第23話
『各人各派を大同団結し、挙国一致で日帝を駆逐し、韓民族の自由と独立を回復する』 建国同盟
23
「え?」
美里は、思わず聞き返してしまった。
「……ですから、お父様は本当に韓国人なんですか?」
やはり意味のわからない質問だった。
「そうなんだと思います……」
だからこそ、娘に告白したのだ。日本人なら、そんなことは言わないだろう。それとも、もっとべつの国の人間かもしれないと言いたいのだろうか?
「どういう意味なんですか?」
「いえ……」
川嶋は、論点をぼかすように瞳をそらした。
「韓国人じゃなくて?」
「……」
そう考えている。
では、どこの国だというのだろう?
「川嶋さん……」
「では、はっきり言いますね……」
川嶋の顔が、なにかを決意したように引き締まった。
「韓国ではなく、北朝鮮なんじゃないですか?」
「え?」
なにを言っているのだろう、この人は。
「どういう……」
「ですから、韓国人ではなくて、北朝鮮の人ではないですか?」
きっとそれを口にする川嶋も勇気をふりしぼっているのだろうが、それを聞く美里にも勇気が必要だった。
北朝鮮?
「だから、ずっと秘密にしていたんじゃないですか?」
「え、え……」
うまく言葉が出てこない。
「北朝鮮って……」
民族としては同じだ。しかし、国の形態がちがう。独裁国家であり、日本の仮想敵国だ。
「それって……」
北朝鮮の人間が、こうやって普通に暮らしていけるものだろうか?
「……工作員ということですか?」
川嶋は、ためらいがちにうなずいていた。
「そんな……」
美里は、嘆きにも似た声をあげてしまった。
たしかに、秘密にしていた理由にはなるかもしれない……。
しかし、そんなことがあるだろうか?
「だから……公安に眼をつけられているんですか?」
「そうなのかもしれない」
まだ川嶋には思うことがあるようだ。
「川嶋さん……」
「外務省も知っていて……いえ、だからこそ、あなたをいまのポストにつけた」
美里の催促で、川嶋は続きを語った。
「わたしも、工作員……スパイだと思われてるんですか?」
「そこまではわかりません。ですが、危険人物だと考えていれば、そもそも外務省が採用なんてしないでしょう」
川嶋の言うとおりだったとしても、すくなくとも利用しようしていることはまちがいなさそうだ。
うすうすは感じていたことだ。当麻も似たような指摘をしていた。藤森は、美里ではなく、父の動きを牽制したかったのかもしれない……。
「まずは、確かめるべきじゃないですか?」
「父にですか?」
川嶋は、うなずいた。
「どうやって……」
「親子なんですから、直接問いただすしかないでしょう」
簡単に言ってくれる……。
素直に認めてくれるとはかぎらないし、なによりも美里自身が、真実を知りたくはなかった。
「一人で聞くのが怖いのなら、ぼくも──」
「いえ、大丈夫です」
他人に迷惑をかけるわけにはいかない。それこそ家族の問題なのだ。
川嶋には、拒絶したと思われたかもしれない。
部屋の空気が悪くなった。
気分をかえるためにも、視線を周囲に向けてみた。
そういえば、事務所内から渋谷の姿がなくなっていた。事務員もいない。もしかしたら、会話の内容から遠慮して退出してくれたのかもしれない。
「とにかく、会ってみます」
「……わかりました」
川嶋は、「外出するときは念のため、まだ気をつけてください」と言葉を残して、警察署へもどっていった。美里は、父親に連絡をとることにした。
「お父さん? ちょっと会って話したいんだけど」
そう切り出した。声のトーンが、どうしても厳しくなってしまった。父のほうから、新宿まで来てくれることになった。約束は一時間後。
