第16話

『朝鮮には、内部から自らを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない』 イザベラ・バード



       16


 結局、火災は発生せず、ケガ人もでなかった。あくまでも発煙筒を投げ入れただけだ。咳き込んだ客が数名いたが、救急車が来たころには回復していた。

 傷害でもなく、器物破損ですらない。該当する罪状は、威力業務妨害しかないだろう。

『パルガッタ』での現場検証がすむと、英吾と新井は、新署で刑事組対課長、強行犯係長と捜一の横山をまじえて話し合うことになった。横山にも連絡をとっていたのだ。

 警官襲撃事件の管理官は、すでに本庁へもどったあとだったので、リモートで参加している。こちらの映像は送っていないが、音声はむこうに届いている。

『いろいろ込み入ってるみたいだが、説明してくれ』

 液晶画面のなかの管理官は、憔悴しているように顔色が悪かった。カメラの感度のせいだろうか。

「ここまでの流れを、川嶋君に説明してもらいます」

 横山が言った。

「管理官には、ある程度のことは話してあるから遠慮せずに説明してくれ」

 英吾は、これまでの流れを語っていく。

 発端になった佐川ジョーへの傷害事件。

 反日韓国人三人組。

 鳴橋忠司とキム・ユジュン、ミンジュンの傷害事件。

 そして、もともとは新井が調査していた落書きの件。警察官が、それにかかわっているかもしれないこと。

 さらに、それが警官襲撃につながる──。

「さっきの放火未遂も、その流れが関係しているというのか?」

 そう質問したのは、係長だ。放火未遂というのは、少しオーバーな発言だ。

『横山君から簡単な報告は受けていたが、こうして聞いていると、想定よりも込み入っているようだね』

 画面のなかの管理官が言った。年齢は五十代のどこかだろう。英吾から見てベテランの横山を「君」づけするだけの貫録はそなえている。

「はい……端的に言うと、嫌韓日本人と反日韓国人とのあいだで、ヘイト合戦がおこなわれています」

『それがエスカレートして、傷害事件にまで発展してるというわけか……』

 愚痴のように、管理官はつぶやいた。

「で、襲われた警察官は、本当にヘイト活動をしていたというのか?」

 係長が憂いを言葉にかえた。

「確証があるわけではありません」

 そう答えることで、肯定したつもりだ。

『……わかりました。川嶋巡査と、ええーと……法務省の』

「新井さんです。あと、法務省ではなく、外務省です」

 そのことは課長たちには説明してあるのだが、うまく情報共有されていないようだ。

『そうですか、入管の関連組織だと聞いていたので……。外務省でしたか』

「はい」

 か細い声で、新井自らが応じていた。

『あなたたち二人にも、捜査に参加してもらいたい』

「捜査本部に入るということですか?」

『形式的には』

「はあ……」

 その形式とは、どのような意味だろう。

『これまでどおり、あなた方は好きなように動いてもらって結構です。情報をこちらにあげてさえくれれば』

 そんな都合のよい話があるだろうか。

「あの……捜査本部の情報は、こちらにいただけるのでしょうか?」

 勇気をふりしぼって、英吾は質問した。

『こちらで精査して、お伝えします』

 そのような曖昧な返答だった。おそらく、重要な情報はおりてこないだろう。こっちの情報だけを吸い上げて、犯人検挙をめざすはずだ。

 英吾の部署は一人だけのお飾り部署であり、手柄をたてさせても新署および警視庁にメリットはない。そして部外者である新井に、捜査状況を知られたくないと考えている。

 しかし、この事件を解決できるのなら、手柄うんぬんは、どうでもいいことだ。きっと新井もそう考えているはずだ。

 管理官を映した画面が消えた。

 係長も退出し、部屋には課長と横山が残った。英吾と新井も行こうとしたのだが、横山に呼び止められた。

「もし、二人の手にあまるようなときには、迷わず連絡してくれ」

「はい。ありがとうございます」

「おまえさんたちのためだけじゃない。もう二人の捜査は、こっちの本流にも影響をあたえてるってことなんだ。二人が向かう方角をまちがえるだけで、事件は暗礁にのりあげちまう」

 責任が重い、という忠告のようだ。

 あらためて頭をさげてから、英吾たちも退出した。

「……なんだか、大変なことになってしまいましたね」

 新井が、嘆くように声をもらした。

 彼女にしたら、ああいう捜査会議的なものに立ち会ったことはないだろうから、かなり緊張したはずだ。

 本当の捜査会議はもっと人数は多いし、空気もピリついている。それに、この署で一番大きな会議室は、通り魔事件で使用されている。本来なら、警官襲撃事件の捜査本部もその会議室に置かれるはずだった。その場合、さらに威圧感が増すだろう。

