第25話
『
25
帰り道、携帯が音をたてた。
もう少しで自宅アパートに到着するところだった。
「はい……」
夜道でも人通りは多くあるから、それほど警戒はしていない。
『新井さんですか? 川嶋です……いまどこですか?』
「部屋の近くです」
声に張りがない。なにかあったのだろうか?
「川嶋さん?」
『なにか危険はありませんでしたか?』
「はい……大丈夫です」
あの謎の男は、危険というわけではなかった。嘘を言っているわけではない。
『お父様とは、話し合いましたか?』
「はい……」
『どうでしたか?』
「……」
なんと答えよう。
『そういうことだと思っていいんですか?』
「……はい」
もちろん否定はされた──と言おうとしたが、彼ならそれもわかっているだろうと考えをあらためた。
「それと……」
『どうしました?』
「いえ……いいんです」
『なんでも言ってください』
「……父の同僚だったという人が近づいてきました」
あの男は、だれも信用するな、と言った。たしかに、実の父親すら信用できない状況だ。
しかし、この川嶋だけは信用できる……そう思えた。
『同僚? まさか……』
「たぶん、そういう人たちです」
だれも信用できないのなら、あの男の発言もまた、信用はできない。語っていた内容のどこかまでが真実なのか……。
『危なかったんじゃないですか?』
「いえ、それはないです……」
『なにを言われたんですか?』
「父のこととか……むかし住んでいた場所のこととか……」
説明する言葉も重くなる。
『もしかして……仲間に取り込もうとしてたんじゃないですか?』
「どうなんでしょう……。ですが、その人も父も、二重スパイとして活動していたらしいです」
『二重スパイということは……どこと、どこですか?』
「韓国と……です」
そう言えばわかるだろう。
『……にわかには信じらなれない話ですね』
たしかに、冷静に考えれば現実感のない話だ。
『だれのことも信用しないほうがいい』
くしくも、あの謎の男と同じセリフだった。
『どうしました?』
「いえ……」
川嶋のほうにも、なにかあったのだろうか?
「どうして、そう思ったんですか?」
『……ぼくのところに、藤森さんが来ました』
「藤森さんが?」
『はい。捜査本部のだれでもよかったようによそおってましたけど、たぶん……ぼくに会いに来たんだと思います』
「なにか言われましたか?」
『あなたから眼を離さないでほしいと』
「……理由は言っていましたか?」
『こみいった事情ができたとしか……』
謎の男の動きを把握していたのだろうか?
それとも父が監視されていた?
しかしあの男の発言を信じれば、父はこの国の公安とつながっている。藤森からしてみれば、むしろ情報を得る立場になるはずだ。それとも公安と国際情報統括官組織に横のつながりはないのだろうか。
わからない……。
わからないが、やはりあの謎の男の発言自体も疑ってかかるべきだ。
藤森は、どの動きを警戒していたのだろう。いずれにしろ、信用できないのは藤森にもあてはまる。
「そうですか……ほかに、なにか動きはありましたか?」
『鳴橋から連絡がありました』
「どうでした? なにを言ってましたか?」
『佐川ジョーが、なにかをやる気になっているようです』
「なにか?」
『具体的には話してくれませんでした……』
「どんなことでしょう……心配ですね」
佐々木という警察官の所属する『火病連合』という組織が主導するのだろうが、嫌韓思想のある彼らが起こすとすれば、また暴力の連鎖がより過激になっていくはずだ。
『今日は、そのままおとなしく帰ってください。明日からは、いま以上に警戒したほうがいいでしょう。まだ公安の件も安心できません』
謎の男の接近を藤森が知っているのなら、そこから公安に話が流れるかもしれない。そうなると、再び公安に襲われる可能性がある──川嶋は、そう考えているのだろう。
通話を終えてから、あることが頭をよぎった。
公安だという衣笠の目的だ。
襲撃するのはどんな理由でも許されないことだが、公安から敵だと認識されているのなら、まあ……わかる。
だが父と謎の男は、北の思惑で動きつつも、韓国の情報機関にも所属している。そして父に関しては、公安とつながっているという。
やはり美里が襲われのは、理解不能だ。
敵対勢力に接触されたくないとしても、その敵対勢力とは、どこのことだ?
