第27話
『われわれは数十年間、わが民族運動史上に派閥抗争による惨憺たる失敗の経験と、目前に中国民族の最後の必勝に向かい邁進している民族的総団結の教訓から、従来犯した種々の誤謬錯誤を痛感し、ここに両人は神聖なる朝鮮民族解放の大業を完成するため、将来同心協力することを同志同胞諸君の前に告白する』 大韓民国臨時政府
27
本当に眼の前で乱闘がはじまってしまうなんて……。
「やめてください!」
美里は、勇気をふりしぼって声をあげた。
本心では、逃げ出したいほど怖かった。
投げ込まれた催涙弾のようなもので眼が痛かったが、だいぶ視界はもどっていた。韓国人グループの男性が鉄パイプのようなものを振り上げているのが見えた。
鳴橋忠司に襲撃されたミンジュンだった。あのときに助けてもらったから、見間違えではない。
「やめましょう!」
ミンジュンは、美里に視線を移した。彼のほうも美里の顔は知っているはずだ。
なにかを言われたが、はやすぎて聞き取れない。
彼と対決しているのは、見知らぬ男性だった。いや、どこかで会っている。そうだ、横浜の屋台にいた男性ではないだろうか?
すると、この人は警察官……。
「佐々木さん!」
鋭い声が侵入していた。
キャップを目深にかぶっているのは、岸という襲撃された警察官だ。やはり二人とも、嫌韓グループに属しているのだ。
「これはやりすぎです!」
「命令だ」
二人のやりとりは、しかし仲間同士のものとはちがうようだった。
「そんな命令が、やりすぎなんです!」
「それが警察官の本分だろうが!」
ミンジュンも、二人の様子に戸惑いをみせている。が、凶器を振って二人に迫った。
佐々木という警察官が、距離をとって応戦する。
「やめましょう!」
美里は繰り返した。
なんとか止めようと、ミンジュンに接近した。
手で押しのけられた。
またなにかを言っている。そのとき、硬い棒状のものが、美里のすぐ近くを通過した。
ミンジュンに押されていなければ、頭に直撃していただろう。また彼に助けられた。
美里は、咄嗟に振り向いた。
冷たい表情の女性が立っていた。
病院で襲ってきた女性だ。衣笠という名前のはずだ。
衣笠は、ほかの暴力集団と同じように、鉄パイプのようなものを握っている。
「!」
美里の身体は動かない。まるで金縛りにあったようだ。
「どうして!?」
「おまえのためだ」
冷たい表情と声音で、衣笠は言った。
「わたしのため!?」
ふざけるな、という思いだった。
「わたしを殺したいの!?」
「殺すつもりなら、とっくにおまえは死んでいる。拳銃を用意すればいいだけだ」
背筋が凍えるようなことを語った。
「じゃあ、目的はなんだというの!?」
ヒステリーをおこす寸前だった。
「おとなしく怪我をして、その仕事を休むか、やめるかすればよかったんだ」
「そんなに、わたしが邪魔なんですか!?」
「わたしにとっては、ただの邪魔だ。だが、べつのだれかにとっては、大切なおまえを守りたいんだろう」
「守る!?」
守るのに、怪我をさせる?
バカげている。
「わたしを守ろうとしているのは、だれ?」
憤りはのみこんで、美里は会話をつづけた。ミンジュンは、すでに二人の警察官と乱闘を再開している。
「わたしは、下っ端だ。そんなことまでは知らない。ただ……」
「なに? なんなの!?」
「たぶん、人ではない」
意味がわからなかった。
「では、なんだというの!?」
言葉づかいも荒いものになってしまった。
「さあね。日韓関係にひそむ亡霊でもいるんじゃないか?」
冗談のような物言いだった。これ以上の問答は、よけいな混乱を招くだけだ。昨夜のプレゼントと同じだ。相手にするべきではない。
「わたしは、引かない。あなたに妨害されても、絶対に引かない!」
それは、衣笠だけへの決意ではなかった。今回の問題にかかわっているすべての人間に対しての言葉だ。
「……おもしろいわね。みせてもらおうじゃない!」
衣笠の凶器を持つ手に、力がこもった。
この危機的状況を変えたのは、パートナーである男性だった。
「え?」
川嶋が大立ち回りを演じていた。まるで格闘家のような動きだった。
布で顔を覆った人物の持つ棒状の凶器をからめとるように奪うと、それを投げ捨てた。
「やるじぇねえか」
「だまれ」
川嶋の顔つきが変わっていた。いつもの頼りなげな風貌はどこにもない。
引力に導かれるがごとく、顔を隠した人物に密着すると、そのまま投げを放った。さすが警察官だ。柔道の心得があるのだろう。
投げられた人物は、ちょうど美里と衣笠のあいだに落ちた。
顔を覆っていた布がとれていた。
「え……」
当麻だった。
どういうことなのだ?
