第26話

『アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン・沖縄・日本・アリューシャン列島までだ。朝鮮半島を含むそれ以外の地域は責任を持たない』 ディーン・アチソン



       26


 新署から、ヘイトクライム対策機構に向かっていた。

 まさか、あの星村あすかとあんな至近距離で向かい合うことになるとは思わなかった。こんなときに、なんと不謹慎な……。

「きれいな方でしたよね」

「え、ええ……」

 くしくも、新井がその話題にふれた。

 さすがに、彼女が警視庁美人ランキング二位なんですよ、と言うべき雰囲気ではない。それとも、あなたのほうが美しいですよ、と言ったらどうなるだろう。

 結局、機構につくまで、会話は続かなかった。

「おかえり」

 渋谷にそう声をかけられた。しかし、さきほどは会っていない。

 すぐ面談室に入って、デモについて話し合った。

「警察としては、どう動くんですか?」

「あとで確認しますけど、捜査本部にも話はいっていると思います」

「警備の数が増えるということですか?」

「表立った警備ではないかもしれないですが、捜査員が張り込むはずです」

 捜査本部の人員が縮小されているので、それほど期待はできないかもしれないが。

 携帯が鳴った。鳴橋からだ。

「鳴橋さん?」

『明日、集会をやる』

「嫌韓デモですよね?」

『名目はどうでもいいんだ』

「主催者は、佐川さんなんですよね?」

『バカだから、踊らされてんだ』

「明日は、ぼくたちも行きます」

『いいか、むこうも来るはずだ……なにがおこるかわからない』

 そう言って、鳴橋のほうから切った。

「川嶋さん……」

「むこうも来るって……」

「むこう?」

「韓国人グループだと思います」

「嫌韓デモに来るということは、それを抗議するため……ですよね?」

「抗議程度ならいいんですけど……」

 これまでの流れでは、もっと凄惨なぶつかり合いに発展するかもしれない。

「でもなんで……鳴橋さんは、韓国人グループが来ることを知ったんでしょう?」

「そうですね……」

 新井の疑問に、英吾も同意した。当然、おたがいが反目し合う敵同士だ。敵側の情報が漏れているのだろうか?

「あ……」

 新井の表情が変わった。

「なにか思い当たることがあるんですか?」

「い、いえ……」

 暗い翳りの色を見て取って、英吾にも連想できることがあった。

 当麻だ。当麻の存在が、韓国人グループ側からみればスパイになりえる。しかし、それだけだろうか?

 逆の面もあるかもしれない。韓国人グループにも情報を流している……。

 つまり、当麻が両者をコントロールしているのではないか。

 まさか……。

 藤森の警告は、当麻についてなのか?

「新井さん……」

 なんと言葉をかけよう……。

「はい?」

「明日は、ぼくだけのほうがいいかもしれません。なにがおこるかわからない……」

「そんなことを言ったら、デモに参加する人や……いえ、それならまだしも、なんの関係もない、その場に居合わせただけの人たちも危険になるはずです」

 そのとおりだ。しかし、彼女は警察官ではない。そこまでの責務はないはずだ。

「わたしも行きます」

「……」

 デモを中止するのが一番いいのだが、公安委員会や警察の権限でそれはできない。警備上の都合を理由に申請段階で断ればよかったのだが、受理した以上、主催者の意思が尊重される。

 ただし星村あすかが語っていたように、許可をしなければしないで、無断で強行してしまうかもしれない。罰則はあるようだが、あまり厳しすぎる対応をしてしまうと、それこそ国家権力の横暴と非難されてしまうだろう。

 結論は、そのまま二人で見守ることになった。国際捜査係と、ヘイトクライム対策機構の真価が問われることになるはずだ。



「なんだか、思っていたのとちがうのですが……」

 翌日の午後一時──。

 新大久保駅前に、混乱はみられなかった。

 拡声器をもった男性が、俗にいうヘイトスピーチを叫びながら歩いている。しかし、そのあとに続く人数は、せいぜいが十人ぐらいのものだった。

「もっと、混乱するぐらいなのかと……」

 韓国人は、嫌韓デモをする国は日本ぐらいだと敵意をあらわにしているが、当の彼らは反日集会というヘイト行為を日常的に続けている。

 しかも日本での場合、参加する人数はこの程度であり、興味本位で覗く人や、たまたま通りかかって少し立ち止まった人たちをたしても、たかが知れている数しか集まらない。

 かたや韓国の集会には、何万人という規模で人が集まっているという。

「こんなものだと思いますよ」

 拍子抜けしたような新井に、英吾は落ち着いて応えた。

 もっと大人数が集まるようなデモなら、さすがに事前準備が必要だろう。前日に許可を出した経緯にはあやしい部分もあるが、この程度だとわかっていたから認められたのだ。

 佐川や鳴橋の姿はなく、佐々木巡査部長もいない。なにか暴動のようなものを匂わせる雰囲気もなく、主張している発言自体は殺伐としたものだが、危険がおこるような気配は微塵もなかった。

