう一発殴ろうとした韓国人男性に、美里は訴えかけた。

 男性の動きが止まった。

 しかし、うずくまっていた小男が、ムクッと起き上がっていた。

 刃物を振り下ろした。

 大振りだったから韓国人男性は、うまくかわした。だが美里のほうに身体をさばいたので、激突してしまった。

「いた……」

 気がついたときには、仰向けに倒れていた。数秒、息をするのもやっとだった。

 なんとか上半身を起こした。

 小男が、次の攻撃にうつろうとしていた。が、ふいに膝をついた。どうやら頭部への損傷で、運動機能に傷害が出たようだ。

 迎え撃とうとしていた韓国人男性も足にきていた。よろけるように美里の身体に覆いかぶさってきた。

「だ、大丈夫ですか!?」

 男たち二人にかけたものだが、どちらからも返事はない。下敷きになりながら、なんとか携帯を取り出すと、救急車を手配した。次いで、110番にかけた。

 ──というのが、ことの顛末だ。

 しかし救急車が到着するまえに、韓国人男性の姿は消えていた。頭部に一撃をうけているのに、無謀なおこないだ。とはいえ目的地は病院のはずだから、なんとか治療をうけてくれればいいが。

 救急車には小男が搬送されて、美里は警察から軽い聴取をうけてからパトカーで病院に到着した。

 病院には、川嶋もいた。夜だというのに、捜査の一環でおとずれたようだ。美里の仕事も成果はべつにして、それなりに激務だと思っていたが、警察官にはかなわないようだ。

 診察室を出ると、病院内が慌ただしくなっていることに気がついた。傷害事件の犯人が搬送されてきたのだから、警察も来ている。だからだろうか?

「あ、川嶋さん!」

 パトカーで到着したときにも会っているが、川嶋は物思いにふけるように廊下を歩いていた。

「新井さん!」

「なにかあったんですか?」

「ええ」

 どうやら、さきに自力で到着して治療をうけていた韓国人男性がいなくなってしまったようだ。

「それから、もう一人襲われた韓国人男性がいるんですけど」

「え?」

 さすがに驚くような内容だった。

「新井さんが巻き込まれるまえに、べつの傷害事件が発生したんです。それで一度、この病院を訪れたんですけど……」

 パルガッタでみかけた男性と居酒屋にいた、韓国人グループの一人だという。

「その犯人は?」

「たぶん、同じだと思います」

 あのヘイト動画を撮影していた小男なのだ。

「でも、その犯人も病院に運ばれてますよね?」

「はい。ここにいます」

「逮捕は?」

「まだ、そういう段階ではありません。新井さんは、犯行を目撃したんですか?」

「はい。ナイフで襲いかかろうとしてました」

「刺しましたか? 頭部の損傷だけのようなんですが」

「いえ、刃物は当たっていないと思います」

 韓国人男性に刺されたり切られた傷はなかったはずだ。

「頭部を殴っているのは?」

 美里は首を横に振った。それも眼にしていない。美里が追いついたときには、凶器である酒瓶は路上に転がっていた。

 その逆は見た。韓国人男性がそれを拾って逆襲してしまった。

「そうですか……」

 川嶋は難しい表情で考え込んでいた。

 被害者であるから正当防衛が認められるだろうが、殴打した犯行の瞬間を目撃していないために、美里の証言では弱いのかもしれない。むしろ韓国人男性が反撃したところはしっかり見ているから、もどかしい。あの男性には救われたも同然なのだ。

「結局、どうなってしまうんですか?」

「……難しいですね。どっちが被害者なのか、ということになります」

「さきに手を出したのは、あの撮影してた人のほうですよ!」

 その瞬間を見ていないことを承知で、そう主張した。

「それなんですけど……」

 川嶋には、なにか思うところがあるようだ。

「どうしたんですか?」

「そもそもあの加害者が凶行に出たのは、報復のためかもしれないんです」

「報復?」

「佐川ジョーが襲われたことを思い出してください」

「そういえば、今度は刺されてしまったんですよね?」

 そのことの連絡をうけていたのだった。

 どうやら川嶋は、佐川ジョーを襲撃したのが、被害者である韓国人男性だと考えているようだ。

「犯人なんですか?」

「おそらく……」

 ということは、まずヘイト動画を眼にした韓国人男性が、佐川ジョーを襲撃した。その報復で、佐川の仲間が韓国人男性を襲ってしまった──そういうことだろうか?

