第30話
『西洋人が朝鮮に来れば、朝鮮人を殺したくなるか、自殺したくなるかのどちらかだ』 ジャック・ロンドン
30
現れた男性は、英吾も知っている人物だった。
渋谷。下の名前は知らない。新井と同じ職場にいる。ヘイトクライム対策機構の職員だ。
これは、どういうことなのか?
新井は混乱しているようで、冷静な問答をできそうにない。
「渋谷さん……ですよね? どうしてあなたが、ここに? あなたが、Xですか?」
慎重に英吾が質問をつむいでいく。
なにかまちがった対応をとれば、すぐにでも逃げ出してしまうのではないかという危うさがある。
「Xと仮定して、話を進めてもらってもかまいませんよ」
それは、認めたということなのか……。
「あなたの目的は、なんですか?」
「目的?」
渋谷は、無邪気な表情をしていた。
「目的が必要なんですか?」
心から不思議がっているようだ。
「まさか……愉快犯、なんてことはないですよね?」
英吾は、不吉なものを感じながら問いかけた。
「愉快犯とは、物騒ですね。ぼくは、なにか犯罪行為をおかしましたか?」
おかしていない。日本にはスパイ防止法はないし、かりにあったとしても、どこかの国家や組織にも属していないのなら、スパイ防止法はあてはまらない。
それに、なにをやったのかもさだかではないようだ。もしなにかしらの犯罪行為をおかしたのだとしても、これまで公安や諜報機関が尻尾すらつかむことのできない存在だったのだ。証拠など残してはいないだろう。
「ぼくのことを、みなさんがさがしていることは気づいていましたよ」
「……機構に入ったのは、なぜですか?」
しばらく言葉を失っていた新井が、どうにか声を絞り出していた。
「求人していたから応募しただけですよ」
「意図したものではない……と?」
英吾が引き継いだ。
「ぼくを陰謀の徒だとでも考えているのですか?」
すくなくとも、各機関はそう考えている。
「みなさんの悪いところは、すべてを疑ってかかるところですよ。だから、混乱する」
まるで、そちらが悪いんだ──そう言っているようなものだ。
「あなたは、なにもしていないというのですか?」
「それは微妙な質問です」
渋谷は、椅子に囚われている男性に眼をやった。
「その彼を放してあげてください。なにも話さなかったでしょう? あたりまえです。なにも知らないのですから」
「このボウヤとの関係は?」
めずらしく、それまで黙っていた衣笠が訊いた。
「彼は私のことを、国家安全部だと信じています」
国家安全部というのは、中国の公安のようなものだったはずだ。
「韓国人の彼が、どうして?」
たしかこの男性は、日本で育ったはずだ。数年間、韓国で暮らして、もどってきたばかりだったと、あのときに話していた。
「彼は、左派というやつですよ。親中反日です。日本で育ったのに、と不思議でしょうね。ですが、だからこそ日本が嫌いなんです」
そして、中国のエージェントだと信じていたこの男に取り込まれた……。
男性は、渋谷のことを不思議そうな顔で見ていた。日本語は堪能──というより、韓国語よりうまいだろうから、意味は通じているはずだ。
いまでも信じられないということだろうか?
すぐに予想を変えた。
渋谷の言っていることが、まったくちがうのかもしれない。各機関が警戒するほどの人物だ。まともに信じてはいけない。
とにかく嘘と話術で、囚われているこの男性を、自分の駒としたのだ。
謎の男が、拘束を解いた。
「きみは、消えなさい」
渋谷が言うと、静かに従った。
部屋を出ていった。
「……」
だれもが無言で、それを見ていただけだ。
「さあ、みなさんの願望どおり、ぼくは姿を現しましたよ」
ここで英吾は、肝心なことを考えていなかったと気づいた。
Xの正体がわかっとして、なにをしようというのか。いや、犯罪行為の立件は、さきにのべたように難しい。
公安の衣笠。
北と韓国の二重スパイだという謎の男。
外務省の当麻。
彼らは、Xの正体を知って、どう動くというのだろう?
英吾は、これまでとはちがう緊張に支配された。
Xのことを絶対的な敵として認識してしまっていた。こうして姿をさらしたあとは、逆のことを想定しなければならない。
みんなから距離をとった。
といっても大勢いる室内だから、だれからも近い位置だ。
「どうしたの?」
衣笠に、意図を見抜かれた。
このなかに、Xを排除したいと考える人間がいても不思議ではない。
いや、その可能性が高い。
そもそも、ここで罠をはった謎の男は、そのつもりだったはずだ。
とくに注意すべきは、謎の男と衣笠だ。
当麻は?
