第17話

『犬にも等しい倭人に拝礼するのは苦痛である』 キム仁謙インギョム



       17


 当麻のことは気になっていたが、美里は素直に帰宅した。

 川嶋には、疑われていた。仕方のないことだ。それを反省したわけではないが、おとなしく自分の部屋で夜を過ごした。

 もう寝ようか、というときになって、携帯が音をたてた。

 めずらしい。父親からの電話だった。

 母からはよくかかってくるが、父が連絡をしてくることは、ほとんどない。記憶をめぐらせてみても、思い出せなかった。

「父さん?」

 高校生のあるときまでは「パパ」と呼んでいた。そうだ。あの告白をされるときまでは……。

 親子関係までが、あれで変わってしまった。

『いやね……最近、どうなのかなって』

「べつに、いつもどおり」

 素っ気ない応対になっているが、父親からの電話なんて、みな同じようなものだろう。

『仕事は、順調?』

「うん」

 襲撃事件に巻き込まれて、怪我をしたことは言わなかった。母にも教えていないことだ。

『なにか、危ないことじゃないんだよな?』

「どうしたの? そんなことあるわけないじゃない」

 じつは警察の捜査に加わっていると知ったら、父はどう思うだろう。

『そうか……それならいいんだ』

「うん、それだけ?」

『あ、ああ……じゃあ』

 こうして、ぎこちない通話が終わった。

「……」

 切ってから、不思議な感覚につつまれた。

 なんの用でかけてきたんだろう……。

 幼いころから、ちゃんと隠さないでいてくれたら、もっと普通の親子関係でいられたのかもしれない。きっとそうだ。

「……」

 美里は、不毛な思考に終止符をうった。

 今日は疲れている。

 静かに眠りにつこう……。



 不吉な夢を見た。

 夢だとわかっていたから、まだ救われている。むしろ眼を覚まさずに、もう少しこのまま見続けてみようと思った。いや、その考えも夢の一部なのかもしれない……。

 日本と韓国が戦争をはじめたのだ。

 韓国にいる日本人が虐殺され、それに呼応して日本にいる在日韓国人が殺されていく。現実ではありえないとわかっていても、リアルな臨場感があった。

 美里も日本人から狙われた。よく知っている人のようで、見たこともない人物だった。どんなに、わたしは日本人なのだ、と主張しても聞き入れてはくれなかった。

 しかし殺されそうになったとき、その日本人から拳銃を渡された。

 それで韓国人を殺せと。

 美里は拒否した。そんなことはできないと……。

 それからどうなったのか──。

 わからない。夢は、脈絡なく展開していくものだ。

 ケーキをいっぱい食べていたところで、眼が覚めた。

「……」

 もう一回、眠ってみようか……。

 本気でそう考えた。

 夢の続きが見たかった。もちろん、ケーキの夢ではない。

「……」

 眠れない……。

 あきらめて、起きることにした。時刻を確認した。アラームが鳴るまで、あと三十分ぐらいだった。どのみち、二度寝しているだけの時間はない。

 頭がはっきりしてくるほど、夢の記憶は薄くなっていく。

 どんな夢だったっけ……。

 朝食をとりながら、美里はそんなことを考えていた。

 いつもどおりに部屋を出た。もう少しで職場に到着するところで、携帯が音をたてた。

「はい」

 だれからの着信なのか、よく確認せずに出てしまった。

『新井さんですね?』

「そうです」

 たしかこの声は、刑事の横山だ。

 美里は首をかしげた。横山に番号を教えただろうか?

「どうかされたんですか?」

『たぶん、ご存じないでしょうから伝えておきます』

 あらたまったように、横山は言った。

『昨夜、川嶋が何者かに襲われまして』

「え?」

『命に別状はないようなんですが、まだ意識はもどっていません』

 一瞬、安堵しかけたが、意識がもどっていないということは、軽傷ではないはずだ。

「そんな……」

 昨夜別れるとき、川嶋は、美里があの店に行くのではないかと疑っていた。おそらく、確認しにいったのだ。

 わたしのせいだ──美里は責任を感じた。

 すぐに病院へ向かいたかったが、横山に止められた。いまは面会謝絶だから、行っても会えないと。

『会えるようになったら、こちらから連絡しますよ』

「お願いします……」

『それから……』

 横山は、慎重に発言しているようだった。どうやら、ここからが本題のようだ。

「はい、なんでしょう?」

『身辺には気をつけてください』

「え?」

 そんな忠告をされるとは思ってもみなかった。

『犯人はわかっていません』

「……その犯人に、わたしも狙われるかもしれないということですか?」

『犯行動機が判明しない以上、用心にこしたことはありません』

 つまり、次に美里が狙われるかもしれない……そういうことだ。

 川嶋が襲われて、美里にまで危害をくわえようとした場合、犯人は一連のヘイト騒動に関係している人物ということになる。

 気をつけます、と応じて通話を終えていた。

 しばらく思考が停止していた。恐怖が足元からせり上がってきそうだった。しかしそれでいて、他人事のようにも感じている。

 川嶋を襲った犯人は、韓国人グループだろうか?