 といっても、英吾だってあまり経験したことはないのだが……。

 出席しなければならないときは、彼女を気遣っている余裕はない。

「新井さん……」

 警察署を出たところで彼女とは別れようとしたのだが、英吾は予感があったので、声をかけた。

「あの店に行くつもりですか?」

「いえ……今日は帰ります」

 どこか重い足取りで、彼女は歩いていった。

 英吾も家路についた。

「……」

 歩を進めれば進めるほど、もやもやしたものが身体にわきあがってくる。正直、いまのことだけにしぼるなら、彼女の言葉は信用できなかった。

 すでに新井の姿は見えなくなっている。『パルガッタ』のある方角と、彼女の歩いていったさきは、偶然にも同じだ。いや、彼女の住居を知らないから、それを判断できない……。

 英吾は、『パルガッタ』に向かった。

 本来ならまだ営業している時間だろうが、あんな事件があったから、どうなっているか……。

 まだ現場検証をやっているときに英吾と新井は署に移動したのだが、すでに検証は終わっているだろうし、ケガ人も出ていないから規制線も張っていないだろう。

 店の電気はついていた。外から見たところでは、通常営業をしているようだ。

 なかに入った。新井の姿はないようだった。あの店員も見当たらない。疑ってしまったことに、罪悪感を抱いた。

 すぐに出た。どちらもいないのなら、こんなところにいる必要はない。店の周囲を、念のため見回った。

 さきほどの発煙筒騒ぎは、事件化されないようだ。店が被害届を出さなかったためだ。だから、それ関連で佐川ジョーを手配しているわけではない。ただし、一連の事件についての重要人物として、捜査本部はさがしているはずだ。

 自分たち二人の捜査では困難だが、捜査一課をふくめた人員で挑めば、うまくいけば今夜中にも発見されるだろう。

 今度こそ、英吾は帰宅しようと歩き出した。

 衝撃は、突然やって来た。

 気づいたときには、仰向けに倒れていた。月が見えているから、どうにかそのことがわかったのだ。

 なにがあった?

 わからない……。

 遅れて、頭に痛みがはしった。

 手を頭にもっていった。その動きが、自身の想像よりも緩慢だった。

 頭部は、濡れていた。

 どういうことなのか?

