第28話
『朝鮮人の設置する学校の経営は自らの負担によっておこなわれるべきで、国や地方自治体が運営資金を助成する必要はない』 日本政府による朝鮮人学校処置方針
28
どうして彼女は、走り去ってしまったのか……。
英吾は、呆然とした。
「川嶋!」
横山の声で、われに返った。
消防がやってきたので、その応対をしなければならない。
「怪我人は、どこですか!?」
といっても、園内に負傷者はいない。乱闘していた人間は、すでに全員が逃走していた。追いかけるべきなのはわかっていたが、二人では一人を追いかけるのが精一杯だ。そしてその気力も、新井が走り去ったことでなくなっていた。
「いえ、怪我人はいません」
消防車でやってきた隊員に、英吾は答えた。緊迫感が表情にはりついている。
「火災は発生していますか?」
「いえ、催涙弾が投げ込まれただけでした。もしかしたら、眼に異常のある方がいるかもしれません」
とはいえ、周囲の野次馬にそういう様子はない。消防隊員は、なんともいえない表情になっていた。
おそらく横山は、公園で火災が発生して、怪我人が出ている──と通報したのだろう。
「整理すると、火災もなくて、怪我人もいないんですね?」
「そういうことになります……」
「通報者は、あなたですか?」
「私です」
横山が警察手帳をかかげながら言った。
「緊急事態だったので、通報しました」
そう弁明されたら隊員としても、なにも言えなくなる。警察官の通報ならば、いたずらでないことは理解してくるはずだ。
あとから救急車も来たが、消防車とともに、すぐに帰っていった。
落ち着いた状況になって、黒い車列が到着した。
「捜査一課の横山巡査部長ですね?」
数人がおりてくると、代表した一人が声をかけてきた。
「あなたは?」
「公安部です」
やはり出てきたようだ。
「ここであった騒動については、すべてうちで片づけます」
どう解釈しても、なかったことにします、という宣言に聞こえた。
「ですから、あなたたちはお引き取りください」
「……」
「不服ですか? 必要でしたら、刑事部長から話がいくように調整しますが」
横山は、英吾の顔を見た。
「そちらは、新新宿署の川嶋巡査ですね。あなたのほうも、署長から指示がいくと思いますよ」
二人とも、それでなにも言えなくなった。
大久保公園を出て、横山は新署に向かい、英吾は機構事務所に急いだ。
「新井さん!?」
しかし、所内に新井の姿はなかった。渋谷もいない。事務職だと思われる女性がいるだけだった。
あの謎の男性についていってしまったのだ。
あれが、父親の同僚だったという男性なのだろうか。顔はよく見えなかった。
すぐに外へ出て、あてもないのにさがしてしまった。携帯にも出ない。公園にもどったが、すでに公安は撤収していた。というより、なにごともなかったような日常の風景しかなかった。
園内が封鎖されていることもないし、それらしいスーツ姿の人員も見当たらない。
うがった考え方をすれば、さきほどの公安は、英吾と横山を帰らせるためにやって来ただけなのかもしれない。
あの騒動は、なかったことにされた……。
公安外事と公安三課の争い。
それに外務省や、国外の機関の思惑もからまっているのだろう。
どうして、こんなことになってしまったのか……。
この嵐の中心には、どうやら新井がいるようだ。彼女の父親も関係している。
会って話を聞いてみたい……。
「ん?」
こちらを見ている男性がいた。
スーツ姿で、年齢は四十代後半から五十歳ぐらいだろうか。偶然、視線が合ったのではなく、意志をもって英吾を見ている。
まだ公安の捜査員が残っているのかと思ったが、そういう眼つきではなかった。親し気なやさしさがある。
予感があった。
いま一番会いたい人物が、むこうのほうからやって来てくれたのだ。
英吾は、自ら男性に近づいた。
男性のほうも立ち止まったまま、その場で待っていた。
「お父様、ですよね?」
さぐりながらだが、そう声をかけた。
表情は変わらず、しかし返事はない。
「新井さんが、謎の男といっしょに行ってしまいました。たぶん、あなたの同僚だったという男性です」
「……そのことは、心配する必要はありません」
ようやく、声が返ってきた。
「どうしてですか?」
「あの男は、敵ではない」
「では、味方なんですか?」
「それは、だれに対しての、という前提が必要だ」
「あなたには?」
「難しい関係だ」
「おたがいが、同じような活動をしているんですよね?」
遠回しに、工作員なんですか、ということを確かめた。が、反応はない。
「率直にお聞きします。あなたはいま、どこの命令で動いているんですか?」
「その質問には、答えられない」
立場として明言できない──そのような印象には聞こえなかった。
「どういう意味ですか?」
「そんなことより、きみには騒動を収束してもらいたい」
「なにをしろ、と?」
「元凶を摘発してもらいたい」
「元凶? だれのことですか?」
「みんなは、その人物に踊らされている」
「それは、だれなんですか?」
思い返せば、藤森や当麻も、その存在を匂わせていた。しかし、だれが黒幕なのかわからないようだった。
「あなたは、正体を知っているんですか?」
「私にもわからない。だが、きみたちにならわかるだろう」
新井の父親──らしき男性は、踵を返していた。
「ぼくにわかるとは、どういう意味ですか?」
「あの子の近くにいることは、まちがいない。近くにいれば、必ず顔を合わせているはずだ」
首だけをめぐらせて、父親は言った。
「その人物の目的は?」
「明確な目的があれば、すでに存在が明るみになっている」
「目的がない?」
「あるのかもしれないが、たとえば、どこかの国の利益のためとか、破壊活動のためとか、そういうのではないだろう」
「……」
