第18話

『事前に日本国旗を渡して誤認を避けるように忠告していたのに、事件が発生したのは朝鮮側の怠慢ではないか。朝鮮側の明確な謝罪を求める』 江華島事件による日本政府の見解より



       18


 バーテンダーの男──当麻と話したあと、三十分ぐらいはベッドのなかで考えを整理していた。

 もう身体は回復している。大丈夫だ。

 はやく退院できるように医師と相談しようとベッドを出たところで、窓から新井の姿が見えた。お見舞いに来てくれたのだ。

 横山が連絡してくれたのだろうか。彼女にしてみたら、お見舞いに来るのも職務の一環なのだろう。だが、どんな理由であれ、正直うれしいものだ。

「ん?」

 彼女は、女性と中庭を歩いていた。

「だれだっけ……」

 その女性の横顔に見覚えがあった。

 瞬時に、イヤな予感が駆け抜けた。

 女性は、衣笠という名前だ。はじめて赴任した警察署でいっしょだった。英吾は地域課で衣笠は刑事課だったが、小さい署だったのでみんなが顔見知りだった。気の強い印象のある女性刑事だ。もちろん、それだけなら問題はない。

 衣笠について、あまりよくない噂が流れていたのだ。政治活動をして監察から眼をつけられている、と。

 公務員の政治活動は禁止されているが、単純にそういうことだけではない。かなり右寄りの思想をもっていて、過激な主張をしている組織との関係を疑われていた。

 警察官と右翼思想は、もともと相性の良いものだ。もしそれが左翼組織であれば、噂がたった時点で辞職を強要されていただろう。

 右だから異動という形でのペナルティだけですんだのかもしれない……。

 刑事課から、べつの署の内勤に移ったところまでは知っている。が、その後、衣笠はそこでも問題をおこして、また異動になったという。それが本当のことなのかどうかわからない。ただの噂だったのかもしれない。異動したさきがどこなのかということについては、噂ですら耳にしなかった。

 今回の件と、右翼思想というものが重なったとき、英吾の身体は勝手に動いていた。

 病室の入り口には警護の警察官が配置されていたはずだが、だれがいたのか存在すら気づかなかった。

 とにかく焦っていた。日中の病院でなにかをするというのは考えづらいが、本能がそんな楽観を拒否してしまう。

 エレベーターではなく、階段を走った。

 身体は軽かった。やはり怪我の影響はすでに消えているのだ。

 体当たりしたのも、いまではよく覚えていない。英吾が中庭に入ったときに、衣笠が警棒を振り下ろそうとしていた。

 とにかく咄嗟だった。

 しかし、それだけで戦闘不能に追い込むことはできない。英吾はすぐに立ち上がって抑え込もうとしたが、それはできなかった。

 それまでが嘘のように、身体が重い。

 膝立ちの格好で、衣笠に対峙しなければならなかった。むこうもそれにあわせて、膝をついたまま警棒を振って牽制している。

 人が来たことで、衣笠が逃げた。

 いまの状態では、追いかけることはできない。だが、それでもホッとしていた。なんとか彼女を守れた……。

 英吾は、新井の手を引いて、病院から離れようとした。

「川嶋さん!? 警察官ってどういうことなんですか?」

「そのままの意味です」

「ど、どこに行くんですか!?」

「とにかく、ここから離れましょう」

「でも……」

「ぼくのことはいいです」

 これは、とてもマズい状況だ。

 仮に、いまでも衣笠が現役の警察官だとしたら、ここは安全な場所ではない。というより、安全な場所など、どこにもない。

「いまの人は、本当に警察官なんですか?」

 病院の敷地を出たところで、あたらめてそう質問された。

「まず、それを確かめないと……」

 あくまでも退職していれば、ただの右翼思想による暴走で片づけることができる。

 英吾は、課長に連絡をとろうと考えた。

 しかし、周囲の通行人から好奇の眼を向けられていることに気がついた。それに、そもそも携帯は病室に置いたままだ。

「わたしの職場に行きましょう」

 新井の提案を受け入れた。

 入院着で、彼女の職場──ヘイトクライム対策機構まで歩いた。ゆっくり進むぶんには、支えられることもなかった。

「あれ?」

 機構のなかに入ると、以前にも会っている男性が驚いたような顔をした。たしか、渋谷という名前だったはずだ。頭のなかまで、ぼんやりしている。

「どうしたの? まさか病院を抜け出してきたの?」

「はい……いろいろあって」

 新井のほうから、説明した。

「警察官が? まさか」

 渋谷の声は事態の深刻さと反比例して、明るいものだった。きっと、もとからの性格なのだろう。

「すみません、電話をお借りします」

「どうぞ」

 英吾は、事務所の固定電話で新署に連絡をいれた。課長の携帯番号は、自分の携帯がなければわからないのだ。

『どこにいるんだ、川嶋!?』

 課長の声は、怒っているような、混乱しているような──とにかく感情が昂っていた。

『なにがあった!? 警護の人間が、おまえが自分の足でいなくなったって!』

「襲われました……」

『病院でが!? だれにだ!? なぜ応援を呼ばなかった!?』

 矢継ぎ早に質問が飛び出している。どれから答えればいいか、頭がはたらかない。

「襲われたのは、新井さんです……」

『大丈夫なのか!?』

「はい、彼女は無事です」

『襲ったのは?』

「それは……」

『どうした!?』

「衣笠という女性です……」

『知ってるのか?』

「いまはどうかわかりませんが、警察官です」

『なんだと!?』

 叫ぶように言ってから、課長はなにかを思い出したようにつぶやいた。

『そうか……あの衣笠か』

 衣笠の噂を知っていたようだ。英吾は同じ署だったからだが、課長クラスの経歴をもつ人間ならば、みな知っている話なのかもしれない。

「いまも衣笠さんが警察官なのか、調べてもらえませんか?」

『わかった、すぐに調べる。おまえはいま、どこにいるんだ?』

「新井さんの職場です。電話を借りてます。携帯は置きっぱなしなので」

『わかった。おまえは病院にもどれ。新井さんの護衛は、こっちから送る』

「……いえ」

『どうした?』

「それは、衣笠さんが現役ではないとわかってからです」

『警察が信用できないということか!?』

 課長の言葉には、責めているような強さがあった。

「……」

『わかった……もう少し待て』

 それから五分間、無音の状態が続いた。

『調べたぞ……』

「どうでしたか?」

 課長は、言いづらそうにためをつくった。それだけで次の答えが見えていた。

『おまえの心配しているとおりだ。現役だ』

 しかし、それだけではないようだ。さらに、なにかを伝えようとしている。

『だが……いまの部署がよくわからない』

「え?」

『だから、いまの所属先がわからないんだ』

 そんなことがあるだろうか?

「もうやめているんじゃないですか?」

『いや、現職だ。それはまちがいない……』

 ということは、職員名簿に載っているのだろう。警察官の情報は退職者もふくめて、指紋などといっしょにデータベースに記録されている。

「どういうことなんですか?」

『おれもよく知らんが……』

 心当たりがあるような口ぶりだった。

『むかしはあったみたいだ……。そういう職員は、ある部署に異動する』

「まさか……」

 身分を隠す必要のある部署といえば、一つしかない。

「公安ですか?」

『わからん!』

 否定するような響きがこもっていたが、そういうことなのだろう……。

『あくまでも、むかしの話だ。実際に、そうやって消えた人間を、おれは知らん』

 公安だからといって、みながみな、極秘裏に異動しているわけでないことは、英吾にだってわかる。というより、そんな警察官がいるなど信じることもできない。

『……体調は、大丈夫か?』

 不穏な空気を嫌ったのか、課長のほうから話題を変えた。

「はい……もう問題ありません」

『なら、そのまましばらく休め』

「え?」

 思いもよらない言葉をかけられた。

「どういうことですか?」

『だから、休むんだよ。有給ってことだ』

「そんな……」

『もし現職の警察官が本当に犯人なら、かなり危ない状況だ』

 課長の言う「犯人」とは、新井を襲ったことだけではなく、英吾を襲撃した犯人かもしれないということだ。

 ただし、英吾を襲った犯人は韓国人だと当麻からは聞いている。課長の危惧は、心配しなくても大丈夫だろう。

『寮にいれば安全だ。部屋から出るな。新井さんのほうは、こちらでなんとかする』

「いえ……」

 英吾は否定した。

 衣笠が公安に所属しているのなら、警察の寮も安全な場所ではない。しかも、いまの課長の話を考慮すれば、公安のなかでも普通の部署とは思えない。

 それに彼女の護衛についても、警察官がつきっきりで守ることはできない。一般人を護衛するような部署は存在しないのだ。有名なSPは、それこそ政治家や国賓のような要人でなければ警護対象にはならない。

「衣笠さんの身柄を確保できませんか?」

『所在がわからない……公安に問い合わせても、とぼけるだけだろう』

「でも、さすがに任務で動いているわけではないですよね?」

『……常識ではな』

 課長は、そんな言い方をした。

 つまり、公安には常識は通用しない、ということだ。

 とはいえ、警察官が組織的に犯罪行為をおこなうなど絶対にあってはいけない。

「その方向で動いてはもらえないんですか?」

『襲撃が本当なら、捜査はするが……』

 煮え切らない言葉だった。言い替えれば、本当に犯人が衣笠なのかは、英吾の証言だけしかない。もっといえば、襲撃自体あったということも、英吾と新井の証言だけなのだ。

「休暇はとります。でも、自由に行動させてください」

『……冷たいようだが、うちからは一人出せるぐらいだ』

「いえ、ぼくだけでなんとかします」

 もちろん、それのなかには、新井の警護もふくまれている。

『わかった。休暇ではあっても、必要があれば捜査してもかまわない』

 そもそも一人しかいない部署だから、それについてはいつもどおりのことだ。

「……どういう話になったんですか?」

 受話器をもどしてから、新井に問いかけられた。

「このまま行動します」

「病院には?」

「もどりません」

 新井は困ったような顔になり、渋谷はおもしろそうな顔になっていた。

「でも、病院にはもどりたいな……」

 携帯がないのが痛い。

 いま使ったばかりの電話機が音をたてた。

 渋谷が出た。

「はい、ヘイトクライム──あ、はい、はい……いまかわります」

 受話器を渡された。

「……もしもし?」

 課長が折り返したのだろうか?

『おれだ』

 横山だった。

『話は聞いた。病院から携帯や荷物は持ってきてやる。ほかに必要なものはあるか?』

「いえ、大丈夫です、それだけで」

 まさか捜査一課の横山が、こういう雑用をしてくるとは思ってもみなかった。

 それから一時間ほどして、横山がやって来た。もう一度、ここの場所を確かめるための電話がかかってきたのだが、そのときは新井の携帯に連絡がきたので、英吾は話していない。

「どうなってんだよ、まったく……」

 入ってきた瞬間には愚痴が出ていた。

「ほら、携帯」

 着信を確認したら、課長や横山が数回かけてくれたようだ。

「そっちの課長から話を聞いたが……本当なのか?」

「はい……」

 正面で相対したのだから、見間違えるはずはない。

「ハムとはいえ……さすがにそんなことをするとは思えないがな」

「でも、いろいろと噂を聞きました」

「それは知ってる。かなりのナショナリストだったってな」

 横山ほどのベテランなら、そういう話が耳に届いていても不思議ではない。

「だいたい、そんな人間が公安って……」

 ぼやきが室内を流れた。

 公安のような部署は、ほかよりも思想が重要だ。警察官だからといって政権与党を応援しなければならないわけではない。むしろ、反体制思想のアウトロー刑事だって多い。が、公安でそれはない。衣笠の場合は右翼思想なので、左より可能性はあるだろうが、さすがに活動家のような人間は選ばれないはずだ。

「まだ公安だと、はっきりしたわけではないんですよね?」

「いや、ハムだな」

 課長とはちがい、横山はあっさりと断言していた。

 しかしそれだと、なぜそんな人材を公安が、という問いにもどってしまう。

「もしかしたら、それが狙いなのかもな」

 ポツリ、と横山がつぶやいた。

「どういうことですか?」

 新井がそれを聞き逃さなかった。

 話が長くなりそうだったからか、渋谷が横山に椅子をすすめていた。

「だから、過激な思想をもっている人間が必要だったんじゃないか」

 その口調を耳にするかぎり、自信がある意見ではないようだ。

「たとえば、そうだな……公安っていうのは、イメージだと左翼過激派を取り締まってると思われがちだが、その逆である右翼団体も捜査対象なんだよ」

 英吾に言って聞かせるというよりも、新井と渋谷に説明しているようだった。英吾自身は、これまで公安の職務内容を真剣に考えたこともなかった。そういう意味では、英吾も新井たちと立場は同じだ。

「じゃあ、右の方々を捜査するために?」

 渋谷の口調は、やはり軽やかだった。

「そうかもしれんね」

 それに合わせたのか、横山も軽口のように応じていた。

「そうだったとして……新井さんをなんのために?」

 英吾は、一番重大な疑問をぶつけた。

「それは本人に聞くしかない」

「でも、課長の話では──」

 続きは、横山の手が止めた。

「こっちは、傷害未遂事件として犯人を追うだけだ。上の駆け引きや、政治的な忖度は関係ない」

 さすがは捜査一課で活躍する刑事だ。

「まあ、とりあえず着替えろ」

 横山は病室から着替えも持ってきてくれた。

 襲撃されたときに来ていたスーツ一式だが、とくに汚れているわけでもなく、破れている箇所もなかった。

 最初にここへ来たときに通された部屋で着替えてからもどってみると、横山はすでにいなくなっていた。

「身辺に気をつけて、と言っていました。それと、しばらくはどこかのホテルに泊まったほうがいいと……」

 笑顔で、新井に応えた。引きつっていたはずだ。

 ホテルに泊まるにも、金がいる。残念だが警察が出してくれることはない。そして横山は、英吾に忠告したようで、新井にも同様の意味をこめたのだ。

 二人が狙われている。英吾を襲ったのは韓国人グループなのだろうが、公安にも狙われている可能性もある。

 そして新井にも、同じことがいえる。今日は衣笠だったが、韓国人グループからも襲撃されるかもしれない……。

「これから、どう行動しますか?」

「一人でいるのは避けたほうがいいでしょう」

 もしかしたら新井は、これからの捜査について言ったのかもしれない。

「どうして二人は狙われたんだろうね」

 渋谷が言った。それこそが最大の謎だ。今回のヘイト合戦に触ってほしくないのだろうが、現職の警察官と外務省の職員を襲うというのはリアリティがない。

 当麻の存在が、そのヒントになっているのだろう……。

 外務省の情報機関が動いているということは、当麻が口にしたように、外交問題や国防にかかわっているということだ。

「とりあえず、慎重に行動していきましょう」

 そう言うことしかできなかった。

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