 いや、日本人のほうかもしれない……。

 急に、周囲の人々があやしく見えてくる。

 美里は、早歩きで職場に急いだ。

「おはよう。どうしたの? 顔色よくないよ」

「おはようございます」

 渋谷の姿を確認して、ホッとできた。

「じつは……」

 川嶋が襲われたことを話した。

「あの刑事さんには、とんだ災難だったね」

 渋谷の口調は、いつものように軽やかだった。

「それで……捜査一課の刑事さんが言うには、わたしも狙われているかもしれないって」

「それは、たいへんだ」

 少し演技がかっていたから、不快な印象を抱いてしまった。しかしそれでこそ、いつもの渋谷だ。

「警察は、護衛とかしてくれないの?」

「それはムリでしょう……」

 そんなことをしてくれるのなら、横山が口にしていただろう。

「じゃあ、うちも警備をちゃんとしないとね」

 といっても、法務省なり出入国在留管理庁なりが警備員を派遣してくれるとも思えない。外務省も同様だ。ただでさえ、事務員一名と、ほとんど出勤してこない所長をふくめた四人しかいない、おざなり組織なのだ。

 渋谷の言い方をかんがみても、望み薄だろう。ただし渋谷が適当にものを言うのは、いつものことだが。

「でも、川嶋さんが入院してるとすれば、捜査のほうはどうなるの?」

「……わたし一人じゃ、捜査活動はできないです。もとの落書きについてだけ、わたしなりに調査を続けることになると思います」

 美里は、藤森に連絡をして指示をあおごうかとも考えている。藤森は警察との協力に否定的なことを口にしていた。とはいえ警察と結びつけたのは、ほかでもない藤森自身でもある。

 なにを意図しているのか、まったく理解できない。はたして、こんなときに藤森の話を聞くべきなのか……。

 どうしようか迷っているときに、携帯が音をたてた。タイミングがいいというべきか、その逆か、藤森からだった。

 このあいだは事務所の固定電話にかけてきたが、どちらにかけるかの法則性はどうなっているのだろう。

「はい」

 なにを言われるのか、緊張しながら電話に出た。

『おはようございます』

 どうでもいい挨拶だと思った。

「お、おはようございます……」

『お仕事、がんばってください』

「はい?」

 なんだ、この会話は?