いや、もう一つの懸念材料もある。このなかに、公安外事の人間がまじっていたら……。
英吾は、渋谷の前に立った。
「……ここでなにかをしようとしたら、ぼくは逮捕しますよ」
なにか、を細かく言及する勇気はない。
「あら、抵抗できるのかしら?」
衣笠の拳銃が、英吾に向いた。
「公安の任務でも、許しません! 刑事課として絶対に阻止します!」
拳銃に対抗するには、先制攻撃しかない。撃たれるまえに、確保する。
一歩目を踏み出そうと覚悟を決めた。
しかし、スッと銃口がおりていた。
「Xを殺すわけないじゃない。よくわからないけど、わたしたちは、この男の正体をつきとめるために動かされていたわけでしょ? だったら彼を捕まえて、点数稼ぎにつかせてもらう。これを持ってるわたしに、抵抗する人はいないわよね?」
ジリッと、衣笠が距離をつめてきた。
「ものは相談なんだけど……」
それまでよりも愉快そうな笑みが浮いていた。どうやら、渋谷に話をもちかけようとしているようだ。
「わたしと組まない?」
とんでもないことを言い出した。
「ふふ、組む?」
「ええ。わたしのSになってよ」
「……」
渋谷の表情を振り返って確認した。値踏みするような視線を想像していたが、そうではなかった。衣笠と同じように、最高の娯楽を前にしたような喜悦を感じさせた。
混ぜるな危険、という言葉が頭に浮かんだ。
「やめましょう」
英吾は口にした。
「なぜ、ボウヤにそんなこと言われなくちゃならないの?」
そのとおりだ。英吾の立場で、それを阻む権限はない。しかし、全力で食い止めなければならないことも本能でわかる。
「渋谷さん……この状況をわかっていますか?」
英吾は、念のため確かめた。
「はい。楽しんでますよ」
やはり、理解していない。いや、理解したうえで、こうなのだ。タチが悪いのを通り越している。
「あなたは、どうするつもりですか?」
一番危険だと思われる謎の男に問いかけた。
答えてくれない。
「当麻さんは?」
「おれたちは、これ以上、踏み込むつもりはない。もともと公安の要請なんだ」
おれたち──のなかには、藤森も入っているのだろう。
謎の男と、このなかに潜んでいるかもしれない外事の人間が危険人物ということになる。
「渋谷さん、ここを出ましょう」
英吾は、新井に目配せした。
彼女もここに置いておくべきではない。三人で、ここを出る。そのあとのことは、ここを出てから決めればいい。
だが新井は、ためらっていた。
「新井さん!」
彼女の気がかりが、謎の男にあるのは予想できた。こうして対面していると、謎の男はある人物に似ているのだ。
新井の父親。
そして、目元が新井自身にも似ている。
つまり二人は、血縁関係にあるのではないか……。
強引にでも腕を引いて逃げ出そうと考えていたさなかに、遠くからサイレンの音が響いてきた。
警察車両が、この場所に近づいている。
みなの視線が英吾を見ていた。
「ぼくじゃありません」
弁解の必要はないはずだが、本当に英吾が通報したわけではない。
だれだ?
このなかで、自分以外に一番まともなのは新井だ。だが、それは考えづらい。彼女は、ずっと謎の男といっしょにいたはずだ。そんな時間はなかったと思われる。謎の男が、通報を許可したならべつだが。
いや、そうだったとしても、一番最初にここへ到着していた彼女が通報していたとすれば、もっとはやく警察はやって来ただろう。
では?
一同を見回したが、それらしい人物はいない。一番最後に到着したのは当麻になるから、その可能性はある。が、それだとしっくりこない。
答えが出ないままに、扉の開く音がした。
警察官が、なだれこんできた。
「警察だ!」
先陣を切っていたのは、横山の相棒だ。広田という名前だったはずだ。そのすぐ後ろには横山もいる。
「横山さん……どうしてこの場所が? 通報があったんですか?」
「川嶋……おまえらのことだったのか」
横山の話によれば、逃亡中の犯人がここに潜伏していると情報が入ったのだという。
「逃亡中の犯人?」
英吾は、室内の佐川や韓国人たちを見てしまった。
「いやいや、その件じゃない」
「横山さんは、べつの事件も担当していたんですか?」
「あ、いや、おまえの署でもう一つ事件を抱えてるだろ?」
三人の死者を出した通り魔殺人事件の帳場がたっている。
「どれぐらい信憑性があるかわからないから、こっちの捜査本部から人を出すことになったんだよ」
こちらの事件は縮小されているからだろうか?