 警備の人員も、かなり少ない。

 捜査一課をはじめとする捜査本部の人員は、パッと見たところ、どこにいるのかわからない。昨夜、横山と連絡をとりあったのだが、方針はまだ決まっていないようだった。現時点でも、課長や本部の管理官から指示のようものもなかった。

 駅周辺をねり歩いたのちに、韓国の店が多いエリアに移動し、イケメン通りを行ったり来たりしていた。その間も、参加者が増えるということもなかった。

 そして新大久保駅にもどり、そこから大久保公園に入った。拡声器を持った人物が、ここであらためて演説するようだ。

 少し人数が増えただろうか。ただし嫌韓に興味があるのではなく、なにごとかと足を向けた通行人が大半だろう。

「おい」

 声をかけられたと思ったら、横山だった。

「どんな様子だ」

 いま到着したばかりのようだ。

「とくに問題はおこっていません。本部の人は?」

 ほかの人員は? という意味だった。

「おれだけだ」

「え?」

 捜査本部では、このデモを重要視していないということか……。

「鳴橋は?」

「まだ姿をあらわしていません。佐川もです」

「あ……」

 新井が声をあげていた。だれかを発見したようだ。

 視線の先に、キャップを目深にかぶった男性がいた。英吾の立ち位置からでは、顔まではわからない。

「新井さん?」

「あの人だと思います」

 該当しそうな人物が多すぎて、だれのことを指しているのか……。

 体格から、太りぎみの佐川でないことは確実だ。身長の低い鳴橋でもないだろう。

 佐々木巡査部長だろうか?

 それとも、当麻?

「襲われた警察官だと思います」

「え? 岸巡査?」

 新井は、岸巡査のことを知っていただろうか?

 病院で扉があいたときに眼にしていたのかもしれない。

 思わず、横山の顔を見た。

「いま交番にいるか確かめる」

 携帯を操作して、小声で確認していく。三十秒ほどで結果がわかった。

「姿がないそうだ」

「どうします?」

 岸巡査と思われる人物は、演説をおとなしく聞いている。やはり顔は見えない。確認するためには、その人物の前方に移動しなければならない。

「声をかけますか?」

 横山は、判断に迷っていた。容疑者ならば応援を呼んで慎重に確保するべきだ。しかし職場から姿を隠したとはいえ、重要事件の容疑者というわけではない。

「逃げられるよりも、このまま様子を見よう。応援は呼んでおく」

 本部へ連絡を入れるために、横山が人の少ない場所へ移動していく。ある程度の声量を出さなければ、的確な指示は出せない。

 英吾と新井は、岸巡査らしき人物から眼を離さないように注意した。

「だれを見てるんでしょう?」

 彼女が、そんなことを言い出した。

 よく観察をしてみれば、たしかに演説をしている男性に視線は合っていないように思える。はっきりと顔がわからない角度だから、断言はできないが。

「あの人ですかね?」

 遠巻きに足を止めて見物している一人。

 その人物も、キャップを目深にかぶっていた。距離が遠いから、やはり個人の特定はできない。もちろん、知らない人物である可能性もある。

「なにかをする気でしょうか?」

「……」

 わからない。そもそも、嫌韓デモで彼らがなにかするとは考えづらい。逆に、韓国人グループが反日集会でもひらいているのなら、行動を予想することは簡単だ。

「困った……」

 連絡を終えた横山が、愚痴をこぼしていた。

「どうしたんですか?」

「応援は来ない」

「え?」

「それどころか、もどってこいと言われた」

 横山の表情は、厳しい。

「なぜですか?」

「刑事の範疇ではないと……」

「刑事?」

 おそらく、この場合は「刑事ドラマ」などで使われる刑事ではなく、刑事部や刑事課という部署としての意味だと思われる。

「それって……」

 つまり、べつの部署が出しゃばってくるということを示唆しているのだ。

 今回のことで出てくるとしたら、公安しかないだろう。

「まあ、やつらが仕切るということだろうな」

「ぼくたちは、どうするべきですか?」

「おまえらは、なにも言われてないだろ? このままやっちゃっていいんじゃないか」

「……」

「難しく考えるな。警察官として、やるべきことをやれ」

「……横山さんは?」

「おれは、もう少しここで散歩でもするさ」

 すぐには撤収しないということだ。

「一課としては動けないが、なにかあったら、警察官としてやるべきことをやる」

 まるで信念を口にしているようだった。

 悲鳴のような叫びを聞いたのは、そのときだった。

「なんだ!?」

 横山が警戒の視線を周囲にはしらせる。

 声はどこからする?