『では』

「あ、あの!」

 通話が終わってしまいそうだったので、美里はあわてて呼び止めた。

『どうしましたか?』

「よ、用件は……なにかあるんじゃないですか?」

『いえ。朝の挨拶と激励のつもりです』

 なにを言っているのだ、この人は……。

「そんなことのために電話をかけてきたんですか?」

 美里は、怒っていた。

『いけませんか?』

「……」

 藤森に悪びれた様子はない。

「ほかに、なにか言うことはないですか?」

 このタイミングでかけてきたということは、川嶋の件を知っているはずだ。

『ですから、お仕事をがんばってください』

 藤森は繰り返した。

『それとも、どんな言葉をかけてもらいたいのですか?』

「……」

 答えることのできない質問だ。

「わかりました。わたしは、これまでどおりでいいんですよね?」

『期待しています』

 白々しい言葉だと思った。

「なんだって?」

 それほど興味はなさそうだったが、通話を終えると渋谷に質問された。

「いえ、とくには……」

 本当に、とくに重要なことは言われていない。

「とにかく捜査が進むまで、一人での外出はさけたほうがいいかもね」

「でも、ここにいても……」

 渋谷がいっしょに来てくれる、という選択はないようだ。

 午前中は、これまでの報告書の作成や、メールの返信にあてた。

 午後になって、川嶋の意識がもどったという連絡を横山からうけた。ただし、まだ面会謝絶のままだから病院に行っても会えない、と。

 だが、いてもたってもいられなかったので、病院に向かってしまった。佐川ジョーが入院していたのと同じ病院らしい。美里は行ったことがない。

「あの……警察官の川嶋さんが入院している病室はどこでしょうか?」

 受付で問い合わせた。

「申し訳ありませんが、面会謝絶となっております」

「そうですか……」

 横山の言っていたとおりだった。

 仕方がない……帰るしかなさそうだ。

「あの」

 病院を出ようとしたところで、声をかけられた。

「はい……」

 女性だった。年齢は、三十歳ぐらいだろうか。

「川嶋巡査のお知合いですか?」

「そうですけど……」

 続けて、あなたは?、と問いたいのをこらえた。この流れなら、自ら名乗ってくれるだろう。

「場所をかえて、お話をさせてもらえませんか?」

 しかし、いっこうに身元を明かす素振りはない。

「は、はあ……」

 美里は対応に困ってしまったが、断るのもどうかと思った。川嶋巡査、と呼んだということは警察官なのだろう。

「わかりました……どこで話しますか?」

「では、ついてきてください」

 病院の中庭まで歩いた。

 周囲に人の姿はなかった。少し離れたところに患者と思わる男性がベンチに座っていたが、話を聞かれることはないはずだ。

 先導していた女性が立ち止まり、振り返った。そのまま数秒──。

「あの、話というのは……」

 いつまでも女性が話しはじめなかったので、美里のほうからしゃべりかけた。

「恨みはないのですが──」

「え?」

 女性が、右腕を細かく振った。

 その手にはなにかが握られていて、振られたと同時にそれが伸びた。

 美里でも知っている。特殊警棒だ。

 なにがおころうとしているのか、美里はまったく理解できなかった。

 女性が、一歩迫ってきた。

 本能が危険を告げていた。

「なにをするつもりですか!?」

 シュン、と風を切る音がした。

 髪が警棒の先端によって、かきあげられた。女性がしくじったのか、それとも美里のよけ方がうまかったのか。咄嗟のことだったので、どう身体を動かしたのかも覚えていない。

「や、やめてください……」

 ちがう。もっと大声を出して、周囲に助けを求めなければ!

 しかし頭ではわかっていても、身体がいうことをきいてくれない。

 そのとき、女性の側面から体当たりをした人物がいた。

「!」

 美里は、なにもできずにその光景を見ていた。

「バカなまねはやめろ!」

 女性とともに、体当たりした人物も地面に倒れていた。入院着姿なので、患者のはずだ。

 頭のなかが真っ白で、それがだれなのかすぐにはわからなかった。おくれて、その正体を知った。

「川嶋さん!」

 まさか面会謝絶になっている患者が助けに来てくれるなど、考えてもみなかった。

 川嶋は四つん這いの姿勢で、襲撃者に対峙していた。相手の女性も、両膝をついた格好で警棒を振っている。

 川嶋の怒鳴り声を聞きつけたのか、男性看護師が様子を見に来たようだ。

「警備員を呼んでください!」

 美里は、叫ぶように声をあげた。

 女性襲撃者は瞬時に立ち上がって、逃げはじめた。川嶋は、すぐには立ち上がれない。

「大丈夫ですか!?」

 いまの格闘では、ダメージを負っていないはずだ。昨日の怪我が回復していないのだ。それはそうだろう。まだ面会謝絶の状態なのだ。

「大丈夫です……」

 弱々しい声が返ってきた。

「あれ、おかしいな……もう回復したと思ったんだけど……」

 ベッドの上では元気になったとしても、走ったり、ましてや暴漢と格闘するのは無謀な行為だ。

「どうしました!?」

 制服警官が駆けつけてきた。川嶋の病室を護衛していた警察官なのだろう。

「なんで病室を抜け出したんですか!?」

 責めるように警官は言った。年齢は川嶋と同じぐらいだ。

 川嶋は軽く頭を振ってから、美里と警官の腕から離れて、自力で立った。

「どこに行くんですか!?」

 あわてたように、警官が注意した。川嶋は美里の手を取って、歩きはじめたのだ。病棟のある方向ではない。

「川嶋さん!?」

 美里も、戸惑いの声をあげてしまった。

「マズいです……」

「え?」

「あれは、警察官です」

 最初、いまの制服警官のことだと思った。

「どういうことですか?」

「あの女性は、警察官なんです!」

 衝撃があった。たしかに美里も声をかけられたときには、そう思った。しかし襲撃された時点で、その考えは吹き飛んでいた。

「まさか……」

「知ってる人なんです」

「え?」

「はじめて赴任した警察署にいた先輩なんです」

「そんな……」

 どういうことなのだ!?

 なぜ、警察官が襲ってきたのか……。

 わからない……わからない……。

 混迷を極めている。自分たちは、いったいどんな事件に巻き込まれてしまったのか。

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