「あの韓国人は、ミンジュンという名前らしいんだけど、彼をはじめ、居酒屋にいた男女は、たぶん反日思想をもっているグループなんだと思う」

「そのうちの一人が、さきに襲われた人ですね?」

「はい。名前は、キム・ユジュンといいます」

「その人もいなくなってしまったんですね?」

「もう一人、この病院にいた女性も姿を消してしまった」

 その女性は、心配して来訪したのだろうと予測をたてた。

「それじゃあ……被害者のほうも、加害者ということになるんですか?」

「そうですね……」

 だから姿を消した。

「警察は、どう動くんですか?」

「韓国人グループを被害者とした場合は、その被害者自身がいなくなってしまったので、傷害事件としては動けなくなりました」

「でも、傷害事件は親告罪ではないですよね?」

「そうですけど……被害者がいないのに捜査をすることはありません。もちろん、明確な目撃者がいれば捜査をせざるをえませんが」

 美里の証言は、それにはあたないということだ。

「もしくは、もう一人の事件関係者が罪を認めれば……まあ、それはないでしょうから」

 つまり犯人であるあの撮影者が、自分がやりました、と自首すれば──。

「あの韓国人グループを加害者とみた場合ですけど……被害者の佐川がそれを目撃していれば、立件はできます。しかし、彼は見ていないと証言している。ほかに韓国人グループを犯人と決めつける証拠はありません」

