第22話
『日本の朝鮮半島統治は、韓国民には有益だった』 田中角栄
22
その夜は、報告だけですんだ。
事実を伝えただけで、なにか叱責されたわけではない。佐々木についても、しつこく質問されなかった。翌日、話し合おうと言われただけだ。
どうにも腑に落ちなかった。
翌朝、捜査本部に出向いたのだが、なにか様子がおかしい。人員が、かなり少ない。会議直後のはずだから、まだ捜査で散っているわけではないはずだ。それどころか、帰り支度をしている捜査員もいる。
「どうしたんですか?」
「おお」
横山がいたので、声をかけた。
「大半が撤収だってよ」
「え? どういうことですか?」
「人員を半分に減らすって」
まだ犯人は捕まていないはずだ。一つ一つは傷害事件だが、そのうちの一つが警官襲撃なのだ。むしろ、人員を補充してもいいぐらいだ。
「どうしてですか?」
「うーん、よくわからん。建前上は、通り魔事件に人員をさくということらしい。ま、簡単に言えば、横やりが入ったってことなんだろうな」
「横やり?」
「そう」
「どこからですか?」
「刑事部にそういうのが入るときは、権力の関係か、ハのつくところからと相場が決まってる」
この場合の「ハ」とは、ハム──公安のことだろう。権力はそのまま、政治家などの権力者のことだ。その二つが密接に関係していることもあるだろうが、今回に関しては後者のほうにちがいない。
「おまえの話だと、ハムがらみなんだろうな」
横山も、そう判断している。
新井を襲った女性警察官──衣笠が本当に現役の公安部員なら、その考えが濃厚だ。
「捜査は、どうなるんですか?」
「縮小されたあとは……どうなるんだろうな」
明言をさけたようだ。
縮小されて捜査本部も解散、迷宮入りとなり、記憶からも忘れ去られていく……そんな虚しくなるような想像が頭に浮かんでいた。
「この事件は──警官襲撃ってことだけにしぼるがな、襲われたほうにも後ろ暗いところがあるんなら、解決したってあまりうま味はないんだ」
報道でも大きくとりあげられていないから、メンツという意味でも気にする必要がない、と横山は続けた。
報道に関しても、ハが裏にいるのだろうか。
「川嶋!」
課長に呼ばれた。
「おまえは引き続き、自由に捜査をしてかまわない。休暇という身分ではなく、ちゃんと権限もあたえる」
「え?」
意外だった。捜査を縮小するのだから、もうこの件にはかかわるな、と命令されるのかと思った。
「あちらとも話はついてる」
あちら?
すぐに「ハ」のつくところだと考えがいった。
「なんだか行き違いがあったと、あちらはおっしゃてた」
おっしゃてた──という言い方に、皮肉を感じた。
「まちがっても、今後むこうからちょっかいをかけてくることはない」
どこまで信用していいものなのか……。
「鳴橋のことは、どうしますか?」
「あくまでも釈放した人間だ。あまり考えなくてもいい」
課長との会話は、それだけだった。拍子抜けもいいところだ。
「なんだか、おかしなことになってるな」
横山は、課長との話も聞いていた。
「おれは居残りだから、なにかあったらすぐに連絡をくれ」
「はい……ありがとうございます」
「鳴橋から連絡はないんだよな?」
「はい……」
「そうか」
「あの……佐々木さんについては、どうすれば……」
「それなんだが、会議でだれもそのことを言及してないんだよ」
少し声をひそめていた。
「え?」
昨夜、署に来たときは、横山もまだいたから、佐々木のことは伝えてあるのだ。
「だから、佐々木巡査部長の所在確認もしてないんじゃないか?」
「どういうことですか?」
「わからん……」
「でしたら、ぼくがやります」
「そうだな……」
横山の顔は、晴れやかとは遠かった。
「結局、捜査方針はどうなってるんですか?」
「具体的な指示はなかった……」
まったく中身のない会議だった──横山は、嘆くようにつぶやいていた。
「だがどうする? 休暇じゃなくなるんだろ? これからも彼女と捜査するのか?」
「はい、そうしようと思ってます」
そもそも新井との捜査は、警察だけの都合によるものではない。外務省と法務省も関係していることだ。英吾の考えだけで方向転換するわけにもいかない。
それに、新井の本当の肩書きかもしれないものを耳にしてしまった。外務省の情報機関。そのことは、ほかの警察官には報告していない。そして、当麻の存在……。
これらに絡む人間たちの行動が、激しく交錯している。だれがどのような方向に進んでいるのか、まったく把握ができない。
英吾は署を出て、例の交番に向かった。地域課に問い合わせることはやめておいた。本当に捜査本部がそのことに触れないのであれば、まだ佐々木はこちらの動きに気づいていないかもしれない。そのほうが都合はいい。
「お、川嶋」
同期の沢本がいた。