「それがなんだよ、おまえらかよ……」
「横山さん、彼らを確保しましょう。通報があったんですから、署で話だけでも聞くべきです!」
広田のほうが主張した。二人以外にも、多くの人員が入り口を固めている。ほかに出入口はないから、だれも逃げられない。
「抵抗するな!」
だれも抵抗する素振りはなかったのに、広田は拳銃を抜いた。
「なんなのよ!」
衣笠が愚痴のように声をあげた。
「おまえ、拳銃を持っているな!」
すでに衣笠は拳銃を隠していたが、彼は断言した。だが事前に衣笠のことは知っていただろうから、拳銃を所持していることは想像できるはずだ。
「それをみせろ!」
強い口調で命じた。
「……これでいい?」
ゆっくりとした動作で、衣笠が拳銃を出した。
「抵抗するな!」
なにを思ったか、広田が厳しい声をともに発砲していた。
室内が大音響に包まれる。
混乱にのみこまれた。
衣笠は、数人の捜査員に取り押さえられ、ほかの人間も似たように身柄を確保された。英吾も例外ではない。
なにがおこったのか冷静に判断できる者はいなかった。
弾がだれかに当たったのか、みなが無事なのかも確認できない。
引っぱりだされるように、建物から外に連行された。
「横山さん!」
英吾は必死に呼びかけるが、たくさんの捜査員に囲まれて、横山の姿をみつけることもできなかった。
車に押し込まれた。警察車両で向かったのは、足立区の警察署だった。英吾もかつては足立区の署にいたことがある。そことはべつだが、応援で来たことのある場所だった。
連行される人間が多いから、ここに分散したということだろうか。
取調室で待たされた。こうして容疑者サイドに座ったことはない。とはいえ、逆側も一度だけしかないのだが。
三十分ほど、一人だけの時間が続いた。扉の外にはだれかいるのだろうが、本当にここでほったらかしにされているのではないかと心配になった。
ようやく入室してきたのは、四十代ほど男性だった。きっちりと横分けにしている。
しかし、なにも言わずに座っているだけだった。記録係はいない。
「あの……」
五分ほど無言だったので、さすがに英吾のほうから話しかけた。
横分けの取調官は、手をかかげて英吾の発言を止めた。だからといって、自分からなにかを言うつもりはないようだ。
取調官は、しきりに腕時計を見ている。時間を気にしているのか、それともほかにすることがないので視線を落としているだけなのか……。
どちらであったとしても、矛盾に満ちている。時間に迫られているのだとしたら、ちゃんと取り調べをはじめているはずだし、やることがないというのなら、やはり取り調べをはじめればいいのだ。
「これで終わります」
話しはじめたと思ったら、終了を宣言するものだった。
「あの……」
「もう帰ってもらって結構ですよ」
「なんの時間だったんですか?」
「知る必要のないことです」
「あなたの部署は、どこですか?」
そうだった。現場には横山たちが来たので捜査一課──刑事部が取り調べるものだろうと考えていた。だがこれは、公安案件という側面もあるのだ。
「どこであってもいいじゃないですか」
「どうしてですか? この時間は、なんだったんですか?」
「私は失礼します」
答えずに取調官は立ち上がっていた。
一人とり残されて、英吾にもある予想が浮かんだ。
時間かせぎ。
そういうことか……。
警察署を出た。没収されていた携帯を確認した。新井から何度も着信があった。折り返す。
「新井さん? いまどこですか?」
すぐに合流することになった。彼女は新署で聴取をうけていたそうで、これから機構で会うことにした。
足立区の警察署から、機構までは一時間ほどかかっただろうか。道中、頭が回らなかった。
「新井さん……」
機構内で、新井は待っていた。すでに夜となっている。ほかに人はいない。当然といっていいのか、渋谷の姿もない。
「川嶋さん……」
しばらく、二人とも言葉が出てこなかった。
「……どんな取り調べをうけましたか?」
「とくには……」
どうやら、同じような聴取だったらしい。
やはり時間かせぎだったのか……。
では、なにから時間をかせぐ必要があったのか?
