第29話
『日本全国が百済の属国になっていたことは、疑いの余地はない』
29
謎の男は、駅に向かっていた。
「ど、どこに?」
走りながら、美里は答えを求めた。
「あそこへいく」
手を放してくれたのは、新大久保駅のホームに入ってからだった。
「あそこ?」
「来ればわかる」
電車を乗り継いで到着したのは、三河島駅だった。
また、この町……。
かつて美里が住んでいた場所であり、父とこの男が工作員として暗躍していた町だ。
「ここでなにを?」
「準備は終えてある」
駅を出て、さらに歩いた。
どこをどう行ったのか、たどりついたのは一軒の店だった。いや、いまでは潰れているのではないだろうか。
すでに土地勘はないようなものなので、三河島でもどのあたりになるのかわからない。一人で帰れといわれても、駅までもどれるか自信はない。
扉を開けた。鍵はかけていなかったようだ。
「ここは?」
店としての機能は、すでに失われていた。
男は無言で、奥へ進んでいく。
「え?」
だれかがイスに座っていた。
ちがう。拘束されているのだ。
「だれ?」
知っている男性だった。
パルガッタのことを教えてくれた韓国人二人組のうちの一人だ。
この男性については、美里についての噂を流した疑惑があるのだった。
「どういうことですか?」
「この男は、後輩になる」
「後輩?」
まさか……。
「工作員?」
この男性は、パルガッタを「赤」だと強調していた。いまならば、少しは理解できる。思想を色で表現する場合、共産主義や独裁国家を「赤」であらわすことが多い。北朝鮮の介入を示唆していたのかもしれない。
「情報院だ」
「それって……韓国の?」
「だが、こいつを操ってるのは、ちがう」
「だれだというんですか?」
それとも、どこ、と表現したほうがいいのだろうか?
やはり、北朝鮮の影を感じてしまう。
「その人物をXとしよう」
仮定の名前だとしても陳腐に感じた。いや、そんなことはどうでもいい。
「そのXというのは、だれなんですか?」
口に出したあと、すぐに理解した。
この男にもわからないのだ。そしてそれは、この男だけではない。藤森や当麻、もしかしたら外務省の情報統括官組織だけではなく、公安や韓国の情報機関にもわかっていないのだ。
だからこそ、こんなに事態が迷走している……。
「察しのとおり、Xはだれだかわかっていない。数年前から、この国で暗躍している」
「テロリスト?」
「そういう存在なら、公安なり、べつの機関なりが特定しているだろう」
「じゃあ、どんな目的があるんですか?」
「それすらわからない」
「……」
この話を聞いて、だれもが思うであろう疑問が頭に浮かんだ。
「そんな人間……存在しないんじゃないですか?」
「まちがいなく存在はしている。君にも、その影が近づいているはずだ。心たりがあるだろう?」
あのオルゴール……。
「Xは、この国に不安を植えつけている。そしてこの国の不安は、同盟国であるアメリカや韓国に広がる」
その発言のあとに、韓国とアメリカは同盟でも、韓国と日本は同盟関係ではないのだが──と、つけたしていた。韓国の前大統領が、そのような発言をしたことは美里も知っていた。
「想像もされてないんですか?」
Xの肩書や背景に、なにがあるのか……。
「北とのコネクションがある私の耳にも入らない」
それがどういうことなのか、わかるか?
男の眼が、そう問いかけていた。
美里は、首を振った。
「古い表現になるが、東側の国家でもないということだ」
「北の工作員ではないと?」
「北や中国、ロシアではない。いや、もとはそうなのかもしれないが、国家との鎖は切れているだろう」
「まさか……父ですか?」
恐ろしい想像を、そのまま口にした。
「どうなんだろうな……」
男は、曖昧に答えた。疑っているのだ。
「だが、それは私も同じだ。ほかのだれかは、私のことを疑っているだろう」
「今回の騒動は……そういうことなんですか?」
疑心暗鬼。
各機関の諜報員、工作員が、おたがいに疑りあっている。
「この人は、そのXにつながってるんですか?」
「そうだ」
捕らえられている男性は無言だ。身体の自由は奪われているが、猿轡はされていない。
「口は割らないだろう。だが、こいつの携帯から、Xに連絡をとった」
「Xが、ここに来るんですか?」
「簡単には来ない。だから、べつの人間も呼び寄せた」
「だれを?」
「今回のことに関わった人間たちだ」
「……それでXは、おびき寄せられるんですか?」
「敵も味方も一堂に会せば、気が変わるかもしれない」
「罠だと警戒しないですか?」
「逆だよ。罠だからこそ、来るんだ。しかも関係者が集えば、やつも目的が達成しやすくなるだろう」
目的もわからないのに?