美里の実家は、三鷹市になる。中学生のとき、荒川区の西日暮里から引っ越したのだ。
大学は八王子にあったので通うこともできたが、父との関係がよくなかったので、入学と同時に一人暮らしをはじめた。だから、三鷹の家には五年も住んでいない。あまり思い入れもなかった。
駅構内にあるコーヒーショップで待ち合わせた。スーツ姿であらわれた。現在の職業は、輸入雑貨をあつかう会社で働いているそうだ。荒川区に住んでいたころは、近所の工場でオモチャの部品をつくる職人だった。
何度見ても、スーツ姿がしっくりこない。
「久しぶり」
電話では話したばかりだが、こうして会うのは本当に久しぶりだった。
「話があるんだって?」
「すごく真剣な話なんだけど……」
場所を変えたかった。
「ここでもいいじゃないか」
父はコーヒーを買って、テーブル席に座った。時刻は、午後二時を過ぎたところだ。店内は混雑しているというほどではない。
「わかった」
美里も飲み物を買って、向かいに座った。
「で、なにかな? もしかして紹介したしたい人ができたとか?」
もしそういう話だったとしたら、母に相談するほうがさきだ。
「ちがう……」
「仕事の話?」
「……ねえ、本当のことを言って」
「本当のこと?」
「お父さんの、国籍」
「ああ、そのことか……」
ため息のような呼吸のあと、父はコーヒーを飲んだ。
「むかし話したとおりだよ。父さんは、韓国人なんだ」
「それ、本当?」
「どういう意味だい?」
「本当は、べつの国籍じゃないの?」
「そんなことはないよ。韓国人だよ」
国籍、ではないのかもしれない。
「韓国人というのは、偽りの身分なんじゃないの?」
「なにを言ってるんだよ……」
一瞬、眼が泳いだ。
「本当は、北朝鮮なんじゃないの?」
北の工作員が、在日韓国人として日本に潜伏している。川嶋は、それを疑っていた。
「ははは、考えすぎだよ」
笑いまじりに否定するが、どうにも演技がかっている。
「わたし、いま……ある人から狙われてるみたいなの」
「……」
父の顔色は変わったが、驚いている様子はない。
「それ、お父さんが原因じゃないの?」
「……この国は、法治国家だ。危険なめにあったのなら、警察に相談しなさい」
「だれに狙われたとか、聞かないの?」
「……」
「知ってた?」
「……」
「そうか……だから、あのとき電話かけてきたんだ」
「……」
「お父さん!」
「そういうことも、警察に相談しなさい」
「……」
視線で父を責めてしまった。
「……わたしを利用してるの?」
「なにを言ってるんだ」
「わたしから情報を得るつもり?」
「おい……」
父は、深くため息をついた。
「かりに、その妄想どおりだったとしよう。父さんが北朝鮮のスパイだとして、おまえのどんな情報がほしいというんだ? 父さんは、おまえの仕事のこともよくわかっていないんだ」
それはまちがいないだろう。父に仕事の話をしたことはない。
「情報じゃなくても、わたしに利用価値があると思ってる」
「バカなことを言うな! 娘を利用するなんて」
どこか白々しい空気が流れた。
「そんな話なら、もういいな」
父は立ち上がった。
「お父さん!」
「いいか、狙われているのなら警察を頼るんだ」
さっきから、警察を強調しているように聞こえる。
「なにか意味があるの?」
「わかったな」
そのまま店を出て行ってしまった。追いかける気持ちはわかなかった。
「……」
どうにも引っかかる。
警察……。
たぶん、警察官である川嶋と行動をともにしていることも知っている。
そもそも川嶋との捜査は、藤森からの指示があったからだ。その動きと、父が関係しているのだろうか?
