第15話
『日本人は西洋の服装をすると、とても小さく見える。どの服も合わない。日本人のみじめな体格、へこんだ胸部、がにまた足という国民的欠陥をいっそうひどくさせるだけである』 イザベラ・バード
15
まだ『パルガッタ』は開店していなかった。しかしそれでも、美里は一刻もはやく当麻に会いたかった。
扉を開けようとするが、鍵がかかっている。
「……」
しかたない……。
美里は、例のアパートへ向かうことにした。
念のため、尾行を警戒した。隠し事をしているのを、川嶋に勘づかれている。
味方であるはずの彼を、こんなかたちで裏切るなんて……。
最低だ。美里は、本気で思った。親友たちに自分の素性を隠していたことに似ていた。ほの暗い後ろめたさでいっぱいだ。
アパート前についた。周囲に異変はない。警察にマークされているということもないだろう。
「……」
思い切って、部屋をたずねることにした。
彼らがいるであろう部屋の扉をノックした。
応答はない。
もう一度。
「……」
やはり反応はない。だれもいないのだろうか?
すでに、べつの場所へ移動しているのかもしれない。
(どうしよう……)
好奇心に負けて、ノブに手をかけてみた。
まわしてみたら、鍵はかかっていなかった。
「あのぉ……だれかいますか?」
そんなことを口ずさみながら、ドアを開けていた。
ワンルームの部屋は狭く、だれもいないことはあきらかだった。 食べかけたコンビニ弁当が、じかに置かれている。三人分あるようだ。ついさっきまで、あの韓国人たちが潜伏していたものと思われる。鍵もかけないまま、急いで部屋を出たようだ。
まさか、美里の接近を知って逃げ出したのか?
いや、さすがにそれはないだろう。
なにか不測の事態がおきて部屋を出た……。
美里は、部屋の様子をもう一度だけ眼に焼き付けてから、部屋をあとにした。
彼らがいなくなったことを当麻は知っているのだろうか?
急いでパルガッタにもどった。
さきほどは無人だったが、いまはなかに人の気配があった。当麻かと思ったが、べつのスタッフだった。最初、ハングルで話しかけられたが、身振りでわからないことをアピールした。
「営業まだ」
片言の日本語だった。
「当麻さんは?」
スタッフは首を横に振った。知らないという意味なのか、今日は来ないという意味なのかは判断できなかった。
あまり込み入った話をしてしまうと、当麻の立場を悪くするかもしれないので、すぐに店を出た。
当麻は、どこにいるのだろう?
それとも韓国人グループと行動をともにしているのだろうか?
警察の動きもあるから、どうにかして連絡をとりたい……。
当麻の番号は知らないが、当麻に指示を出している人物になら連絡をとれる。これまで美里のほうからかけたことはないが、藤森にかけてみた。
『なにかな?』
すぐに出た。
「当麻さんと連絡をとりたいんですけど……」
『だれのことだかわからんね』
「話は聞いています……わたしも、そうなんですよね?」
『当局は、そのようなことに一切関知していない』
どこかのスパイ映画のような返答だった。
「そんな……」
美里は絶句した。
『あなたの仕事は、韓国人とのヘイト問題を調査・解決することです』
「本当にそれだけでいいんですか?」
美里は、念を押した。
『そうです』
そこで一方的に切られた。
「……」
藤森の魂胆は、わからない。だが、ああ言われたことで、美里の腹は決まった。
外務省の思惑を、忖度する必要はない。いまは出向している立場なのだ。
こんなスパイのようなことは、やめだ。
自分の仕事だけを考える。
「もしもし? 川嶋さんですか? これから言う場所に来てくれませんか?」
川嶋が問題のアパートに到着したのは、二十分後だった。しかし室内を調べるには、令状の請求が必要だった。
「本当に、あの部屋に彼らが潜伏してたんですか?」
「はい……」
だいたいの事情は、説明しておいた。
「課長に話を通しても捜査本部が優先なので、こっちは明日になるかもしれませんでした」
そこで川嶋は、捜査一課の横山を呼んでいた。本部の中枢にいる横山なら、早く令状を用意してくれるだろうと画策したようだ。
一時間ほど経過してから、横山ともう一人の刑事が到着した。もう一人は、広田という名前らしかった。
美里は、てっきり横山の独断で捜索令状を請求したのかと考えたが、横山の階級は巡査部長で、それはできないという。
はじめて知ったのだが、令状を請求できるのは警部補以上の階級がなければならないらしい。さらにそのなかでも逮捕状となると、警部以上ということだった。手続き自体はどの階級でもできるそうだが、その階級の責任者の署名捺印が必要になるらしい。
「もう少しかかる。でもお嬢さん、ここに韓国人グループがいたと、どうしてわかったんですか?」
「……外務省の関係です」
美里は、そう濁した。当麻のことは、さすがに言えない。
新たな警察車両がアパートの前に到着した。続けてワゴン車もやって来た。どうやら、令状をもってきた捜査員と、鑑識の人間らしかった。
「協力を感謝します」
あらためて横山は礼をのべ、アパートの管理人立ち合いのもと、部屋の捜索を開始した。美里と川嶋の入室は認められず、外で待つことになった。
「これのことだったんですよね?」
川嶋が、遠慮がちに声をかけてきた。
美里がためらっていたことについて言っているのだろう。
「すみません……」
「もしかして……これには、あのバーの店員が関係してるんじゃないですか?」
頼りなく見えても、やはり刑事だ。それも見抜かれている。
「彼は、何者なんですか?」
「……」
「外務省の関係と、横山さんに言いましたよね? それ、本当のことなんですか?」
「……そうです」
「外務省の職員が、なぜ韓国人の立ち入るバーに?」
「詳しい職務のことは……」
「ぼくは警察官です。知り得たことを、ほかに口外することはありません」