新井の父親は、去っていた。
追いかけるべきは、彼ではない。
いまは一刻も早く、新井を保護するべきだ。
英吾の脳裏に、ある地名が浮かんだ。
三河島。
彼女は、謎の男にそこへ導かれている。謎の男の拠点が三河島だというのなら、そこで隠れているかもしれない。
電車をつかって、そこまで移動した。横山にだけ、そのことを連絡しておいた。
駅から外へ出た。人の数は、少ない。
が、歩道にいる二人組の姿が、すぐ眼についた。知っている二人だった。
急いで近づいた。
鳴橋忠司と、佐川ジョーだ。
「どうしてここに?」
まず、その言葉が口をついていた。
「指示された」
答えたのは、鳴橋だった。佐川のほうは、警戒した視線を向けている。
「だれからですか?」
「火病連合の人だと思う」
警察官の佐々木がメンバーになっている嫌韓グループだ。
「おい、なんでサツと親しく話してんだ?」
鳴橋は、佐川に事情を話していなかったらしい。
「指定されたのは、この場所ですか?」
「いや……料理屋みたいだけど、はじめて来たから場所がよくわからない」
それで迷っていたのだ。
携帯の画面をかかげていた。地図アプリでなく、メールで住所を送ってきたようだ。たしかに、土地勘がなければ到着するのは難しい。
「おれらを逮捕しにきたのか?」
「するかもしれませんが、いまはそれどころではありません」
「あ?」
佐川が、説明しろ、という眼を向けていたが、この男に教えるつもりはなかった。
「ぼくもそこに行きます」
「おい、つれてくと思ってんのか?」
「ジョージ!」
鳴橋が落ち着くようにと声を放った。
「もう住所を知ってるんだ。どうせ勝手に来るぞ」
「なんで見せたんだよ!」
「いいから、おまえは黙ってろ」
鳴橋の言葉には、怒りがこもっていた。
「こんなことに巻き込まれたのは、おまえのせいなんだからな!」
「……」
あの佐川が押し黙った。鳴橋としても、堪忍袋が──といったところだろう。
「とにかく、その店に行きましょう」
住所をたよりに、さがしていく。根拠はないが、そこに新井もいるのではないかという予感がしている。
「あ……」
思わず、声が出た。
二人組の男性が、同じように町をさまよっていた。
佐々木と岸だ。
二人のほうも、英吾を呆然と見ていた。同じ警察官同士でも、ちゃんとした会話をしたことはない。いや、佐々木とは交番で少し話をしたか……。
「お二人も、お店をさがしていますか?」
「……」
二人は答えない。しかし様子を見ていると、正解のようだ。
「たぶん、少し先です。いっしょに行きませんか?」
英吾は提案した。
他意がないか警戒している。
「いまは、はやく目的の場所に行くほうがいいと思います」
英吾としては新井が心配だから、とにかく急ぎたい。鳴橋や佐々木にしても、何者かの指示をうけているから、急ぎたいのは同じはずだ。
了解の言葉はなかったが、異論はないようだった。
佐々木と鳴橋たちはすでに接触済みだから、この二組がいがみ合うことはない。
英吾が先頭に立って、目的の店に向かった。
「ここのようです」
小さな店だ。しかし、営業をしているようには見えない。いま、ということではなく、すでに潰れている店ではないだろうか。
なかに入ろうと扉に手をかけたところで、べつの人物もやって来た。
韓国の二人組だ。女性だけはいない。
「てめえら!」
佐川が殴りかかりそうになった。
「やめましょう!」
佐川の前に立って、全力でそれを阻止する。
「ジョージ、落ち着け!」
鳴橋の協力もあり、なんとか再び暴動になるのを防いだ。
「佐々木さんと岸さんも、なにもしないでください!」
それから、韓国人グループのことも牽制する。
「暴力をふるった時点で逮捕します!」
「なにもしなければ、逮捕しないのか?」
韓国人グループのうち、男性のどちらかが言った。変装とまではいかないが、キャップをかぶっているので、どちらがミンジュンでキム・ユジュンなのかわからなくなっている。
暴動のときは岸と佐々木がかぶっていたのだが、いまでは彼らが人相を隠していることになる。
「いまはしません」
「あとでは?」
「それは、公安部の判断になります」
公園での暴動は、公安案件になっている。所轄署の刑事課レベルでは、どうなるか想像もできない。
「あなたたちも、ここに呼び出されたんですよね? なにが待ってるのか、はやく確かめましょう!」
その提案に双方から異論は出なかった。
扉を開けた。
造りは飲食店のそれだが、なかはもぬけの殻だった。やはり営業をやめて、かなりの時間が経っているようだ。
奥に続いている。
英吾が先頭に立って、進んでいく。
だれかの姿があった。
まず、知らない男性が見えた。おそらく、彼女を連れ去った謎の男だ。その横に、女性がいた。新井だった。英吾は、ほっと胸をなでおろした。
「新井さん!」
「……」
しかし彼女は無言だ。どこか緊張した表情をしている。
立っている二人以外にも、イスに座っている人物もいた。新井は、その人物のために固い表情になっているのかもしれない。
そのイスの人物は、拘束されていた。縛りつけられている。
そういえば、どこかで会ったことがある。
そうだ。新井とはじめて会った日に、知り合った男性だ。パルガッタの情報をくれた二人組の一人……。
リーゼントカットで、日本語が堪能だったほう──たしか、在日だったと話していたはずだ。
「これは、いったい……」
思わず声がこぼれた。異様なシチュエーションだ。まだ、新井が囚われているほうが理解できる。
「……」
新井は、謎の男に視線を移した。
「この彼を餌につかった」
冷たい声が流れた。
「餌?」
「もうじき、黒幕が来るだろう」
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