そう問いかけたくなったが、やめておいた。彼らの常識など、どうやっても理解できないのだから。
「……父が来るかもしれないんですよね?」
その覚悟はしておかなければならない。
「……」
男は答えてくれなかった。
かまわずに、べつの質問をぶつけた。
「……あなたも、血のつながりがありますよね? わたしと──」
似ている。自分とも、父とも。
「父の兄弟ですか?」
「……」
これにも答えてくれなかった。
そして、一時間ほど経過しただろうか。
室内に変化はなく、美里も謎の男も無言で立っていた。拘束された韓国人男性も、無言のまま……まるで時間が止まっているかのようだった。
外から話し声がする。
やって来たようだ。ドアを開けた物音。
慎重に奥まで進んできたのは、想像以上の大所帯だった。
──こうして、川嶋とは再会することができたのだ。ほかには、鳴橋忠司と佐川ジョー、そして警察官の二人。それらと敵対しているはずの韓国人二人組。計七名が──美里と謎の男性、捕らえらえている韓国人男性を合わせて、計十名がここに集ったことになる。
なにもない空間ではあるが、これだけの人数だと狭く感じる。
「この彼について、ちゃんと説明してください。黒幕というのは、だれなんですか?」
川嶋の問いかけに、謎の男は答えない。答えようにも、この男にも黒幕はわかっていないのだ。
それを説明したかったが、美里の頭のなかも、まだ整理されていない。
「正体は、だれも知らないみたいです。この男性だけが、その人物につながっていると……」
「この人は……このあいだの人ですよね?」
「はい、パルガッタのことを教えてくれた……」
「どうして……」
当然の疑問だ。
「この人は、わたしの噂を……」
美里は、途中で言うのをやめた。どこまで話せばいいのか……。
川嶋一人ならいいが、ほかの人間に聞かれるのは、やはり抵抗がある。
「もう少しまて」
謎の男が言った。川嶋も、ほかの六人も、それに反論することができない。みな、なにがおころうとしているのか理解していないからだ。
「では、これだけは教えてください。黒幕というのは、なにをしたんですか? それとも、これからなにかしようとしているんですか?」
「なにかはしている」
謎の男は、そんな答え方をした。
それすらわかっていないことを、川嶋も悟ったはずだ。
「あら、おそろいのようね」
いつのまにか、その女性は室内に入り込んでいた。
衣笠という公安の女性だ。美里を襲ったこともある凶暴な人物。
「あなたが……?」
しかし、Xではなかったようだ。
「わたしに招待状を出したのは、だれかなぁ?」
おどけたような表情と仕草が、むしろ不気味さを感じた。魔女が笑ったときのような。
「どうして、わたしの携帯に送れたのかなぁ?」
公安の携帯アドレスを知るのは、容易ではないはずだ。それだけではない。よくよく考えれば、美里以外のアドレスを知っていたことになる。
謎の男を見ても、もちろんなにも教えてくれない。
「だれなの?」
衣笠は、恐ろしいものを抜いていた。
こうして間近で眼にするのは、はじめてだ。
拳銃。
「あなたは、だれ? わたしが知らないのは、あなたとそこの捕まってるボウヤだけ」
銃口が謎の男に向いていた。
「でも、どこかで見たことがある……」
「公安も、さがしているのは一人だけだろう?」
謎の男は言った。
「わたしは、下っ端。なんのために動いてるのかも知る立場じゃない。この子を襲ったのだって、ただの命令だから。恨まないでね」
そう一瞬だけ、美里に視線をおくった。
「そうか、この子に似てるんだ……」
衣笠は、微笑んだ。
「わかった、ここに呼び出したことは許してあげる。そのかわり、無駄足はごめんだからね」
独り言のように語ったあと、つけたした。
「あ、そうそう、ここに来るときに、ひろったのよ」
出入口のほうにもどると、衣笠はだれかを引きづるようにつれてきた。
もう一人の韓国人──佐川ジョーを襲ったという女性だ。意識がないようだ。
「生きてるから安心して」
「なにをしたんですか!」
川嶋が強く言ったが、衣笠はどこ吹く風だ。
「抵抗するからよ。怪我はしてないでしょ?」
具合を確認した川嶋が、美里に向かってうなずいた。
「これで脇役はそろったということかしら?」
つまり、あとは主役を待つだけだ、と衣笠は言いたいらしい。
「Xは、どこの勢力の味方をしてるんですか? それもわからないんですか?」
美里は、謎の男に質問した。
「X?」
その声は衣笠のものだったが、川嶋をはじめ、ほかも疑問符を表情に浮かばせていた。
「なるほど、黒幕をそう呼ぶのね? センスはないけど、いいでしょう」
いつのまにか、衣笠がこの場を仕切ろうとしていた。
「うちのホウヤが、外事とわたしたちの内紛を言い当てたけど」
うちのボウヤとは、川嶋を指しているようだ。かつて同じ署に勤務していたからだろうか。
「わたしたちのほうには、そんな黒幕はいない」
公安の国内担当と外事の争いが関係しているという。彼女は国内のほうだから、そちらではないということは……外事のほうに?