だとしたら、北朝鮮のスパイというのもおかしな話だ。しかし、いまの反応からは、あながち見当はずれというわけでもないのではないか……。
父の正体がなんにしろ、ただの一般人でないことが、美里にもわかった。
母は、どこまで知っているのだろう。
もしなにも知らなかったら、最大の被害者は母ということになる。確かめるのも恐ろしいことだ。
思い切って、藤森に問い合わせようか……。
ムダだ。これまでの様子からは、正直に告白してはくれないだろう。
疑惑が大きくなっただけで、なにも解決していない。こんなとき当麻がいてくれたら……。
新大久保までもどって、機構事務所に向かった。駅からはすぐだから、なんの警戒もしていなかった。
ぴったりと背後につかれていた。
咄嗟に振り返った。見知らぬ男性だ。
「なにかご用ですか?」
「……」
男性は無言だ。なにかされそうになったら大声を出せばいい。駅前だから、人の流れは多い。
「あの……」
「三河島」
男性が、ポツリとそれだけを口にした。
「なんですか?」
しかし男性は振り返ると、そのまま行ってしまった。駅に向かっている。追いかける気にもならず、しばらく美里はその場に立ち尽くしていた。
三河島?
そういえば、かつて住んでいた実家は住所名でいえば西日暮里だったが、最寄りの駅は『三河島』だった。
そのことだろうか?
「三河島……三河島」
まるで呪文のように反芻していた。
行ってみようか……。
なぜ、そんなふうに思ってしまったのだろう。とにかく、いったん機構事務所にもどった。渋谷も、もどっていた。
「あ、ちょっと用事を思い出してさ」
軽い口調でそう言ったところをみると、川嶋との会話はほとんど聞いていなかったのだろう。少しホッとした。
「わたし、これから行くところがあるので、今日はあがりますね」
「わかった」
といっても、美里の勤務時間は明確に決められているわけではないから、そこは自由なのだ。
美里はすぐに機構を出て、むかしの実家へ向かった。一時間はかからなかった。
三河島駅。住んでいたころも、あまり利用したことのない駅だった。美里の知るかぎり、乗降客の少ない駅だ。今日も十人ぐらい降りる人がいただけだ。
久しぶりに訪れたが、少し愕然とした。実家のあった方向もわからなくなっていたのだ。
残っている記憶を頼りに、なんとか実家だった場所をさがしあてた。
「たぶん、ここ……」
あまり自信はなかった。
家は存在していたが、外観などが当時とはちがうようだ。建て直したか、大きくリフォームしたのだろう。
来てみたが、だからといってなにかが待っているわけでもない。いまの住人に挨拶するのも奇妙なおこないだ。
平均的な一戸建て。当時は借家だったから、いまもそうなのだろう。
中学や小学校の思い出がよみがえってきたが、感傷に浸るほどではなかった。なんで来たんだろう……そんな後悔が少しあった。
すぐにその場を離れた。
すでに陽は暮れかかっている。せっかくここまで足を運んだので、周辺を散策することにした。
「あれ?」
住んでいたころは気づかなかったが、韓国料理店を多くみかけた。
韓国人が多く住むエリアなのだろうか。
だから、父はここに住んでいた?
三河島とは、そういう土地なのかしれない。だからあの謎の男性は、ここのことを口にした?
駅にもどった。
「あ」
思わず声がこぼれた。
あの男性だ。年齢は、四十代から五十代ぐらい。地味な印象。
「あなたは、だれなんですか?」
近寄って、そう問いかけた。
「不安定な立場だ」
そういう答えが返ってきた。
「意味がわかりません。どうして、わたしをここへ?」
「みんなが、不安定な立場なんだ」
「もっと具体的に教えてください」
「君のお父さんの元同僚だ」
「父は、北朝鮮のスパイなんですか?」
もしそうだったなら、この男もそうなのだ。
「そうであって、そうではない」
「どういう意味ですか?」
「君のお父さんも、おれも、在日だ。だから、君が思っているようなスパイではない」
「どういうスパイなんですか?」
物騒な会話だが、駅に近いというのに、人通りはほとんどなかった。
「本国で訓練をうけているわけではない」
「でも、スパイはスパイなんですよね?」
「朝鮮学校と韓国学校を知ってるか? 朝鮮学校は、北の将軍を崇拝する教育をうける」
韓国学校は、そのまま韓国人が入るような学校なのだろう。
「おれも君の父親も思想でいえば韓国系だったが、韓国学校は数が少ないんだ。だから、朝鮮学校に通う韓国人も多い。歴史も古いからな。そもそも北と南に分かれたのは、この国に最初の世代が根づいたあとだから、両国の隔ては曖昧だ。結局は、同じ民族なんだから」
「あの、なにが言いたいんですか?」
「おれたちは韓国系の思想をもっていたが、将軍を崇拝した。いや……するふりをした」
ふりをした?