当麻が、韓国側に立って暴動をおこしているというのか?
「みんな、やめろ!」
川嶋が叫んだ。
普段はどちらかといえば高い声なのに、地を震わせるように声は響いていた。
その声に、乱闘をしていた人間の動きは止まっていた。
「ほう……、猫をかぶってたってわけか」
当麻が立ち上がっていた。
演説をしていた拡声器の男性も、川嶋のことを恐れを込めて眺めている。たぶん、この男性と当麻が最初に戦っていたのだろう。
佐川ジョーと鳴橋、その二人と乱闘していた男性(おそらく、彼がキム・ユジュンだと思われる)も動きを止めている。
警察官二人と、ミンジュンも同じだ。
この乱闘のきっかけとなった韓国人女性の姿もあるが、騒ぎ立てるようなこともしていない。
そして、衣笠もなにもできずにいるようだ。だれも乱闘していないのに美里を襲うわけにはいかなくなったのだ。
「へえ、あのボウヤ……噂は本当だったんだ」
衣笠がつぶやいた。
「噂?」
敵同士であることも忘れ、美里は問いかけた。
「暴力団員二人と喧嘩して、相手をボコボコにしちゃったんだって」
信じられないような内容だった。
「主張があるなら暴力ではなく、言葉で戦え!」
見違えるほど凛々しくなっている川嶋が吠えた。
演説していた男性に近づくと、その彼が手にしていた拡声器を取り上げた。
「言いたいことを言ってみろ!」
みなに差し出すように、拡声器をかかげた。
佐川ジョーが、その拡声器をうけとった。すでに顔を覆っていたバンダナはなくなっている。
「こいつらは、日本への恩を忘れて、反日しやがる!」
ミンジュンが、その言葉に拒否感情をしめすように、拡声器を要求した。川嶋が、眼光で佐川をうながした。
「日本に恩なんかないね!」
片言の日本語でミンジュンは主張した。
また佐川が拡声器を奪う。その様子を見て、美里は二人の中間に入った。
「おまえの国が近代化できたのは、日本のおかげだろうが!」
佐川から拡声器をうけとり、それをミンジュンに渡した。拡声器の係が必要だと感じたのだ。両者の接触は、少ないほうがいい。
「それは自分たちのため! 日本人のためにインフラを整備しただけ!」
佐川へ。
「おまえらの半分以上が奴隷だったんだろ! しかも自国民を奴隷にしてたってのは、おまえの国だけみたいじゃねえか! それを解放してやったのは日本なんだ!」
しかし、その知識を佐川がもとからもっていたとは思えない。鳴橋が教えたものだろう。鳴橋の姿を確認してみたが、その発言には満足しているようにうなずいていた。
「日本人、本当の歴史、知らないだけ!」
「おまえらの歴史こそ、デタラメじゃねえか!」
「なに言うか! 歴史を知らいない民族に未来はない!」
「その言葉、そっくりそのまま返してやる!」
これ以上は、また乱闘になる。美里は拡声器を、どちらにも渡すのをやめた。
「そこまでだ!」
川嶋の判断も、美里に呼応したものだった。
「二人ともさがって!」
「まだ言いたいことは山ほどあるんだ!」