「そっちの彼たちは、どっちの命令をうけてるの? わたしの勘では、べつべつに指示をうけてるんじゃない?」
佐々木と岸に向かって言ったようだ。
「わかりづらいな。そうね、左右に分かれましょう。わたしの側は、こっち」
だが、だれも動こうとしない。
「ほら、分かれる!」
銃を振りかざしていた。
しぶしぶ、といった感じで、岸が衣笠の近くに寄った。
「そうだったの、うちの仕込みがボウヤなの」
おどけたように岸のことを抱きしめていた。この女性にとって、年下の男性はみな「ボウヤ」になってしまうらしい。
それにしても、岸が仲間だったことを本当に知らなかったのだろうか? 自らのことを下っ端と卑下するのには理由があったのだ。
佐々木が少し離れたところに立ち、佐川と鳴橋も、迷いながらも佐々木の側に行った。
韓国人男性二人は、動くことはできないようだ。
「たぶん韓国のボウヤたちは、そっちだわ」
外事側ということになる。
「あと、動画の二人はこっちだわ」
言われたほうは、首をかしげていた。
「あなたたちは、むしろ巻き込まれただけなのよ。立場でいえば、わたしの側よ」
鳴橋と佐川の二人も、指示されるままに移動する。この空間は、衣笠劇場と化していた。
「じゃあ、あなたたちの番ね」
次は、美里と川嶋を分けようとしている。
「わたしは、どちらでもない……」
「いいえ、後輩のボウヤは、そうかもしれないけど、お嬢ちゃんはむこうよ」
外事のほうだと衣笠は言う。
そういえば、彼女は美里のことを敵と呼んでいるのだ。
「いっとくけど、わたしはお嬢ちゃんのことは、ほとんど知らない。なにも聞かされてない。でも、うっすらと噂ぐらいは耳にしてるの」
「なんですか……?」
「むこうは、お嬢ちゃんをスカウトする気だって」
「……」
美里は、なにも言い返せない。
「だから、新井さんを襲ったということですか?」
川嶋が訊いてくれた。
「そうなんじゃない? わたしは、そう解釈してるけど」
だから敵なのだ。
外事側に動いて、と衣笠の視線が告げていた。
美里は、仕方なくそれに従った。
「で、Xとやらは、この双方で殺し合いをさせたいのかしら?」
衣笠側には、鳴橋、佐川、岸がいて、反対側には、美里、佐々木、韓国人男性二人がいる。
「この子も、そっちなんでしょうね」
まだ韓国人女性は意識を取り戻していない。
「この人の名前は?」
「ソヨン」
短く答えがあった。
「ソヨンさん?」
呼びかけても、やはり返事はない。心配になった。
「だから意識がないだけだって。すぐにもどる」
些細なことを話すように、衣笠が言った。
「その子は、外事の犬なんでしょうね。もともと、どこかの国で訓練をうけているのか、それとも外事がSに仕込んだのか」
「ソヨンさんは外事の命令で、佐川さんを襲ったというんですか?」
「それ以外、なにがあるのよ」
「その外事というのは、だれなんですか?」
「さあね。表立って動いてはいないんじゃないのかしら?」
う、という声がした。どうやら意識を取り戻したようだ。しばらく、状況を理解できていないようだった。
すぐに、ハッとしたように起き上がった。警戒するように周囲を観察している。韓国語で、仲間である韓国男性二人に話しかけていた。
「ねえ、ついでだから外事の連中について聞いてみてよ。まあ、日本語はペラペラのようだけど」
この場の中心にいる衣笠に逆らおうとする人間はいなかった。キム・ユジュンがたずねている。
「なんだって?」
「知らないって……」
なんのことだかわかっていないような表情をしていた。
「どぼけてるわけじゃないみたいね」
では、韓国人女性──ソヨンを動かしているのは、公安の外事ではないということだろうか?