 ザ、という音が耳元で聞こえた。

 だれかの靴が、すぐ顔の横におりてきたのだ。

「だれ……」

 言葉も、うまく出てこない。

 この人物に、襲われた……。

 頭部をなにかで殴られたのだ。

 身体を動かしたいのだが、動いてくれない。

 いまこの人物は、とどめを刺そうと自分を見下ろしている……。

 生まれてはじめて、死を覚悟した。

「やめろ!」

 声がふりかかった。

 耳元で、擦過音が鼓膜を不快にさせた。襲撃者が駆け出したのだ。

「う……だれ……」

 べつの人物が近づいてきた。

 顔は暗くてわからない……いや、一瞬だけ街灯に照らされた。

「あ、あなたは……」

 名前は知らない。あのバーの店員だ。

 新井の話によれば、彼も外務省の職員らしい。

「動くな。頭を殴られてる」

「だ、だれに……」

「救急車は呼んだ」

 店員は、去っていこうとしていた。

「ま、まって……」

 起き上がろうとした。

「だから、動くなって」

 立ち止まる気配がして、店員がそう言った。

「あ、あなたは……なにがしたいんだ……」

「おれの素性を聞いたか?」

「外務省の……」

 なんという組織名なのかは思い出せなかった。

「国際問題に発展するかもしれない案件だ。一介の警察官が首を突っ込むべきじゃない」

「あ、新井さんは……」

「彼女も、この嵐に巻き込まれてる。外務省に採用されたのも、彼女の素性があったからなんだろう」

 では、やはり彼女は韓国人の血をひいているのだ。

「あの女に惚れたか?」

 答えられない質問だった。

「そう怖い顔をするな。いまは動かず、病院に行け。おまえが覚悟をきめるというのなら、あとでおれのほうから会いにいってやる」

「ど、どういう……」

「病院のベッドで、どうするかきめておくんだな」

 そう言い残して、彼は消えていった。

 救急車のサイレンが、遠くから聞こえてくる。

 それを耳にしながら、英吾の意識は闇に落ちていた。



 とりもどしたのは、病院のベッドの上だった。

「川嶋さん、わかりますか?」

 看護師だと思われる女性の声がした。状況はすぐに理解できた。

「先生を呼びますからね」

 大丈夫だ。記憶はしっかりしている。どうしてここにいるのか、はっきり覚えている。

 医師による診断をうけてから、しばらく時間が経った。すでに翌日の昼間になっているようで、太陽の光が差し込んでいた。

「大丈夫か?」

 横山が入室してきた。コンビを組んでいる若手──広田もいっしょだ。

「大丈夫です……」

 上半身を起こそうとしたが、身体が動いてくれなかった。そのままの姿勢で答えた。

「なにがあった? だれに襲われたんだ?」

「よくわかりません……顔は見えませんでした」

「そうか……」

「……すみません」

「あやまることじゃない。まえにも言ったが、警察官だからって闇討ちされたらどうにもできない」

 しかし、べつの見方をする警察官も多いはずだ。現に広田のほうは、憮然とした表情をしている。

 警察官なのに、情けない──そう思っているはずだ。岸巡査のときにも彼は厳しい言葉を放っていた。

「この件は、うちがすべてうけもつ。だから心配することはない」

 職務中でなかったことが幸いしたようだ。そうでなければ、監察案件になっていた。横山の言った意味は、そういうふくみがあることだ。

「なあ、救急への手配をした人間に心当たりはあるか?」

「……いえ」

 一瞬、あの店員の顔が浮かんだが、英吾はそう答えた。

「だれの通報なのかわかってない。日本人のようだが……」

 まるで英吾の表情をうかがうように、横山は続けた。そういう意図がなければ、日本人のようだ、とはつけないだろう。

「警察への通報は、救急隊員からだった。その善意の第三者は、救急車だけを手配して、どこかへ行ってしまったようだな」

「……そうですか」

「まあいい。思い出したら教えてくれ」

 しつこく追及されることもなく、横山たちは帰っていった。時間を気にしていたので、これから捜査会議なのか、それとも医者から時間を制限されていたのか……。

 横山たちと入れ替わるように看護師が来て体温と血圧を測った。看護師も立ち去ると、しばらく一人の時間が続いた。

 ドアの開く音がしたと思ったら、想像していなかった人物が立っていた。

 いや、彼は昨夜、会いに行くと言っていたではないか。

「そのままでいい」

 今度こそ上半身を起こそうとしたら、そう言われた。

「時間がないから、用件だけ話そう」

 おそらく、面会謝絶になっているのだろう。横山は警察官だから許可がおりたのだ。

「おまえを襲ったのは、韓国人でまちがいない」

「三人組の……」

「そうだ。そのうちの一人だ」

 その言い方だと、三人が共謀しているというよりも、一人だけが暴走した単独犯だという印象をうける。

「犯人の居場所を知ってるんですか?」

 英吾は慎重に問いかけた。

「おれが、かくまってる。あのアパートから移動させたのも、おれだ。彼女の動きが邪魔だったんでな」

「……警察に渡してください」

「これは、国防案件だ」

 店員は、淡々と口にした。

「国防?」

 外務省が動いているということは、外交問題につながっているのだ。しかしそれにしても国防とは、さすがに大袈裟すぎる物言いだ。

「理解できない顔をしているな」

 そのとおりだった。

「最終的にいきつくところは、戦争ということだ」

「……ありえません」

「どうして、そう言える?」

「ヘイト感情だけで戦争がおこるのなら、この世の中は戦争だらけです」

「実際この世は、戦争だらけじゃないか」

「……」

 たしかに本質をついている。だが、ここで反論しないわけにはいかない。

「戦争の多くは、領土の奪い合いや、宗教問題が絡んでいるはずです」

「それは表面上にすぎない。根底にあるのは、ヘイトだよ。他民族と他民族のヘイト感情がなければ、領土紛争も、宗教戦争もおこっていない」

 見事に論破された。

 乱暴な意見であることはまちがいないが、それを打ち負かすだけの考えを英吾はもっていない。

「もし、こちらの領域に一介の刑事が入り込んできたら、そっちの専門家が圧力をけてくるだろう」

 公安のことを言っているのだろうか?

「……いま動いているのは、外務省だけなんですか?」

「いまのところは、そうなんだろう」

 彼は、曖昧に答えた。本当によくわかっていないのか、それともわざとぼかしているのか……。

「新井さんは……ぼくらと捜査をするつもりです。いいんですよね?」

「……」

 それまで冷徹さすら感じる彼の表情が、一瞬だけ崩れた。

「いいんですよね?」

 英吾は、繰り返した。

「あのときの続きだ……あの女に惚れたか?」

「いまはそんなこと、どうでもいいでしょう!」

 頭のなかが、はっきりした。

 上半身を起こしていた。

「元気が出たか?」

「……ちゃんと答えてください!」

「おまえの手には負えないぞ。彼女の正体を知ってるのか?」

「……韓国人なんでしょう?」

 もしくは日本人だが、韓国人の血を引いている……。

「本人から聞いたのか?」

「いえ……」

 昨夜、彼からの言葉でも、それを推理することは容易だ。

「そうか。だがな……おれが言ってるのは、そんなことじゃない」

「? どういう意味ですか?」

「彼女一人の問題じゃないんだよ……いろいろとな」

「なんのことですか?」

「おれにも確証があるわけじゃないんだ。いいか、おまえが彼女の味方でいるつもりなら覚悟はしておけ」

「なんの覚悟だというんですか!?」

「公器と敵対する覚悟だよ」

「公器?」

「いいな? おまえがまちがった方向に進まなければ、おれはもう一度だけ、おまえに力を貸してやる」

 彼は、病室を出ようとしている。

「まって!」

 まだ聞きたいことは、山ほどあるのだ。

「おれの名は、当麻だ」

「苗字ですか、下の名前ですか?」

 結局、その質問にすら答えずに、彼は──当麻は出ていってしまった。

「公器……?」

 謎だけが残った。

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