第19話
『日本人は国史が長いのに、まだまだ教育を受ける段階にある。近代文明という尺度からすれば、私たちが四五歳であるのに対して、十二歳の少年のようだ』 ダグラス・マッカーサー
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事態は、収拾することが困難なほどに危険度が増していた。
どうやら現職の警察官に襲われたらしい。
最初は現実感がなくて、どこか他人事のようだったが、時間が経つにつれ、ぞわぞわとした寒気が背筋をはっていく。
その日は、陽が暮れるまえに帰宅することになった。自宅まで川嶋に送ってもらい、川嶋も寄り道はせず家に帰っていった。三十分ぐらいしてメールがあったので、無事についたようだ。
翌朝になって、いつもどおりの時間に家を出た。川嶋から、むかえにいくと連絡があったのだが、一人で行けます、と断った。
一晩寝て、だいぶ気持ちが楽になっていた。よくよく考えてみれば、むこうがその気なら、どこでも危険だし、二人でいたとしても同じことがいえる。むしろ二人そろっていたほうが、むこうにしてみたら一石二鳥と、ほくそ笑むかもしれない。
過剰な警戒は、やるべきことを見失わせてしまう。もしかしたら、それが狙いなのかもしれない……考えすぎだろうか。
機構まで、何事もなく到着した。
「おはよう」
渋谷も、いつもとかわりがなかった。
「おはようございます」
しかし、部屋にはいつもとちがうことがある。川嶋も、ここに出勤していた。警察官としては休暇中ということになっている。
美里も挨拶を返すと、自分の席についた。川嶋もイスには座っているが、デスクがあるわけではない。
「かわったことはなかったですか?」
「はい。いつもどおりでした」
川嶋の携帯が音をたてたのは、そんな会話のあと、これからの行動を思案しているときだった。
横山からのようだ。
「え? はい、そうですか……わかりました」
通話は、すぐに終わった。
「鳴橋忠司が釈放されました」
思ってもみないことを川嶋は告げた。
「え?」
「肝心の被害者がいなくなってますからね」
川嶋に驚いた様子はないから、それが当然の処置のようだった。
「考えようによっては、新井さんも被害をうけてることにもなりますが……」
しかし実際にぶつかったのは
「逮捕したのも、かなり強引な荒業でした……ただし、これからも監視はします」
「また、だれかを襲うということはないんでしょうか?」
「物理的にムリだと思います」
本庁捜査一課もかかわっているから、人員は豊富であり、その監視の眼を盗んで犯行を重ねるのは、ほぼ不可能だという。
「わたしたちが接触するのは、やめたほうがいいですよね?」
「それは、鳴橋に会いにいくということですか?」
「はい」
「やめたほうがいいですね。それこそ捜査を妨害することになる」
警察としても鳴橋が、姿を消している佐川ジョーや、韓国人グループに接触する可能性をもっているのだろう。これが俗にいう、泳がせるという状態なのだ。
事務所内の電話が音をたてた。昨日は横山からかかってきたが、それは川嶋の携帯がなかったからだ。それに、いまかかってきたばかりだから、これは彼に関係のないものだろう。
渋谷が出ていた。
「はい、え? えーと……もう一度、お名前を」
めずらしく、渋谷が困惑している。なにごとだろう?
「どうしました?」
心配になって声をかけた。
「いま話に出ていた人から」
「え?」
ということは、鳴橋?