 ですが……、と言いづらそうに川嶋は続けた。

「あの佐川の仲間が、佐川を襲った犯人を目撃していて、そう証言をしたら、韓国人グループは逮捕されるでしょう」

 釈然としない内容だった。

 しかし、それは美里がおおもとになった事件を知らないからで、そちらのほうを目撃していたら、韓国人男性のことを許せないと思っているかもしれない。

「でもきっと、韓国人グループにも言い分はあるんでしょう。犯罪は犯罪ですが、ヘイト動画に触発されたのだとしたら、それを流したほうにも責任はあります」

 フォローのつもりなのか、川嶋は言った。だが先に手を出したほうが悪いのは、美里にもわかる。

 そして、ハッとさせられた。

 いつのまにか自分は、韓国人の肩をもっている。危ないところを助けてもらったからだろうか。むこうは、助けようとしたわけではないのだろうが……。

 いくら非常識な動画を流したとしても、暴力に訴えてはいけない。もちろん、その報復も言語道断だ。

「いやな連鎖ですね……」

「そうです。あってはならないことです」

「どう捜査するおつもりなんですか?」

「まずは加害者……としておきましょう。この病院にいる佐川の仲間から事情を訊きます。韓国人グループをさがすのは、それからになります」

「わたしにもお手伝いさせてください」

「身体は、大丈夫なんですか?」

「問題ありません」

 背中が多少痛むだけだ。脚も動くようになっていた。

「とにかく、動くのは明日からです。今夜は休んでください」

「わかりました……」

 警察官でもない素人が出しゃばったところで、逆に迷惑をかけるのは眼に見えている。だが事件に巻き込まれた以上、美里も当事者なのだ。

 翌朝、九時に機構の前で待ち合わせをすることになった。



「おはようございます」

 おたがいが型どおりの挨拶をすると、すぐに徒歩で病院へ向かった。佐川の仲間である撮影者の男性を聴取するためだ。

「名前は、鳴橋忠司。年齢は二五歳」

 歩きながら川嶋が、これから聴取する相手のデータを教えてくれた。

「職業は無職ということになるようですが、実際には動画で得た収益があると思われます。まあ、佐川の動画の再生数では、それだけで食べていけるかは疑問ですが」

 あの動画は、佐川とその鳴橋が共同でつくりあげているようだ。

 病院についた。昨夜、美里自身が治療をうけた病院だ。

 小男──鳴橋の病室前には、警察官が立っていた。捜査の行方がどう転ぶかわからないが、容疑者であることは確かなのだ。

 川嶋とともに病室に入った。

 ベッドに横たわる鳴橋は、起きてはいるようだが、元気があるようには見えなかった。頭に包帯が巻かれている。韓国人男性──ミンジュンの反撃によって痛手をうけたのだ。

「鳴橋忠司さん。新宿署の川嶋です」

「……」

「あなたが韓国人の男性を襲撃したという目撃証言があります。あなたは、韓国人男性のことを襲いましたか?」

 弱々しい表情ながらも、眼光が鋭くなった。

「鳴橋さん?」

「知らない……あいつらが悪い」

「どういうことですか?」

「……さきにやったのは、むこうだ」

「それは、佐川さんを襲撃した犯人が、韓国人男性だったということですか?」

 鳴橋はうなずいた。

「犯行の現場を目撃したんですか?」

 再び鳴橋はうなずいた。

 美里は、川嶋の顔を見た。

 これで警察は、韓国人男性を犯人としてさがすことになる。

「それであなたは、報復したんですね?」

 それには黙秘した。

「わたしのことは覚えていますか?」

 美里は、鳴橋に視線を移しながら言った。

 鳴橋の表情に変化はなかった。

「この新井さんは昨夜、あなたが怪我をした事件に居合わせました」

「……この人、関係ない」

 ボソッと鳴橋は言った。

「あなたが原因で怪我をしたんですよ!」

 川嶋が責めても、鳴橋の様子はかわらなかった。

「おれがやったんじゃない。この人は、あいつにあたったんだ」

 それはまちがいではない。あらためて美里は、川嶋へうなずいた。やはり自分の証言ではダメなのだ。

「韓国人男性への暴行はしていないんですか?」

 美里の証言で追及しても無駄だと判断したのか、川嶋はべつのアプローチをためすようだ。

「……知らない」

 鳴橋は否定を繰り返した。

「わかりました。では、佐川さんを韓国人男性が襲っているところは、ちゃんと目撃したんですか?」

 コクンと、うなずいた。だが美里の眼には、どこか迷いがあるように映っていた。

 思わず、川嶋と視線を交わした。

 おそらく犯行の瞬間を目撃しているわけではない。佐川ジョーは犯人を見ていないはずだから、彼から聞いたわけでもない。

 根拠はあるのだろうが、確証はない。もしあるのだとしたら、そもそも報復などせず、警察に通報すればいいことだ。

「正直に言ってください。見ていませんね?」

 鳴橋は、うなずくことこそしなかったが、眼の色がそれを認めていた。

「ではどうして、あの韓国人男性が佐川さんを襲ったと思ったのですか?」

 川嶋が丁寧に質問した。

「……あいつらだ」

 つぶやくように鳴橋は訴えた。

「ですから、その根拠を教えてください」

「見た」

「犯行を?」

 これでは堂々めぐりだ。

「……あいつらのほうが、差別主義者だ」

 吐き捨てるような言い方だった。

「あの人たちが反日グループだという確証はあるんですか?」

 川嶋自身も同じように思っているはずだが、彼はそう質問を続けた。

「動画」

 鳴橋は、短く答えた。

「彼らも、動画を出しているということですか?」

「そうだ……無条件愛国主義者だ」

 それが本当なら、佐川と鳴橋がヘイト動画を投稿したのも、もしかしたら韓国人グループへの対抗措置だったのかもしれない。

 根が深い。

 美里は、それを痛感した。おそらく、川嶋も同じことを思っているだろう。

「その動画は、わたしたちでも観ることはできますか?」

 美里は、尋問に割って入った。

「KSAM」

「え?」

「検索してみろ」

 どうやら、そのワードで調べてみれば、動画にいきつくらしい。 聴取をそこで切り上げて、まずは動画を観ることになった。

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