佐川のフラストレーションは解消されていないようだ。そしてそれは、相手のミンジュンも同じらしい。
「感情論をぶつけるのは、ただの言葉の暴力だ!」
川嶋は、つっぱねた。すっかり、たくましい男性に変わってしまった。
「ほかに言いたい人は?」
川嶋の迫力に、嫌韓グループも、反日グループも躊躇してしまった。毒気が抜かれたとは、このことだろうか。
「では、ぼくからいいですね?」
戸惑いながらも、川嶋に拡声器を渡した。
「今回の答え合わせをしましょうか」
川嶋が言った。彼の眼をみたら、すべてを悟っているような賢い光がやどっていた。強さだけではなく、頭の回転もあがっているようだ。
「まず発端となったのは、動画配信者である佐川ジョーさんが何者かに襲撃されたことでした」
佐川本人が、おれのことだ、というように自らを指さして、周囲の見物人にアピールしていた。大騒動となっているから、自然に野次馬も増えている。
「その犯人は、反日思想の強い韓国人なのでしょう」
「こいつらだ!」
佐川が、ミンジュンとキム・ユジュンに向け、指をさしなおした。
「ちがう、おれたち、やってない!」
二人の韓国人は、片言の日本語で必死に否定している。嘘とも思えなかった。
「あなたたちにはもう一人、親しい友人がいますよね?」
川嶋は、冷静に抗議をうけとめる。
「そう、あの人です。あの女性です」
もう一人の韓国人グループである女性の姿を、川嶋はみつけていた。
今日の騒乱のきっかけにもなっている。あの女性が騒ぎ出し、催涙弾のようなものが投げ入れられている。催涙弾はあの女性の仕業ではないだろうが、混乱の呼び水になったことはまちがいない。
「ここにいる佐川さんを襲ったのは、あなたですよね?」
言われた韓国人女性の眼が泳いでいた。
一見、日本語がわからないふうをよそおっているが、すくなくともいまの内容は理解しているはずだ。
二人の韓国人男性が、女性になにかを言った。女性は、首を横に振る。
激しい言葉の応酬があって、ついに女性は泣き崩れた。
「わたし、悪くない……悪いの日本人!」
むしろミンジュンより巧みな日本語で、女性は言い訳を口にしていた。
「どういうことだ!? おれをやったのは、この女だってのか!?」
当の佐川も驚いている。さすがに女性が犯人だったとは思っていなかったようだ。
それは美里にもあてはまる。いや、自分も衣笠に襲われているのだ。衣笠の場合は警察官だから、くらべるべきではないかもしれないが……。
その思考のままに、衣笠のことを見てしまった。男勝りな横顔を眼にしたら、ある考えが浮かんできた。
どうして、あの韓国人女性を一般人と決めつけてしまうのか。
「あなたですよね?」
川嶋が、念を押した。
「……わたしだとしたら、どうなのよ」
この場にいたみなが、え?、という顔になっていた。それまでの、片言のような日本語ではなくなっていた。
「あなたは、ただの観光客じゃない」
「では、なんだというの?」
「こういうことのために入り込んだんですよね?」
では、工作員?