謎の男が嘘をついているというのなら、話は簡単だ。北の工作員として、美里に接触してきた。そういう事態を懸念して、公安は美里を襲撃した。警告という意味で。
しかしあの男が、まったくのデタラメを話しているとは思えなかった。もちろん、信用していいものではないが……。
部屋について、しばらくぼうっとしてしまった。考えることに疲れたのだ。
シャワーを浴び、食事をとっているあいだも、面倒なことは考えなかった。
ベッドに入ると、しかしよけいな想像が脳内を駆け回る。眠れない。
トン、トン。
ふいにノックの音がした。
だれだ?
すでに深夜と呼ばれる時間帯に突入している。こんな時間にたずねてくるような知り合いはいない。
それに、このアパートにはインターホンがついている。
慎重に玄関ドアに近づいていく。
ノックの音は、一回だけだった。それとも空耳だったのだろうか……。
ドアスコープを覗いても、だれの姿もない。
チェーンをかけて薄くドアをあけた。
やはり、だれもない。
「え?」
思わず声が出た。
ドアの前に、箱が置かれていた。
プレゼント?
ラッピング用のリボンが巻かれている。
チェーンをはずして、扉を開けなおした。
警戒しながら、その箱を持ち上げた。
重くはない。20センチ四方ぐらいの大きさだ。
あけるべきか、あけざるべきか……。
それが、ただの日常のなかで置かれたものなら、あけるべきではない。
しかし、いまの状況では……。
部屋にもどって、箱をあけた。
「なにこれ……」
なかに入っていたのも、箱状のものだった。
オルゴール?
蓋をあけると、メロディーが鳴った。
なんの曲だろう?
オルゴールの音色は、のどかに聞こえた。
ほかに手紙のようなものも入っていない。
このタイミングでなければ、たとえばストーカーからの贈り物と思ったかもしれない。
そういうのではない。きっと、このオルゴール自体か、この曲に意味があるのだ。
有名な曲なら、携帯で検索できるはずだ。オルゴールに携帯を近づけた。検索エンジンが、すぐさま該当曲をさがしあてた。
「……」
のどかなはずのメロディーが、一瞬にして刺々しいものに変化したようだった。
北朝鮮国歌。
北側が接触してきたのだ。
これを藤森は警戒していたのだろう。
どうするべきか……。
警察に通報するか、それとも川嶋個人に助けを求めるべきか。だが、ことがことだけに、どちらを選んでも公安が出てくるかもしれない。
これを送った人間の意図を読み解かなければならない……。
「わたしが喜ぶわけがない」
筋金入りのストーカーでないかぎり、送った人間だってそれはわかっているだろう。
むしろ、恐怖、困惑、疑問、それらの感情しか生まない。
つまり、送り主の目的もそれなのだ。
美里はオルゴールを箱にもどし、そのままゴミ箱に捨てた。
だれからも、プレゼントは受け取らなかった。
朝の目覚めは、それほど悪いものではなかった。
「おはようございます」
川嶋がアパートの前で待っていた。
過剰すぎる気もするが、藤森の要請を重く受け止めているのだろう。
「昨夜は、なにかありましたか?」
「大丈夫でした」
オルゴールについては、自身のなかで無かったことになっているから、言葉にも出さない。
そういう姿勢こそが、送り主への痛烈な反抗になるはずだ。
「昨日の話を、もっと詳しく教えてください」
機構事務所についてから、面談室で川嶋と話し合った。
「二重スパイというのを聞いて、新井さんはどう思いましたか?」
「現実味はないですよね」
「信用に値しない?」
「……いえ、なんだかリアリティは感じてました」
「では、真実を語っているかもしれないんですね?」
「わかりません……」
身も蓋もない言い方だが、それこそだれの発言も信用できなくなっている。
「こちらを混乱させようとしているだけかもしれないし……」
だとすれば昨夜のプレゼントは、あの謎の男ということになる。しかし、そうは思えなかった。あんな陰湿なことをするのなら、姿を現わしたりはしなかったのではないだろうか。
一番動機があるのは、公安ということになる。が、これもまた、イメージがわかない。公安が北朝鮮国歌のオルゴールを用意するのもおかしな話だ。なにがしたいのかわからない。
そうなると、本当に北朝鮮の工作員が近づいてきたと考えるのが自然かもしれない。
だが、そんなことが……。
川嶋の携帯が音をたてた。
すみませんと、ことわってから川嶋が通話をはじめた。
「はい、はい……川嶋です。え? は、はい……いまからですか? はい……わ、わかりました」
「どうしました?」
川嶋は浮かない顔になっていた。
「うちの署に来てくれって……」
上司に呼ばれたのだろうと単純に考えた。
「新井さんもです」
「え?」
「交通課の人でした」
川嶋の部署は刑事課に所属しているはずだから、直接の上司というわけではないようだ。