 公園に入ってきた女性が放っているものだ。

 ヒステリックに、なにかを叫んでいる。

「あの人……」

 英吾には、見覚えがあった。

 反日韓国人グループの女性だ。

 まくしたてるように、演説している男性に声を叩きつけている。

 園内に不穏な空気が流れはじめた。

 衝突がおこるまえに止めるべきだ。

 英吾が動き出すまえに、さらなる混乱が生まれた。

 なにかが公園に投げ入れられた。

 地面に落ちると、それは煙を発生させていた。

 パルガッタでの、発煙筒を思い起こさせた。しかし、それよりも攻撃的なものだと、すぐにわかった。

 眼が痛い。

 これは……、

「催涙弾!」

 園内にいる人たちは、みな顔を押さえて咳き込みはじめた。

「こ、これは……」

 新井も苦悶に表情をゆがめている。

 一発だけではなく、何発か放たれたようだ。

 英吾は、それでも現状を理解しようと、かすむ視界で周囲を見渡した。

 棒のようなものを持った人物が、それを振り上げているのが見えた。

 衝突がはじまってしまったのだ。

 振り下ろされた凶器は、しかし対抗するべつの人物が受け止めていた。その人物の手にも鉄パイプのようなものが握られている。

 体格からその対抗している人物は、佐川ジョーだと判断できた。

 反日グループと嫌韓グループの乱闘だ。

「やめろ!」

 英吾は、叫んだ。

 眼は痛むが、催涙弾の効果は、だんだんと薄れていく。

 細かな状況が理解できるまでになっていた。

 凶器を手にしているのは、五人だけだ。

 顔にバンダナを巻いて隠してはいるが、一人は佐川ジョー。そのかたわらにいるのは、やはり体格から、鳴橋だと思われる。

 鳴橋は、武器を所持してはいるが、それを使うような素振りはない。どうやら、声をかけて佐川を説得しているようだ。

 その二人に対抗している人物は、顔を隠してはいなかった。韓国人グループの一人──鳴橋に最初に襲われたキム・ユジュンだ。

 それらとはべつの戦いもおこなわれている。その一人が、岸巡査が凝視していた、キャップを目深にかぶっている人物だった。凶器はうまく隠していたようだ。

 嫌韓グループの一味になるだろう。

 凶器同士がぶつかりあったあと、おたがいがもみ合いになった。そのときにキャップがとれた。

「佐々木さん……」

 そして佐々木巡査部長と戦っているのは、もう一人の韓国人である、ミンジュンだ。

 その二人の戦いに、岸巡査が割って入ろうとしていた。

 どちらかに加勢しようとしているわけではない。どういう図式だ?

 混乱は、拡大していく。

 演説していた男性も攻撃に参加していた。拡声器を相手に叩きつける。その相手は、やはり顔をバンダナのような布で隠した男性だ。状況を考えれば、その人物も反日韓国人ということになる。

 英吾の足はすくんでいた。この場にいる警察官は、横山と二人だけだ。警備にあたっていた制服警官の姿は、いまのところ見当たらない。まさかとは思うが、公安の指示で撤退したのだろうか?

 どこから止めるべきか、判断がつかない。

「やめてください!」

 そんなとき大声をあげていたのは、女性である新井だった。

「や、やめなさい!」

 新井の声で、英吾は目覚めた。

 迷っている場合ではない。

 英吾の一番近くで格闘をしていたのは、拡声器の男だった。

「やめろ!」

 拡声器の男と、バンダナの人物に鋭く声を放った。

 バンダナの手には、木刀が握られていた。

 その切っ先が、英吾に向いた。

 攻撃されることを覚悟した。特殊警棒を抜こうとしたが、バンダナの言葉でそれを躊躇した。

「さがれ!」

 聞き覚えのある声だった。

 当麻?

「なにやってるんですか!?」

「おまえらは、出なくていい!」

「そんなわけには……」

「どうせ茶番だ!」

「え?」

 それでもどうにか止めようとしたのだが、接近した当麻に腕で強く押されてしまった。

 地面に倒れた。

「これは日韓の争いじゃない」

 見下ろしている当麻は言った。

「じゃあ、なんだっていうんですか!?」

「内と外の戦いなんだよ」

 だから、それが日韓の争いではないのか?

 衣笠も口にしていたことだ。

「おれたちも巻き込まれたんだ。たしか、三課と外事だな」

「それって……」

 外事といえば、公安の国外担当のことだろう。

「そっちの部署名までは詳しくないが、とにかく国の内外でパワーゲームをやってるんだ」

 その結果が、この騒乱?

 英吾は、舌打ちしながら立ち上がっていた。

「ふざけるな! どんな理由があろうと……こんなことが許せるか!」

 猛るように吠えていた。

 もう一人の自分が、眼を覚まそうとしていた。

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