渋谷を逃がす──いや、あそこにいた何人かを逃がすためだ。
仲間である衣笠をはじめとして、公安の思惑で動いていた人間たち。守るためだけではなく、敵側も取り込むため。
「これから、どうなるんですか?」
「わかりません……」
しかし、渋谷がもうここにはもどらないだろうことはわかる。
「でも、わかったこともあります」
「なんですか?」
渋谷のことではない。あえてそれを言わなくても、彼女にだって予想はできるはずだ。
「外事の人間が、だれなのか」
「……」
新井の表情が曇った。
これについても、想像ができていたようだ。
「どちらかですよね?」
「はい。両方かもしれない」
沈黙が一分ほど支配した。
「確認してみますか?」
「……川嶋さんにお任せします」
「それなら、行きましょう。まだ間に合うかもしれない」
二人は、新署に急いだ。
捜査本部に入ると、捜査員たちが帰り支度をはじめていた。
横山がいた。
「おう、川嶋。ごらんのとおり、本部は解散だ」
「横山さんは、本当に捜査一課なんですか?」
「おかしなことを聞くな」
「本当は、公安に所属しているんじゃないですか?」
「もしそうなら、撤収はしないだろう?」
その言葉の意味は、一連の捜査を公安が引き継いだということだ。そしておそらく、これ以上は捜査されない。
「広田さんの方は?」
「あいつか……」
横山は、憂いのこもった視線をさまよわせた。
「あの人は、捜査一課なんですか?」
「その質問は、おかしなものだ。おまえさんは、いつも単独で動いているからよくわからんのだな」
「?」
「一課の人間がこうして捜査本部に入るとき、いっしょに組むのは、同じ一課の人間じゃない。所轄の人間と組むんだよ。本店の人間では、地理にくわしくないだろう?」
「それって……」
「おれのほうから質問しよう。あいつは、ここの人間か?」
「いえ……」
英吾は、力なく答えた。これまであの広田を捜査一課の人間であると思い込んでいた。
「そうか……やっぱり、あいつは」
横山は、ため息のように言葉をもらした。
「川嶋さん……」
新井が説明を求めていた。
「あの人が、外事の人間だったんですよ」
「横山さんの相棒が?」
「彼はあのとき、衣笠さんにむけて発砲しました。衣笠さんは、拳銃をかまえていなかったのに」
「……」
もう英吾たちの前に現れることはないだろう。いや……。
英吾は、考えをあらためた。
新井の顔を見た。
彼女がいまのポジションにいるかぎり、再び彼らは姿をあらわすのかもしれない。
その「彼ら」のなかには、公安だけではなく、今回のヘイト案件にかかわってきた人間たち──すべてがふくまれている。
謎の男や、彼女の父親、そして渋谷も……。
「川嶋さん?」
「ぼくのほうは未解決になりそうですけど、新井さんのほうは解決させましょうか」
英吾がなにを言っているのか、彼女は理解していないようだった。
「明日、あの食堂で会いましょう」
エピローグ
翌朝、韓国料理店の落書きを、川嶋とともにきれいにおとした。
晴れやかな気分にはなれなかったが、とりあえずケジメだけはつけなければならない。
「ごめんね。わたしのほうでも、おとそうとしたんだけど」
女性店主は、明るい表情だった。犯人はみつからなかったけど、落書きはもうされないと思います──と、彼女には告げてあった。
なんとも曖昧な言動だと反省していた。
が、女性はこころよくそれを受け入れてくれた……。
落書きの犯人は、佐々木か岸のどちらかなのだが、結局それはわからずじまいだった。あの二人の警察官は、昨日付で自主退職しているという。昨夜、川嶋がその報告をうけて、だからこれ以上は詮索するな、と上司から注意されたそうだ。
美里のほうも、渋谷が退職したということを今朝になって知った。藤森からの連絡だったが、それ以上はなにも言われなかった。まるで、何事もなかったような対応だ。
「ありがとう、とってもきれいになったわ」
女性店主は大喜びしてくれた。
「いえ……これぐらいしかできることはありませんから」
本当にそうなのだ。
「あなたも、ありがとね」
川嶋も、照れたように笑顔をみせていた。
すでにインドネシア料理店のほうも清掃を終えていた。二人は韓国料理店を離れると、美里は機構事務所へ、川嶋は警察署へもどることになった。
「これで、お別れですね」
「そうですね……。でも、おたがいがいまと同じ部署だったら、いずれまたいっしょになるかもしれません」
その予感は、美里にもあった。
「ではまた──」
* * *
「兄さん、だからこうなるって忠告しておいたのに」
「……」
「あの子を巻き込んだ……」
「それには、すまないと思ってる」
「これで眼をつけられた……」
「あの子は守る」
「もしものときは、おれが身代わりになるつもりだよ」
「……いや、それは私の役目だ」
「これだけは約束してくれ。あの子に、おれが本当の親であることは──」
「わかった……死んでも言わない」
「ミリは、おれのことを恨むだろうか……」
ヘイトの嵐 てんの翔 @sashika
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます