第24話
『いまさら朝鮮の独立を夢見るのは、九州や北海道が独立を企図するのと同じで、馬鹿げた意味のないことだ』 小磯國昭
24
思い切ったことを言ってしまった……。
英吾は、深い後悔に襲われていた。
新井の父親を、北朝鮮の工作員あつかいしてしまったのだ。
だが、その考えは時間が経てば経つほど、しっくりきている。すべてのことに説明がつくのではないか……。
署にもどったら横山がいたので、さきほどの推理を話そうか迷った。しかし、新井の名誉にもかかわることだ。
「どうした?」
「あ、いえ……」
「佐々木巡査部長の行方はわからずじまいだ」
すでに電話で、家にはいなかったことを報告している。
「それと、岸巡査の退院がきまった」
「どうなるんですか?」
「うーん、あくまでも被害者だからな」
落書きの容疑は本人が黙秘を続けているので立証はむずかしい。そもそも軽犯罪だから、証拠があったとしても懲戒免職までにはいたらない。
「監察は?」
「これ以上は、動かないと思う」
思想的なものが絡む場合、右寄りは処分が甘くなりがちだ。
「それじゃあ、職務にもどることになるんですか?」
「本人から辞めると言わなければな」
「退職勧告とかはしないんですか?」
「それは、ここの署の考えによる。辞職者が出ることも、幹部の失点につながる。確実に落書きの犯人だとわかっているのならべつだが、いまのケースだと、うやむやにしたほうがいいと判断するんじゃないか?」
「佐々木さんと岸巡査は、仲間なんでしょうか?」
「それについても、本人たちに告白してもらわなきゃわからん。それとも、おまえが証拠をみつけてくるか」
あくまでも捜査本部は、そこを追及するつもりはないようだ。
「監視したりは?」
「普通に勤務してくれりゃ、その必要はないだろ?」
なるほど。へたに謹慎処分にするより、交番にいてくれたほうがいいという考えなのだ。
「ところで、外務省の美人さんはどうした?」
「あ、はい……ちょっと……」
いまごろは、父親と話しているころかもしれない。
「なんかあるのか?」
「いえ……」
やはりいまの段階で、あのことを話すのは時期尚早だ。
そのとき、携帯に着信があった。
「あ」
鳴橋からだ。
横山にことわってから、電話に出た。
「もしもし!?」
『そっちは、どうなってる?』
「鳴橋さんは、大丈夫なんですか?」
その大丈夫には、いろいろな意味をふくませていた。
『こっちは、話をしただけだ。まだなにかをしたというわけじゃない』
「こちらは、とくに変わったことはありません」
捜査が縮小されたことは言わなかった。
『あんたたちは、なにもないのか?』
たぶん、鳴橋が消えたことで処分されなかったのか、という心配だろう。
「なにもないです。少し注意をうけたぐらいで」
『彼女のほうは?』
「新井さんは、もともとそういうポジションにいるわけじゃないと思います」
『そうか……それならいいんだが』
こちらの立場を気にしていたようだ。
「鳴橋さんは、これからどうするんですか?」
『ジョージが、興奮してるんだ』
「どういう状況なんですか?」
『いきりたってる……やるつもりだ』
「なにをですか?」
『とにかく、また電話する』
一方的に切られてしまった。
「鳴橋からか? どうなってる?」
「いまのでは、なんとも……」
肝心なことは聞き出せなかった。
「ただ、佐川ジョーもいっしょみたいです」
「やはり、そうか」
「興奮していると言ってました」
「佐川が?」
「はい。いきりたってる、やるつもりだ、と……」
「なにをするつもりなんだ?」
英吾は、首を横に振った。
「鳴橋自身の様子は?」
様子といっても、声と発言内容から分析するには材料がたりない。
「完全にむこう側についたのなら、連絡はしてこないはずです」
「こちらの動向をうかがいたかったのかもしれない」
「いえ、ちがうと思います」
鳴橋は、英吾と新井の立場を心配していた。いまでも佐川ジョーを止めたいと本気で思っているのだ。
「そうか……それを信じるしかないな」
「捜査本部で、なにか動きはありましたか?」
「いや……」
そこで、横山は声をひそめた。
「ごらんのとおり、ほとんどなにもしてないよ」
縮小されたのは、本当に裏でなにかあったからのようだ。
「こちらが捜査本部でよろしいですか?」
そのとき、見慣れぬ男性に声をかけられた。
年齢は三十代後半ぐらい。身なりは整っており、警察官には見えない。スーツのランクも、数段上だ。
「どちらさまですか?」
横山が身元を確認したが、英吾には声に聞き覚えがあった。
どこで耳にした声だろう。一度だけでなく、何度か聞いたことがあるはずだ。
「あ……」
すぐに思い出した。外務省の藤森だ。
「外務省の藤森といいます」
そのとおりの自己紹介が続いた。
「か、川嶋です……」
慌てて英吾も名乗り返した。おたがい電話だけで、面識はない。
「川嶋英吾巡査ですね?」
「はい。国際捜査係の川嶋です」
「そうですか……責任者の方に、と思いましたが、あなたのほうがいいようだ」
「なにかありましたか?」
新井の話でも、どこの部署だかわからない謎の人物ということになっていた。外務省の情報部に所属しているらしいというのも、確証がある話ではない。
「いろいろ事情がこみいってきましてね」
「なにがあったんですか?」
「いえ、それはこちらの問題ですので」
外務省の問題ということだろうか?
だとしたら、新井にも関係のあることなのかもしれない。
急に不安になった。
「あの……」
この藤森が、どこまで知っているのかを確かめたい。
「どうしました?」
「話したいことがあるのですが……」
すでに話しているのだが、二人だけで、という意味だ。
「わかりました」
藤森は、すぐに理解してくれた。
横山の顔をうかがった。軽くうなずいて、同意してくれた。
二人だけで話せる部屋をさがそうとした。
「外に出ましょう」
藤森のほうから、そう提案してくれた。
「あ、ここの食堂はどうですか?」
英吾は、ひらめいたことを口にした。この時間なら、すいているはずだ。
「いいですよ」
食堂には、客がだれもいなかった。もう少しすれば、早めの夜食を求める職員がやって来るだろう。ちなみに、営業は午後八時までになる。
「で、話とはなんですか?」
おたがいがカレーを頼んで、英吾が一口食べたところだった。まだ藤森は手をつけていない。
「あの……どこまでご存じなんですか?」
「なにをですか?」
「新井さんのことです」
「あなたのほうこそ、どこまでご存じなんですか?」
さぐりあいだ……英吾は思った。
「新井さんのお父様が韓国人なのは、知っています」
「そうですか」
表情を観察しても、変化はない。理知的な雰囲気が崩れることはなかった。
「それだけですか?」
「どういう意味ですか?」
「お父様は本当に韓国人なのかな、と思いまして」
「川嶋さんは、どう考えているのですか?」
英吾は、しばらくカレーを食べた。食べながら、頭をフル回転させていた。
「おいしいですか?」
そう言って、藤森もようやくカレーを食べはじめた。ここの人気メニューだが、不思議と美味しいという評判を耳にしたことはない。はっきり言って、普通のカレーだ。
「うん、おいしいですね」
あきらかに感情はこもっていなかった。
「……日本にとって、好ましくない国ではないですか?」
勇気をもって発言した。
「なるほど、そう考えているのですか」
遠回しな言い方でも、理解してくれたようだ。その反応を裏読みすれば、英吾の推理は当たっているのではないだろうか。
「そして藤森さんは、そのことを承知で新井さんを起用した……」
「私に、そんな権限はありませんよ」
謙遜なのは、熟慮するまでもない。
「もしかして、こみいった事情というのも、それと関係があるんじゃないですか?」
「……」
ジッと観察された。
気持ちが悪かったので、カレーを食べた。普通の味のはずが、マズく感じた。
「彼女を取り込もうと、いろいろなところが動き出している」
それまでよりも、声をひそめていた。
「それは、どこですか?」
「いろいろですよ」
藤森は、繰り返した。
「ぼくは、なにをすればいいですか?」
本来なら「ぼくたち」とつけるところだが、藤森は警察全体を動かしたいわけではないようだ。
「彼女から眼を離さないでもらいたい」
「……新井さんが、このままぼくと捜査を続ければ、事件を解決してしまうかもしれない。それでも、いいんですね?」
事件のゴールをどこに設定するのかにもよるが。
「彼女には、彼女の仕事があります。それは、警察の捜査とはちがう」
「捜査をさせるな、ということですか?」
「そうではありませんが……そこの調節は、川嶋さんにお願いするしかない」
自分勝手な話だと思った。
「藤森さんは、ぼくや新井さんに、どうなってほしんですか?」
根本がわからないから、迷うのだ。
警察と行動をさせておいて、しかし捜査には介入させたくない。それならば、最初から単独で動けばいいことだ。
「なるほど……はっきり言いますね」
なんと答えるのだろうか……。
これまでの藤森から想像すると、まわりくどい言い方で、曖昧に流されるのではないだろうか。
「隣国との関係は、どの国も懸念材料でね。もちろん例外もある」
日本と韓国の関係を、まわりくどく表現したいようだ。
「両国間を円滑にしたいんですよね?」
「いまの大統領は、親日といえるでしょうね。ほうっておいても、反日の風潮は弱くなっていくでしょう」
「いいことではないのですか?」
まるで、それが悪いことのように英吾には聞こえたのだ。
「いいことですよ」
信じられなかった。
「でしたら、心配する必要はないはずです」
「いいえ、だからこそ不安なんですよ」
「どうしてですか?」
「韓国人は、自分たちを進んだ民主主義の国だと思っている。この日本よりも、すっと進化した」
それを言うなら、すべての面で日本よりも良い国だと彼らは本気で信じているのではないだろうか。
「右派と左派は、つねに争っている。まあ、日本をはじめ、どの国でもそれは同じなのだが」
韓国はそれが極端なのだ、ということを主張したいのだろう。
「それで……」
英吾は、さきをうながした。もう少し話の速度をあげてもらいたかった。
「不安定すぎるんですよ。で、われわれとしては、彼らは信用に値しないものだと判断したわけです」
われわれというのは外務省のことだろうが、どうしてだろう……そうは思えなかった。
「つまり、韓国を見限ったわけです」
「見限る……ですか?」
「はい。韓国の産業にとって一番重要な半導体は、すでに台湾が主導している」
「それは……アメリカも、ということですか?」
藤森はうなずいた。英吾の感想はまちがっていなかった。われわれ、とはアメリカを中心とした西側諸国のことなのだ。
かつては日本が、半導体の中心にいた。それに危機感を抱いたアメリカによって、利権は奪われることになる。
日米半導体協定。
日本のかわりに育てられたのが、韓国ということになる。今度は韓国から台湾に乗りかえるというのだろうか。
いや、すでに台湾はその分野で韓国と肩を並べている。もっとそれが顕著になるということなのだろう……。
「あの……それではまるで、韓国が反日のままだったほうがよかったように聞こえるのですが」
「そのとおりです。もうわれわれは、そのように動いていた。次の大統領も左派が勝つだろうと予想していましたからね」
「右派の大統領になっても、その流れは変わらないのですか?」
「だからこそ、私たちは苦慮している。いまのまま、すっと右派が優勢であればいい。しかし、そうなるでしょうか? それに、韓国は右派も反日です。現に、二つ前の女性大統領は右派ですが、徹底的に反日親中を貫いた」
「慰安婦合意は、そのときですよね?」
「ええ。その合意だけをみれば反日とはいえないかもしれません。あのときは、アメリカからの突き上げもありましたから。むこうも、こっちも」
つまり、米国の意向がはたらいたということなのだ。
「さらにもう一つまえの大統領も右派でしたが、就任当初は親日反中で良好な関係を築いていたものの、任期後半にガラリと変わった。レームダックというやつです」
日本では、あまりつかわれない言葉だ。『死に体』という相撲用語が適切な翻訳になるだろうか。
「こういうことですよね?」
任期終盤の大統領は、政治的な力を失う傾向にある。まさしく、死に体だ。とくに韓国の大統領の任期は五年一期と決められているから、それが顕著なのだ。もとはアメリカでつかわれはじめた言葉だが、いまでは韓国のニュースで頻繁に使用されている用語といえるだろう。
「よく勉強していますね」
レームダックの概要を語ったら、褒められた。新井と知り合ってから基本的なことだけでも調べていたのだ。
「いまの大統領も例外ではないかもしれない、ということです。任期終盤、竹島に上陸をしたら、日韓関係は深刻なものになる」
いま話に出た三代まえの大統領は、それをやってしまったのだ。韓国内での人気は高まったが、日本との関係は冷え切った。
「もし任期終了まで親日を貫けたとしても、次の大統領は? いえ……そこもクリアできたとしましょう」
なにが言いたいのだろう?
「日本寄りの政治が続けば、国民世論が逆に傾くかもしれない」
「一般の人々が、もっと反日になってしまうということですか?」
「一般国民ならいい──」
藤森は、慎重に発言しようとしている。それだけ、きわどいことを口にしようとしているのだ。
「不満をもつのが軍の関係者だった場合……想像するのも恐ろしいと思いませんか?」
「それは、軍事クーデターのようなものですか?」
「あの国が民主化したのは、それほどむかしのことではありませんよ。それにあの国には徴兵制がありますから、一般の国民が兵士になる。そして分断している北の国は、まさしくそういう国だ」
さすがに飛躍しすぎている想定だ。いまの韓国がそうなる可能性は、ほとんどないだろう。が、そのことをここで言い争っても意味はない。
「あの……ぼくの質問の答えになっていません。ぼくたちが、どうすればいいのか……それを簡潔に言ってください」
外務省の──もしくは、藤森の『日韓論』はわかった。だが、そういうことを聞きたいのではない。
「ですから、事態は複雑なのです。いまの考えに賛同する人間もいれば、良好な関係にもどったことを祝福する人間も多いということです」
ますます知りたい答えからは遠のいている。
「あの……ですから、結論を……」
「正直に言いますと、どこのだれが、どう動いてるのかわかっていません」
「は?」
思いもしない発言だ。こうして警察署まで足を運んでいるのに、なにか具体的なものがあるわけではないようだ。
いや……。
すぐに英吾は考えをあらためた。
あの当麻といい、情報機関に所属している人間は、簡単に手の内をみせない。
「できれば今後は、彼女とつねに行動をともにしてもらいたい」
とにかく、彼女を一人にはしたくないのだ。
「危険があるんですか?」
「どうでしょうね……」
危険ではない。
ちがう。この藤森にとっては、新井の身に危険が迫ろうとも、それは重要なことではないのだ。
敵対勢力に寝返ることを恐れている?
もしくは、敵対していなくとも、べつの勢力に入ることを防ぎたい……。
「わかりました。できるかぎり、そうします」
藤森の意に従うつもりはなかった。
新井の存在は、この嵐の中心にいる。
その状況をどうにかしたい……。
ただそれだけだ。
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