ほかにも二人いたが、いずれも知らない顔だ。
「あれ? あの人……えーと、佐々木さんだっけ? 今日はいないの?」
なにも知らないふうをよそおって、英吾は話しかけた。
「佐々木さん? 今日は休み」
どうしてそんなことをたずねるのか疑問に思っているような顔をしていた。しかし深く考えないところが、この男の長所であり、警察官としての短所になる。
「岸もあんなことになって、こっちのシフトは崩れまくってるよ」
やはり自分のことにしか興味がない。
「佐々木さんは、結婚してるの?」
「え? 独身だよ」
「独身寮?」
「ちがうちがう。どこに住んでるのかは聞いてないけど」
独身の新人警察官は、ほぼ寮に入らなければならない。数年間はそのまま寮での生活になる。
結婚をするか、後輩の数が増えて部屋数がたりなくなれば、強制的に退寮しなくてはならない。佐々木ぐらいの年齢であれば、民間のアパートを借りているのが普通だ。官舎は、基本的には既婚者向けの住宅になる。
独身寮と聞けば自由のない印象があるものだが、たとえば英吾やこの沢本が入居しているのは、民間のアパートの半分を貸し切っているもので、普通の住宅と変わらない。寮母のような人もいないし、管理人も警察とは無縁の一般人だ。それどころか、ほかの部屋にだれがいるのかも、部署がちがえばよくわからない。
「そうなんだ……」
佐々木の住所を知るには、手続きを経て問い合わせるしかないようだ。
「でもさ、なんで襲われたんだろう」
捜査ではないふりをして、英吾は話題を変えた。
「岸のことか? 警察官なら、だれでもよかったんじゃないのか? おたがい、気をつけないとな」
「そうだな……」
「そういや、川嶋、なんでおまえが発見者だったんだ?」
沢本は、やはり事件の背景をまったく理解していなかった。こういうところも、沢本ならではだろう。それとも捜査にかかわっていなければ、そんなものだろうか。
捜査本部のほうで情報を封じているのも影響しているのだ。普通はそれでも、ちょっとは興味をもちそうなものだが。
「偶然だよ。ただ通りかかったから」
「ナイスな偶然だったな」
その後、他愛のない話をもう少しだけして、交番を離れた。それからすぐに携帯が鳴った。横山からだ。
『佐々木巡査部長の住所は知ってるか?』
「あ、いえ……いま交番に行ってみました」
『今日は、休みだったろ?』
「はい」
横山も独自に調べていたようだ。
『住所を教える』
百人町にあるアパートだった。
「ありがとうございます」
すぐに、そこへ向かった。同じようなアパートが集まっているエリアだった。新井の住居にも近い。まだ新しい建物だ。
扉をノックした。応答はない。何度かノックを繰り返したが、不在のようだ。
また着信があった。今度は、新井からだった。今日は、そのまま一人で捜査に出てしまったから、心配してかけてきたのだろう。
『川嶋さん?』
「連絡せずに、申し訳ないです」
休暇ではなく、通常の業務にもどったことを伝えた。
『大丈夫になったんでんすか?』
「はい、話がついたそうで……」
そこの部分は言葉に困ったので、曖昧な表現のままにしておいた。
これから機構事務所に行くことを伝えてから通話を終えた。
アパートから遠ざかりながらだったのだが、路地のむこうに人の姿が見えた。
「え?」
知っている人物だ。
女性。
直接話したことはない。
警察官であり、公安に異動したという……。
衣笠だ。
うっかりみつかったわけではないだろう。わざと姿をみせた。
「……なんの用ですか?」
衣笠は、ゆっくりと近づいてきた。
「むかし、同じ署にいたんだってね」
そんなどうでもいい会話が、路地に流れた。
「あなたは、公安なんですか?」
「公安という言葉の定義による」
「?」
「ボウヤは、どっちにつくの?」
「どっち?」
意味がわからない。
「わたしは、内側。正義の側よ。悪いほうが外側」
「あなたの側には、だれがいるんですか?」
意味は理解できなかったが、かわまずに会話を続けた。
「わたしのような、愛国者……」
「あなたの側は嫌韓で、むこう側が反日ということですか?」
「ちがう。内と外だ」
「……もっとわかるように言ってください!」
「外側にとっては、わたしたちなんて、ただの捨て駒だ。いいか、だれも信用するな。むかしのよしみだから、忠告してあげたんだ」
衣笠は、振り返って背中をみせた。
「どうして、新井さんを襲ったんですか!?」
その理由だけは、聞いておかなければならない。
しかし彼女の背中は、なにも答えてくれなかった。
いや……、三歩ほどで立ち止まった。
「敵だから」
それだけが、路地に響いた。
走り出した衣笠を止めるすべは、英吾にはなかった。
「……」
新井が敵とは、どういうことだ?
外務省の情報機関と公安は、いわば同じ側に立っているはずだ。
それに、内側と外側?