「では父やあなたは、スパイのふりをしているということですか?」
そういうのは、なんというんだったか。
「そうだ、二重スパイだ」
「父は……」
「国家情報院に所属している。入ったころは国家安全企画部という名称だったが。もっとむかしは、KCIAと呼ばれていた」
それが韓国の情報機関ということだろうか。
「あなたも?」
「そうだが、立場は微妙にちがう」
「どうちがうんですか?」
「君のお父さんは、韓国の立場で、おれは北の立場だ」
理解できなかった。北朝鮮の意向で動いているのなら、一重スパイ──つまり、そのままということではないか。
「ここは、特殊な町なんだ」
謎の男は、この場所の説明をはじめた。
在日朝鮮人が多く住んでいることから、ここに北の工作員が潜入してくる。そして在日のなかから有望な人間をスパイにしたてあげる──。
「韓国の組織も、その状況を利用する。それが、おれたちのような人間だ」
北と韓国の情報戦のようなものだろうか。
「だが北も、それを利用していた。わかるか? おれたちが二重スパイであることも織り込みずみなんだ」
「え?」
「この国にスパイ防止法がないことも影響していたんだろう。とにかく、北も二重スパイを利用して、南──韓国に都合のいい情報を流していた。韓国もしかりだ。もちろん、有用な情報をあえて渡すこともある」
想像するのも困難な世界だ。
「そういう状態を、この国の公安も望ましく思っていた」
「どういうことですか?」
「ここでおたがいが活動しているのなら、監視活動も容易だ。そしてあるとき、君のお父さんに公安が近づいた」
「……」
「そのときから君のお父さんは……なんていえばいいか」
男は、適切な言葉をさがしていた。
「古い区分けになるが、西側としておこうか……」
アメリカや日本が所属している自由主義連合という意味だろう。が、そこで疑問を感じた。
「韓国も西側ですよね?」
「建前では」
男は、そういう答え方をした。
「韓国という国は、日本が絡むと北とかわらない。たとえば日本の国歌は、いまだにテレビでは流せない。日本の良い情報は歪曲されて報道される。そんなの独裁国家とかわらないだろ?」
話が、どんどんと難解になっていく。
「あの……あなたは北側と言いましたよね?」
「もはや北のために動いてるのか、南のために動いてるのか、おれ自身わからないんだ」
「父は?」
「たぶん、同じだ。西側諸国の思惑で動いているのか、韓国の意向なのか……それが二重スパイというやつなんだ」
「わたしは、日本の公安に狙われてるみたいなんです……それは、どうしてですか?」
「逆の勢力が、君をとりこもうとしているからだ」
「逆?」
東側?
さすがにロシアということはないだろう。中国や北朝鮮?
「そうだ」
顔色から考えを予想したのか、男は言った。
「だれがわたしをとりこもうとしてるんですか?」
そんな人物に心当たりはない。
「北の工作員だけではない……その裏には、国家安全部も関与している」
「わかりやすく言ってください!」
「いいか、だれも信用するな」
「ちょっと!」
男が踵を返していた。
「わたしをとりこもうとしている人は、だれなんですか!?」
「わかっていれば、どれだけ楽か……」
まるで愚痴のようにつぶやいてから、男は歩き去っていった。
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