あのオルゴールが思い浮かんだ。思わず女性から距離をとっていた。
「裏でなにがおこっているのか、ぼくではわかりません。ですが、あなたはだれかの命令をうけて、活動しているんでしょう」
「認めると思う?」
川嶋は、首を横に振った。
美里にもわかる。本当にどこかの工作員だとしたら、絶対に口を割らないだろう。
「ですから、ぼくのほうで勝手に話をすすめさせてもらいます」
川嶋は、二人の警察官に眼を向けていた。
「佐々木さん、岸さん、あなたがたも、同じようなものですよね?」
「え?」
美里は、その意味を理解できなかった。
「佐々木さんに嫌韓の思想があって、もともとそういう活動をしていたのかもしれない。そこで、眼をつけたんですよね?」
そう言って川嶋は、今度は衣笠のことを見ていた。
「公安は、佐々木さんをつかって、日韓の問題をエスカレートさせようとしていた。ちがいますか?」
衣笠は、答えない。
「岸さんも協力者に仕立てたんでしょう」
言われた岸が、うつむいていた。そのとおりのようだ。
「そして外務省も、その動きにのった……」
次いで、当麻に視線を移動していた。
「最初の絵は、それとも外務省のほうですか?」
当麻も衣笠も、その問いに応じようとしない。
「では、ぼくのほうで続けされてもらいますよ」
川嶋の語りは、まだまだ終わりではないようだ。
「新井さんが担当することになった落書きも、その活動の一環ですね? 韓国の店を狙って、佐々木さんにやらせた。もしくは、岸さんにもやらさせていたのかもしれない」
「おいおい、それについちゃ、いまだに信じられないんだがな」
言葉を挟んだのは、横山だった。混乱のさなか、どこにいるのかわからなくなっていたが、もどってきたようだ。
「警官に落書きさせるなら、もっと効果的な方法があるだろうに」
そういえば横山は、以前にもそんなことを言っていた。
「効果がありすぎるのも困るんですよ」
「どういうことだ?」
「あくまでも、優勢になるのは韓国側のほうでなければいけないんですから」
すべてを悟っているかのように、川嶋は言った。まるで名探偵だ。
「そうですよね?」
それは、当麻に向けたのだろうか、それとも衣笠だろうか?
「こっちは、筋書き通りに動いているだけだ」
答えたのは、当麻だった。
「こんなにゴタゴタしたのは、あっちの責任だ」
当麻は、衣笠に言っているらしい。
「どういうことですか?」
美里が言葉を挟んだ。
「公安の内情はよく知らないが、外事と三課だっけ?」
衣笠に確認したようだが、やはり彼女は反応しない。
「三課というのは、公安三課のことですね?」
「三課は、右翼の担当だったな?」
川嶋の言葉に、横山が続いた。
「三課と外事が、もめてるってことか? ありそうな、いざこざだ」
美里だけではなく、この場にいた人間が横山を見た。
「外事と国内担当では、進んでる方向がちがってる。公安の敵は、同じ公安のなかにあるんだよ」
その話からうける印象だと、一連の騒動は三課と外事の派閥に分かれているということだろうか。
「韓国側を有利にしたいっていうのも、そのへんのいざこざが関係しているってことなんだな?」
「どっちの思惑なのかは、わかりませんが……」
「まあ、性質的には、外事なんだろうな。それとも外事にひと泡吹かせたい三課のほうなのか」
二人の考察では、結局のところ正解にはいきつかないようだ。
混乱したままの美里の鼓膜に、サイレンの音が伝わった。
パトカーのものではないと思う。救急車でもない。この音は……。
「おれが消防に連絡した」
横山が言った。
「恥ずかしい話だが、本部の人間も、所轄も、警察はあてにならない。だから、消防に通報したんだ」
一瞬、これからどうするんだ、という空気が公園内に流れた。消防が大挙してきたら、暴動をおこしている場合ではない。
最初にだれが逃げ出したのか、美里の動体視力では判断できなかった。騒動をおこしていた人間たちが、蜘蛛の子を散らすように走り去っていく。
「どうしますか!?」
美里は川嶋に声をかけるが、彼も当惑している。さっきまでの切れる雰囲気は、すでになくなっていた。
「追いかけるのは、無理です……」
力なく、川嶋は言った。横山も同意見らしい。
「応援もなく、この人数では……」
警察官は二人で、美里を入れても三人。
「でもだれかは!」
だれか一人だけでも捕まえたほうが──と言おうとした途中で、何者かに手を引かれていた。
「え?」
「来い!」
手を引いていたのは、父の元同僚だという、あの謎の男だった。
「はなして!」
「ここは危険だ! 私を信じろ!」
一瞬だけ、謎の男の瞳をみつめた。
以前会ったときには、気づかなかった。
似ている……。
だれに?
「わたしに!?」
いつも鏡のなかにいる、自分の瞳だ。
力のままに、美里はついていった。
「新井さん!」
川嶋の声を背中に聞きながら、美里は走っていた。
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