混乱する。
それとも、混乱させることが目的だったのだろうか。
釈然としない心境のまま、機構事務所に向かった。
「おはようございます」
朝の挨拶には少し遅い時刻になっていたが、おたがいがとってつけたように言葉を交わす。英吾よりも、むしろ新井のほうが、うかない顔をしているのではないだろうか。
「どうしました?」
おたがいが、同じタイミングで口にした。
「気が合うね」
渋谷だけが、お気楽なようだ。
新井が、掌をむけて差し出した。順番をゆずるときのジェスチャーだ。
「こっちの……警察の捜査なんですが、人員が縮小されてしまいました」
「縮小? それって……」
「普通はないことです。どうも公安が関係しているらしい……」
「なんだか、ヘンな感じですね……」
さらに彼女の美貌が曇った。
「でもそのかわり、妨害をすることはないはずです……」
「妨害? 公安のですか?」
「そういうことだと思います」
「じゃあ、もう警戒する必要はないんですよね?」
「……」
それには、即答できなかった。公安が大丈夫でも、韓国人グループがまだ残っている。それに、公安の態度をどこまで信用していいものか。
「まだなにかあるんですか?」
「それなんですけど……ついさっき、会ったんです」
「会った? だれにですか?」
「衣笠です」
「衣笠……わたしを襲った?」
「そうです」
さきほど姿をみせたことで、あの襲撃者が衣笠であることが決定的となった。
「どうなったんですか?」
「なにも……少し話をしただけです」
「どんな?」
「……」
なんと伝えようか……。
「言ってください」
彼女にとって、よからぬことであると予感しているようだ。
「……あなたが、敵だと」
「え?」
聞こえているはずだが、聞き返すのも無理はない。
「敵だと言いました」
「……どうして? 敵? 意味が……」
「ですよね」
「なんで、わたしが……」
彼女の素性について、はっきりと話し合ったほうがいいのかもしれない。
「新井さんは、韓国人なんですよね?」
彼女は、覚悟を決めたような表情になった。
「はい……いえ、日本人です。父が韓国人なんです」
「韓国人ハーフということですね?」
「え、ええ」
新井は、ためらいがちにうなずいた。
「だから、敵なんですか?」
それではわけがわからない、と彼女は思ったようだ。英吾も、その気持ちは同じだ。
韓国人の血が流れているだけで敵になるのなら、それこそ日本中、衣笠の敵だらけになる。
「ほかにもなにかあるのかもしれません……」
「わたしには、なにもない……」
外務省の人間だからだろうか?
そこをもう少し掘り下げたほうがよさそうだ。
「新井さんは、どうして外務省に入ったんですか?」
「え?」
彼女にとっては突拍子もない質問だったようだ。
「どうしてって……」
「新井さんの希望だったんですか?」
「はい、そうです」
「志望動機は?」
面接官になったような質問だ。
「そういわれると……」
公務員になる人の動機は、二極化しているものだ。ただ安定を求める人と、目標をもってめざす人──。
いや、どの職業だろうと、突き詰めると同じようなものかもしれない。が、やはり安定志向の人が多いから、その考えにまちがいはないはずだ。
エリートがめざす外務省でも、きっと同じだ。しかも彼女は官僚というわけではない。女性職員に多い安定志向の持ち主かもしれない。
かくいう英吾も公務員なのだが、それなりの夢をもって警察官になったものの、大前提として「公務員は安定している」というのがあったからだ。子供のころから両親の口癖が、それだった。
「たとえば、親御さんは?」
「親ですか?」
彼女は、また驚いたような声をあげた。
「親からは、とくに……」
だが、なにかを思い出したようだ。
「公務員には、倒産はないって……母が」
どこの親も似たようなものなのだ。
「そういえば……」
べつのことも思い出しようだ。
「わたしの祖父は外交官だったと」
「母方の?」
「いえ、父のほうです」
「でも、お父様は韓国人なのですよね?」
「そうなんですかね……」
自身の血縁のことなのに、どうにもふわっとしている。
「それを聞かされたときは、韓国人だと告白されるまえでしたから……」
だからあまり深く考えたことはなかった、ということのようだ。
「……いまにして思えば、それがあったのかもしれません」
外交官の祖父。
しかしそれは、日本人ではない。韓国人の外交官ということになる。日本国籍でないと、日本の外務省には入れないはずだ。
「……」
「川嶋さん? どうしました?」
彼女は、そこまで考えがおよんでいない。韓国が民主化されたのは、思いのほか最近だ。1987年ごろだったと記憶している。つまりそれ以前は、軍事独裁政権だったことになる。
祖父の年齢によってはどうかわからないが、独裁政権時に外交官だった可能性は高い。おそらく、日本人が思い描く外交官とは異質であるはずだ。
いや、そもそも祖父──父親が外交官なのに、在日として日本で暮らしているというのがしっくりこない。
きっと、それだ──英吾は思った。
彼女の父方の血筋に、公安的ななにかがあるのだ。
「そのおじい様に会ったことはありますか?」
「外交官の、ですか?」
「はい」
「いえ……もう死んでるものと思ってますけど」
その言い方だと、はっきり聞かされているわけではないのだ。
「? 川嶋さん?」
「……」
一つの可能性に考えがいってしまった。
「あの……お父様は、本当に韓国人なんですか?」
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