第21話
『東京を火の海にするのが、われわれの任務である』
21
となりに座っている川嶋の様子がおかしくなった。
待ち合わせの屋台にやって来た男性は、三十代後半ぐらいだろう。どうも、その人物から顔を背けようとしているようだ。
ということは、川嶋と面識のある人物……。
美里は、その男性の横顔に視線を向けた。もちろん、何気ない仕草になるよう注意した。
まだむこうのほうは、川嶋の存在に気づいていない。
川嶋の耳元に顔を近づけた。
「出ますか?」
小さく声をかけた。
わずかだが、川嶋がうなずいた。
しかし、まだ注文したおでんは、ほとんど食べていない。お酒も飲んでいなかった。もともと美里はアルコールが苦手だから飲むつもりはなかったが、さすがにいま出ていくのは不自然すぎる。
急いでおでんを食べはじめた。
川嶋は、ずっと顔を伏せるようにグラスを口に運んでいる。そのわりに中身は減っていなかった。もしかしたら、川嶋もお酒は苦手なのかもしれない。それとも、飲む余裕すらないのか……。
耳を澄ました。問題の男性と鳴橋が、なにかを話している。しかし囁き声ていどなので、よく聞こえない。
会話の内容は、あとで鳴橋自身に教えてもらえばいいだろう。おでんを食べきったところで、美里は立ち上がった。
会計も美里がして、そそくさと二人で屋台から遠ざかった。
「どうしたんですか? 知り合いですか?」
「……そうです」
慎重に、川嶋は言葉を出していた。
「だれなんですか?」
「警察官です」
予想したとおりだった。
「襲われた警察官ではないですよね?」
美里もその警察官のことは、一瞬だけだが眼にしている。それとはちがう人物だった。襲われた警察官は、もっと若い。
「同じ交番に勤務しています」
「そういう思想の方なんですか?」
「いえ……わかりません」
それもそうだ。その片鱗があったのなら、こうまで彼が驚くことはないだろう。
「これから、どうしますか?」
「顔を合わせないほうがいいでしょう。鳴橋さんが言っていたとおり、より危険な考えをもっているかもしれない」
「……わたしを襲った人の仲間ですかね?」
「そうかもしれません」
公安に配属されたという女性警察官。
「鳴橋さんは大丈夫でしょうか?」
「仲間に引き入れようとしている人間に、危害はくわえないでしょう」
しかし鳴橋がそれを拒否するれば、そのかぎりではないかもしれない。
その可能性は想定していないのか、川嶋はべつの言及はしなかった。
「では、いったん離れましょう」
そう提案すると、川嶋もうなずいた。
横浜駅に入った。改札の雑踏にまぎれながら、鳴橋からの連絡を待った。
じつは、もう一つの可能性を美里は考えていた。
「……」
「どうしました?」
「いえ……」
口にすべきかどうかを迷っている。
それは、鳴橋が自分たちを裏切って、むこう側についてしまうかもしれないという危険だ。嫌韓思想の持ち主同士が結託するのは、むしろ自然な流れではないだろうか。
結局、指摘しないままでいたら、川嶋の携帯が音をたてた。鳴橋からだろう。
「どうでしたか? いえ、申し訳ない……そのとおりです」
たぶん火病連合と顔見知りだったのではないかと訊かれたのだ。
「そうですか……わかりました」
通話を終えた。
「どうなりましたか?」
「これから、佐々木さんとべつの場所に移動するそうです」
佐々木というのが、あの男性の名前なのだ。
「……危険じゃないですか?」
「ですが、あの状況ではどうしようもなかった……」
言い訳のようにも聞こえた。
「もし……、もしですよ?」
美里は、考えたばかりの懸念を伝えることにした。
「鳴橋さんが、そのままむこう側についてしまったとしたら……」
「ぼくたちの仲間だということで身に危険がおよぶのだとしたら、そのほうがまだいいでしょう」
川嶋は、そういう答え方をした。美里は、自身の浅はかさを反省した。川嶋だって、その可能性は考えていたのだ。
「ただ……捜査本部には、どう報告していいか」