一瞬、川嶋と視線を交し合った。どちらが出るべきか……。
川嶋が受話器をうけとった。
「お電話かわりました。鳴橋さんですか?」
渋谷がスピーカーに切り替えてくれた。
『ああ……』
「どうしましたか?」
『さっき釈放された……この番号を調べたんだ』
たしかに美里は、自分の名刺を鳴橋には渡していない。
どのように調べたのかわからないが、そういえば、ここのホームページがあったはずだ。ずっと更新していないと思うのだが、電話番号が明記されていたのかもしれない。正直、だれからも閲覧されるとは思っていないから、美里も内容は把握していないのだ。そもそも、だれが制作したのかもよく知らない。
「お話があるんですか?」
むこうから連絡をくれたのは、幸いだ。川嶋は慎重に切り出しているが、少しイライラしてしまった。
『……どうせ警察は、見張るつもりなんだろ? だが、おれは知らない』
佐川ジョーの居所についてだろう。
「そうですか……」
煮え切らない対応に、思わず美里は受話器を奪ってしまった。
「新井です。会って話をしませんか?」
川嶋が唖然とした顔をしていた。渋谷のほうは、おもしろがっているようだ。
『……』
「鳴橋さんだって、話したいことがあるから、こうしてかけてくれたんですよね?」
『……場所を教えてくれ』
やはりそうなのだ。
ホームページで番号を調べたのなら所在地も載っているのだと思うが、美里は丁寧に場所を説明した。
新大久保駅のすぐ近くだから、迷うことはないだろう。しかし公共施設が入っているようなビルではないので、そこがわかりづらいかもしれない。
『十分ぐらいでつくと思う』
待っています、と最後に伝えて受話器を置いた。
「たぶん釈放されて、その足で来るんでしょう」
実際には、五分ぐらいで鳴橋はやって来た。
念のため川嶋がビルの前で待っていることになったのだが、行ったと思ったら、すぐに鳴橋をつれてもどってきた。
面談室に通して、そこで話を聞くことになった。
「まどろっこしいのは、ごめんだ」
開口一番、鳴橋は言った。
「おれは、やつらの居場所を知りたい」
「やつらって、韓国人グループのことですか? われわれも知りません。それに、知っていたとしても教えることはできません」
川嶋の返答は、至極まっとうなものだった。復讐を考えている人間に、協力はできない。
「さきに手を出したのは、むこうだ」
「そうであったとしても、報復することは許されない行為です」
「……いいのか、それで?」
鳴橋は強気だった。小さな身体のはずなのに、威圧感すらある。
「なにがですか?」
「あいつが、さきにやるかもしれない」
あいつ──佐川ジョーのことを言っているのだ。
「もちろん、佐川さんの報復もやめさせますよ」
「だったら、いっしょにやればいい」
「え?」
美里も川嶋と同じで、え?、と声をもらしそうになった。
「鳴橋さんも、韓国人グループに危害をくわえようとしているんですよね?」
川嶋が、あらためて聞き直していた。
「それは、あいつらがなんのペナルティもうけないからだ。さきにあいつらがやったと証明してくれたら、おれはそれでもいい」
「つまり……ちゃんと彼らの犯罪を立件したら、復讐を思いとどまってくれるということですか?」
鳴橋は浅くうなずいた。
美里は、川嶋と顔を見合わせた。
「鳴橋さん……もし復讐を実行したら、遠慮なく立件しますよ」
「かまわない」
どうやら、一般的な善悪はわきまえているようだ。
「わかりました。協力しましょう」
川嶋ではなく、美里が返事をした。川嶋の眼が少し驚いていた。
「まず、鳴橋さんの知っていることを話してください」
「どんなことを?」
「愛国ポリスのことを、もう少し」
「まえに言ったことだけだ。本物の警察官かどうかも知らない。あんたたちの話を聞いて、そう思っただけだ」
「嫌韓の人たちは、グループになってないんですか?」
その質問は、美里にとっては普通のものだった。しかし、鳴橋は不思議そうな顔になっていた。
「わたし、おかしなことを言いましたか?」
「嫌いなのは、個人の感情だろ。なんで集団になるんだ?」
鳴橋は、本気で理解できないようだった。
「でも、あなたも佐川さんと組んでるじゃないですか」
川嶋が指摘した。
「それは動画で組んでたからだ」
「つまり、思想的にくっついたわけではないと?」
鳴橋はうなずいた。
要約すると、佐川とは迷惑動画のときからのつながりであり、べつにナショナリズムで統合していたわけではない──そういうことになるだろうか。