わけのわからぬまま、川嶋の勤める新新宿署に向かった。一度行っているが、そのときは建物を観察する余裕がなかった。いまはしっかりと見ることができた。本当に、『新新宿署』と表記されていた。新と新のあいだに「・」も入っていなかった。
どうでもいいことに感動をおぼえながら、案内された部屋に向かった。そこで待っていたのは、とても可憐な女性だった。こういう表現は職業差別につながってしまうかもしれないが、警察官には見えない。
「お呼びしてすみません」
制服姿だが、どうしてもアイドルがコスプレしているように思えてしまう。
川嶋の顔を覗いても、彼女にたいしての好意が感じられる。男性警察官は、みな好きになってしまうのではないだろうか。
女性は、交通課の星村と名乗った。
「新大久保駅周辺で、デモの申請がされました」
「デモ、ですか?」
川嶋も予想外のことだったようだ。
「デモの申請は、交通課が対応することが多いんです」
交通課か警備課が窓口になるそうだ。そして警察署から公安委員会へ話が行く。
「それで、どうも内容が反韓デモのようでして」
つまり嫌韓デモがおこなわれるということだろう。
「この管内では、それほどめずらしいことではないのですが……」
女性警察官──星村は、言いよどむように続けた。
嫌韓デモをやるのなら、新大久保を中心とした新宿界隈になることが多いはずだ。
「突然の申請だったので……」
「いつですか?」
「明日です。申請は、昨日の夜でした」
「普通は、どうなんですか?」
美里が質問した。素朴な興味もあった。
「それはいろいろです。何ヵ月も前から準備するケースもありますし、直近になっての申請もあります。東京都のルールでは、七二時間という規定があります」
要約すると、三日前までに東京都公安委員会へ申請する必要があるということだ。
「それでは、規定違反じゃないですか?」
「そうなんですが……」
どうにも歯切れが悪い。
「これは、課長や係長が言っていたことなんですけど……」
彼女の言う課長たちは、美里も会ったことのある川嶋の上司ではなく、交通課の、という意味だろう。
「デモというのは本来、国や政府に対する抗議でおこなうものだから、警察や公安委員会に許可をとるというのも、おかしな話なのだそうです」
権力側の都合でデモの許可を出さなかったとしたら、それはもう独裁国家ということになる。
しかし、道路や公園を使用するにも警備の問題があり、警察が介入するしかないのが現状だ。警察としては申請をしてくれるだけでもありがたいことなのだ──と、上司の話を星村は語った。
つまり、無許可でデモをする集団も多いということなのだろう。
「だから規定違反でも、許可をするしかないんですか?」
「無許可よりは……」
だが、まだなにかふくみをもたせている。
「なにかあるんですか?」
美里は、諭すように声をかけた。
「どうも奇妙だと、課長たちは口にしていました」
なにがあるというのだろう?
「申請者の名前なんですけど、『佐川譲司』となっています」
どこかで聞いた名前……いや、よく知っている名前だということに思い至った。
佐川ジョーの本名だったはずだ。
思わず川嶋と顔を見合ってしまった。
「それでとにかく課長たちから、お二人に連絡をとってくれって……」
「佐川がここに来たのですか?」
川嶋が質問した。
「たぶん、ちがうと思います。代理の方だと思います」
警察からマークされている佐川が来るとは思えない。おそらく、鳴橋でもないだろう。べつの人間が申請に訪れたのだ。
「交通課では、佐川のことはどこまでご存じなのですか?」
「わたしはよくわかりませんが……」
どうやらこの星村は、事情をよく知らないらしい。想像するに、上司から美里たちにデモの話をしろと指示をうけただけなのだ。
「……」
星村の表情が、まだなにかを言いたそうだった。
「どうしました?」
また美里がうながした。
「いまの話にもどりますけど……」
「佐川のことですか?」
「いえ、申請についてです」
七二時間の規定についてだろうか。
「これも課長たちが話していたんですけど、どうもさきほど言ったことだけではないようなんです。なんだか、上のほうから受理するように動きがあったようで……」
「上っていうのは、署長?」
「いえ……本部のほうかと」
川嶋が顔を向けた。
「たぶん、公安部長だと思います」
これまでの流れをかんがみたのだろう。
「どういうことですか?」
「このデモで、なにかをおこすつもりかもしれない」
デモを公安が主導しているということなのだろうか?
それともデモを利用して、なにかを企んでいる?
「デモは、明日の何時ですか?」
「午後一時です」
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