「彼女は、韓国左派の指示に従っていると信じている」
また新たなる訪問者が部屋に入ってきた。
当麻だった。
「あなたは、さっきもいたわね?」
「当麻さん……外務省です」
言ったのは、川嶋だった。
「まさかとは思いますけど……あなたがXですか?」
川嶋のストレートな問いかけで、そのことが盲点となっていたと美里は自覚した。答えが返ってくるまでの数秒間を、固唾をのんで見守った。
「X? よくわからんが、おれじゃない」
「あやしいわね。X本人が素直に認めるわけがない」
声音は涼しげなのに、迫力のこもっている衣笠の言葉だった。
「この子をつかって、カオスを演出したんじゃないの?」
「彼女を操っていたのは、あんたの仲間だろう? こっちは公安の要請で、逃走のお膳立てをしただけだ」
「仲間じゃない。仕掛けたのは、外事でしょ?」
「内も外も、公安は公安だろう」
思い当たることがあったのか、衣笠の声量が小さくなった。
「……そうえいば、情報統括なんとかってセクションが動てるってことだったわね。うちにも通達があった」
「こっちは、そっちのオーダーどおりに動いているだけだ」
「そう……結局、わたしのような下っ端じゃ、大きな絵は見れないってことね」
自虐的に衣笠は言った。
「当麻さんは、どうしてここに? メールで呼び出されたんですか?」
たずねたのは、川嶋だった。
「それもある。彼女もマークしていたからな」
当麻もXではない。父親がXである可能性が、さらに高まった。
「……結局、外の人は、だれだかわからないんですよね?」
「そういうことになるわね」
外側──つまり公安の外事がいっさい姿を現していないのは、おかしくないだろうか?
その人物が、Xでは?
その思いを声にのせた。
「いや、ちがう」
答えたのは衣笠でも当麻でもなく、謎の男だった。
「Xは、どこにも所属していない。というよりも、どの立場でもない人間だ」
「でも外事側のエージェントがいるわけですよね?」
謎の男が、いまここにいる一同を見回すように視線をはしらせた。少しおくれて、衣笠も似たような眼の動きをした。
「このなかに?」
Xではないが、公安外事の人間がこのなかにいる……。
「どうする? Xのまえに、そいつをあぶりだす?」
衣笠がそんなことを言い出した。
「待ってください」
川嶋が異論をとなえた。
「その外事の人も、目的はぼくたちと同じですよね?」
いまこの場で重要な目的は、Xをつきとめることだ。
「でしたら、Xを待ちましょう」
本当に来るのなら、だが。
来ると信じて待つしかないのだろう。
美里は、出入口のほうに瞳を向けた。
なぜだか、予感があった。
『どうやら、私に会いたいようですね』
声だけがした。
「Xか?」
その声は、佐川ジョーだった。
『そう呼びたければ、どうぞ』
「はやく出てこい!」
『表に出るつもりはないのですがね』
「いいから、出てこい!」
『そこにいる、みなさん全員の意見ですか?』
「あたりまえだろ!」
『ですが、会いたくない方もいるみたいですよ』
みんなの視線が、美里に集まった。それだけ愕然とした顔をしていたのだろう。
川嶋の顔も、険しさをもって美里のことをみつめていた。
知っている声なのだ。
よく知っている人物──。
「ど、どういう……」
どういうことなんですか?
その言葉が出てこない。
足音がゆっくりと近づいてくる。部屋に入ってきたのは、やはり──。
韓国文化の専門家で、さらに中国の大学にも留学経験がある。
Xの素養は、充分ではないか。
「どうして、あなたが……」
「それが答えなのだから、弁解のしようがありません」
その人物は、Xであることを認めた。
同僚であるはずの、渋谷だった。
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