「とにかく……鳴橋さんからの連絡を待ちましょう」
三十分経っても連絡がなかったので、どこかの店に入ることになった。大手の居酒屋チェーンにした。客が多くてにぎやかだし、連絡がきても気兼ねなく携帯に出ることができる。
店に入って一時間してから、電話があった。
「鳴橋さん? え? どういうことですか? まってください!」
川嶋の声には、焦りがあった。
「どうしました?」
通話は、すぐに終わった。
「……このまま、彼らと行動をともにするって」
呆然とした声に変わっていた。
悪いほうの想定どおりになってしまったようだ。
「どうなりますか?」
「……とにかく、もどりましょう」
「どう報告するんですか?」
「それが、頭の痛いところです」
しかし、こうなってしまった以上、腹をくくるしかないだろう。
「でも……火病連合が、警察官だったと判明したことは収穫じゃないですか?」
美里の言葉に、川嶋は浅くうなずいた。
「そうですね……」
居酒屋を出て、東京方面にもどった。その途中で、川嶋は課長に報告をしていた。
『どういうことだ?』
その声が、携帯から漏れていた。怒っているというよりも、混乱しているように美里には聞こえた。
結局、川嶋だけが警察署へ行くことになった。美里もついていこうとしたのだが、川嶋に反対された。
鳴橋がいなくなってしまったことで、お叱りをうけるのかもしれない。だから気をつかってくれたのだ。それとも、部外者が邪魔になるということだろうか。
自宅に帰るつもりだったが、急に当麻のことを思い出してしまった。もうあの店にはもどらないかもしれないが、つい寄ってしまった。
時刻は、十時を過ぎていた。川嶋からは、一人で行動せずに帰宅しろと言われていた。じつは、途中まで送ってもらったのだ。
少し罪悪感があった。
『パルガッタ』のなかは、混雑とまではいかないが、客の数は多かった。
当麻の姿は、やはりなかった。もうやめているのかもしれない。すぐに出るのも不自然すぎるので、カウンター席について、ファジーネーブルを注文した。以前、当麻がつくってくれたカクテルだ。それしか知らない。
半分ぐらい飲んだだけで、店を出ようとした。
視線を感じた。
あたりを見回すと、テーブル席にいた三人の男性たちが、ジロジロと眼を向けていた。
ナンパでもしようとしているのかと思ったが、どうにも友好的なものではない。居心地が悪かったので、出口まで急いだ。
追いかけてくる?
気配でわかった。チラッと振り返ったが、やはり三人の男たちがついてくるようだ。
扉に手をかけるまえに、肩をつかまれていた。
声をかけられたが、ハングルだ。聞き取れない。
「ごめんなさい」
そう言って、手を振りほどこうした。
だが、相手の力は強かった。
「やめてください!」
なおも相手はなにかをしゃべっているが、美里の語学力では、ほぼわからない。
身の危険も感じはじめたころ、べつの異変がおこった。もう二人が加わったのだ。
最悪の状況だ。
「……」
いや、ちがった。新たな二人組は手を放せと言っているようだ。
三人組と二人組が争っている構図だ。
なにがおこっているのか理解できなかった。
肩をつかんでいる手がはずれた。
「逃げて」
日本語だった。
よく見れば、新たなる二人組には覚えがあった。
落書きの件を調査することになった当日、佐川ジョーともめていた二人組だ。川嶋といっしょに彼らからこの店のことを教えてもらったのだ。
一人は日本語がペラペラだったはずだ。
「この人たちは、なんて言ってるんですか?」
美里は、急いでたずねた。
「裏切者、と言ってます」
やはりナンパのたぐいではなかった。
「どういう意味ですか?」
彼が、三人組に質問を伝えてくれた。
「同胞だろ、と言ってます」
「同胞って……」
「あなたが、韓国人だと言ってる」
「どうして、わたしを韓国人だと思ったんですか?」
当麻ならまだしも、普通は見分けられないはずだ。それとも、その当麻が言いふらしたのだろうか?