「外務省には、国際情報統括官組織というセクションがあります。情報を収集するのが任務です」
「情報? 内閣情報調査室のようなものですか?」
「じつはわたしも、よく知りません」
統括官組織のこともそうだし、内閣情報調査室のことも知識としてもっていない。
「わかりました……とにかく、あの店員が、そういう役目をになってるわけですね?」
美里はうなずいた。
「……あなたも、そうなんですか?」
川嶋が、慎重に言葉を選んでいることは理解できた。
「そうなのかもしれません……でも、ちがうのかもしれない」
曖昧な答えだと自分でも感じたが、それが真実だ。当麻はそうだと言い、藤森はちがうと言う。
「警察が介入しても、よかったんですよね?」
「それもわかりません……」
正直に白状した。
「ですが、あなたはそう判断した」
美里は、再びうなずいた。
川嶋という警察官は、一見頼りなげだが、人のことをよく観察し、相手の心情をおしはかることのできるやわらかさをもっている。
彼のことをもっと信用してもよかったのではないか、と後悔がつのった。
部屋から横山が出てきた。
「どうでしたか?」
川嶋のほうから声をかけていた。
「重要なものはなさそうだ」
そして美里に向き直って、
「行方に心当たりはないんですか?」
「ありません」
美里は答えた。
「三人なんですよね? キム・ユジュンとミンジュンは、われわれも把握していますが、もう一人の女性の素性はわかっていません。新井さんは知っていますか?」
「いいえ。顔は見ましたけど……」
「川嶋君は?」
「ぼくもわかりません。ですが、鳴橋忠司との傷害で、彼女から聴取しているはずですが」
「いや、それが……担当の警官が、日本語が通じなかったんで、なにも話は聞いてないらしいんだ。パスポートのチェックすらしていなかった」
だから、あの女性の情報がなにも入ってこなかったのだ。
「もう一度確認しますが……行き先に、心当たりはないんですね?」
横山が念を押した。嘘をついていると思われているのだろうか?
「……はい」
「ほかに行方を知っていそうな人物も知りませんか?」
「……」
やはり疑われている。
「知りません」
「わかりました。もし、心当たりを思い出したら連絡をお願いします」
次いで、川嶋に言葉をかけた。
「おれらを呼んだのは、正解だったな。本部も、韓国人グループの確保に主軸をおくようだ。また、おまえさんたちの力をかしてくれ」
「は、はあ……」
困った反応の川嶋と美里を残して、横山たちは撤収をはじめた。
二人もアパートから離れた。
「どうしますか? あのバーに行きますか?」
川嶋が、そう切り出した。
「たぶん、いないと思います」
「でも、ほかに心当たりはないんでしょう?」
「……そうですね」
そんな流れで、再び『パルガッタ』へ行くことになった。
すでに陽も傾いている。客の入りは、それなりだった。
「やっぱりいません……」
「ほかの店員に訊いてみますか?」
「さっきやりました。それに、この店は韓国語で話すきまりがあります。ほかの店員は韓国人のようですし、日本語が話せないかもしれません」
「ぼくが警察官として聴取することもできます」
「それは……」
美里は、当麻の立場をおもんばかった。川嶋もその意をくみとってくれたようだ。
そのままおとなしく、二人して店を出ようとしたときだった。
「え?」
なにかの騒がしさが耳に届いた。
なんだろうと入り口に眼を向けると、扉が勢いよく開けられた。
「くらえや!」
顔を布で覆った人物が、大声をあげていた。
不自然な煙がたちこめている。すぐに理解した。発炎筒だ。男の両手から、大量の煙が放出している。
美里の耳がたしかなら、その男の声は佐川ジョーのものだ。
佐川と思われる人物は、手にした発炎筒を店の奥めがけて投げ込んだ。
客たちの悲鳴があがる。
さらにポケットのなかに隠し持っていたべつの発炎筒も取り出した。そこからは視界がさえぎられたためにさだかでないが、それも発火させたのだろう。
「日本から出てけ! 虫けらども!」
そんな捨て台詞ようなものが聞こえた。佐川と思われる男は、店から出ていったようだ。
店内には、煙が充満していた。
火災報知器の音が鳴り響く。
「ゴホッ! 大丈夫ですか。新井さん!」
「は、はい……」
とにかく店の外に出ることが先決だ。
出口へ急いだ。ほかの客や店員も同じ動きをしているので、扉付近は人が密集してしまった。なんとか外へ出ることができた。
咳き込んでいる者が数人いたが、火災がおきたわけではない。あくまでも煙だけだ。
「炎のような光はなかったので、あれは発煙筒ですね」
少し落ち着いたところで、川嶋が言った。最初、意味がわからなかった。
「だから、あんなに煙が充満したんです」
それ以外に、なにがあるというのだろう。
「自動車に積んでいなければならないのは、発炎筒です。それだったら、あんなに煙は出ない」
そこで生まれてはじめて、この世には『発炎筒』と『発煙筒』があることを知った。煙の出るものは、一つしかないと思い込んでいた。
「無害なんですよね?」
「ダイレクトに吸い込めば身体に悪いでしょうけど、そういうものではありません。ですが、発煙筒は一般的に出回ってはいないでしょう」
たしかに、どの車のなかにも入っている発炎筒よりは手にする機会は少ないはずだ。
あの犯人──おそらく佐川ジョーは、発煙筒を用意して、あの店に投げ入れた。計画的な犯行だ。
消防車のサイレンが近づいてくる。
怪我をしている者はいないだろうが一応、救急車も呼んでいた。
警察車両も、じき到着するだろう。
美里は、あらためて覚悟した。
ヘイトの嵐は、もう止められないところまできてしまったのかもしれない。
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