「やつらは、みんな日本が嫌いなんだ……それなのに、ここへ来る」
「それは、オーバーなんじゃないですか? 日本のことが好きな人もいっぱいいます」
美里の言葉を、鳴橋は嘲笑った。
「やつらは、生まれたときから洗脳されてるんだ。好きだと言ってるやつは、偽ってるだけなんだよ」
これ以上ないほどの偏見だった。
「いや、ちがうか……この国で育ったやつらも、日本が嫌いだからな。環境じゃない。DNAレベルで反日なんだ」
「そんなことはありません!」
美里は、むきになっていた。
いまの言葉は、父親を侮辱されたようなものだ。それだけではない。美里自身も……。
「どうして、そう言い切れる?」
好戦的に鳴橋は言った。
「……わたしには偏見がないからです」
「……ちがうな、おまえは──」
鳴橋は、なにかを言おうとしていた。
「つまり鳴橋さんたちは、嫌韓のグループには入っていないということなんですね?」
川嶋が言葉を挟んだので、途切れてしまった。
「……そうだと言ってるだろ」
なんと続けようとしたのか……。
おまえは、日本人じゃない──。
「では、あなたたちではない嫌韓グループを知りませんか?」
「……愛国ポリスが入っている、という意味か?」
「愛国ポリスは、グループに入っているのですか?」
「知らないよ」
「愛国ポリスとは関係なくてもいいです。嫌韓グループについて知っていることはありませんか?」
「……だから、おれたちはそんなのとは関係がない」
しかし、その言い方の奥に、なにかべつのものが感じ取れた。それは川嶋も同じだったようだ。
「あなたたちとも、愛国ポリスとも無関係でかまいません。軽い噂のようなものでも……」
川嶋は追及した。
「……うちにコメントをくれた人がいる」
「ヘイト動画に?」
そう区分けされたことには納得できないようだが、鳴橋はうなずいた。
「どんなコメントだったんですか?」
「過激なことだ」
細かな言及をするつもりはないようだ。この鳴橋でも言うのをためらうほど非常識な内容だったのかもしれない。
「その人の名前は?」
「なんだったかな……沸騰なんとかだった。沸騰天使みたいな」
そして、さぐるような視線を向けて、
「正確に知りたいか?」
「そうですね……」
鳴橋は、携帯を操作していく。
「《沸騰十二使徒》だった」
もしかしたら、十二使徒の部分に団体的なものを感じたのかもしれない。
「どうする? 警察で発信者を特定するのか?」
川嶋は、首を横に振った。
「それだけではムリです」
「じゃあ、どうする? たとえば、こいつに返信してみようか?」
鳴橋は、この捜査にとても乗り気だ。
「そ、そうですね……」
川嶋も少し押されている。
「やってみる」
行動力もはやかった。
「……なんてうったんですか?」
「一度会いたい」
ストレートな要求だった。
「返信がきた」
まだ三十秒ぐらいしか経っていない。
「佐川ジョーのファンだからうれしい、みたいなことだ。ファンの声を直接聞きたい、ってまた送る」
美里も川嶋も、なかば唖然としてその流れを見守っていた。
「来た」
これも三十秒ほどだ。沸騰十二使徒という人は、言葉は悪いが、相当なヒマ人だ。仕事はしていないのかもしれない。
「いいって言ってる。場所は、どうする?」
その人が、どこに住んでいるのかも考慮しなくてはならないだろう。
「新大久保でいいな?」
考えようとしていたところで、勝手に話を進められてしまった。新大久保のどこにしよう……頭でめぐらせてみたが、そんな考慮は必要なかった。
「バーガー屋にしたぞ。三時だ」
鳴橋が指定したのは、有名ハンバーガーチェーンだった。
「三時って、今日の?」
「そうだ」
短く鳴橋は答えた。
「さすがに、はやすぎませんか?」
いまが午前十時だから、この周辺に住んでいるのなら問題ないだろうが、たとえば都外であれば、そうはいかないだろう。
「遠くに住んでれば、断ってくるはずだ」
鳴橋は冷静だった。ヘイトの報復をしている人物とは思えないほどだ。
「返事が来た。了解してくれた」
あまりにもあっさりと会うことができることになって、美里は拍子抜けする心境だった。川嶋も似たように唖然としていた。
こうして、午後三時に《沸騰十二使徒》を名乗る人物と面談することになった。
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