「みんな知ってることだと」
「知ってるって……」
その理由を質問してもらいたかったが、店内が騒然としてしまったから、一刻もはやく店を出るべきだ。
二人といっしょに、外へ出た。
「ありがとうございます」
美里は、二人に礼を言った。
「気にしないで。それよりも、韓国人というのは本当ですか? じつはおれも、そう思った」
「……いえ、わたしは日本人です」
そんな答え方をした。逃げているのと同じだ。
「……どうして、そう思ったんですか?」
「なんとなく思ったとしか……」
韓国人男性は、戸惑いがちだった。明確な根拠があるわけでないようだ。
「あいつらは、どうか知らないよ」
美里は、それを確かめたかった。
「訊いてきましょうか?」
彼が言ってくれた。
美里がうなづくと、日本語が堪能のほうが残って、もう一人が店にもどっていった。
「……わたしは日本人なんですけど……」
『パルガッタ』からは、二十メートルほど離れた場所だろうか。罪悪感が美里の唇を動かしていた。
「はい?」
「日本人なんですけど……父が韓国人なんです」
「あ、やっぱり」
とくに驚いた様子はない。赤の他人からしてみれば、相手がハーフだろうと、それほど関心はないのだ。
たぶん、美里が知り合いから同様の告白をされても、似たような反応になってしまうかもしれない。
「国籍は、日本?」
「そうです」
「韓国籍をとることは、考えなかったんですか?」
「考えませんでした……日本人として育ったから」
それだけしか答えられなかった。
「『パルガッタ』の意味を知っていますか?」
唐突に話が飛んだ。
「? 赤ですよね?」
どうして、そんなことを?
「そうです。赤です。色のほかに、どんな意味があると思いますか?」
「どういう意味ですか?」
美里が想像したのは、唐辛子の赤だった。だから最初は、韓国料理店だと考えたのだ。
パルガッタとは、赤色以外にどんな意味があるというのだろう? 店の色調も赤で統一されていたはずだから、やはりパルガッタ=赤なのではないだろうか。
「思想を色で表現したことはないですか?」
「え?」
なにを言っているのだ。
「わからないなら、気にしないでください」
そう言われたほうが、逆に気になってしまう。
そのとき、店にもどっていた男性がやって来た。
まずは韓国語で話している。
「よくわからないって話です」
日本語が堪能のほうが、そう通訳をしてくれた。結局は、わからずじまいになりそうだった。
「ちがう、ちがう」
だが、もう一人がそれを否定した。
「?」
「聞いた、聞いた」
つたない日本語で一生懸命なにかを伝えようとしている。
「え? え?」
どうやら、仲間であるもう一人を指さしている。そして韓国語で口論のように、言い合っていた。
言われたほうは、首を振っている。
「なぜ? なぜ?」
二人の様子を見ていると、ある仮説をたてることができた。
美里が韓国人だと噂を流したのが、いままで話をしていた男性だと、店にもどっていた彼が訴えている……。
どういうことだ?
「ちょっと、おかしなことを言ってます。言葉がよく伝っていないんですよ」
しかし、店にいた客とは韓国語で会話をしたはずだ。
「どういうことですか?」
答えてくれるのは、どちらでもよかった。彼らに、というよりも自分自身に問いかけたようなものかもしれない。
「おれは帰ります」
まるで、この場から逃げ出すようだった。
「え、ちょっと……」
「いいですか、パルガッタは《赤》です」
そう言い残して、走り去っていく。
あまりの急展開に、美里は唖然としてしまった。
ともに置いてけぼりをくらったもう一人の韓国人も、わけがわからないといった様相だ。
「ぼ、ぼくもいく……」
二十秒ほど遅れて、もう一人もあとを追っていった。
「……」
なんだったんだろうか?
いまの彼が、美里が韓国人であることを言いふらしていた?
否定もせずに逃げたのだから、それが正しいのだろうか。
意味不明だ……。
だいたい、そんなことをする意味があるのだろうか?
ただし彼は、最初に会ったときに美里のことを韓国人だと疑っていた。だからだろうか?
わからない。
……わからないが、彼らから『パルガッタ』の話を教えてもらった。もしや、それ自体に作為的なものがあったのだろうか?
もしかして……いまの彼も、外務省?
いや、それでもおかしい。『パルガッタ』に導いてくれたことには納得できるが、噂を広めたことは、むしろ美里にとってマイナスにはたらいてしまう。
マイナス? そもそも、どうして美里が韓国人なら、裏切り者になるのだろう?
謎だらけだ。
本当に邪魔をしているとしたら、いまの彼は敵対勢力ということになる。
しかし、パルガッタが赤──という言葉は、まるでアドバイスをしているかのようだった。
「……」
わけのわからないままに、美里は帰宅することを選んだ。
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