第11話

『そいつが日本人だったので、不俱戴天の仇と思い、血が騒いだ。蹴り倒し、凍った川に投げ捨てた』 キム



       11


 インドネシア料理店を出てからは、いったん別行動をとることになった。

 美里は、機構事務所へもどることにした。

「お、うかない顔だね」

 入って早々、渋谷に声をかけられた。

「ええ、まあ……」

「それならこれを観て、元気でもだそうか」

「え?」

 渋谷は携帯の画面を差し出した。そこに映っていた動画は……。

「え!?」

 一瞬で、イヤな汗をかいた。

 映っていたのは、美里自身だ。

「これ……」

「きれいに映ってるよ」

「やめてください!」

 昨日、佐川ジョーと鳴橋という男が撮影していた騒動での一幕だった。あれを投稿されてしまったのだ。

「あれ? 逆にヘコんじゃった?」

「あたりまえじゃないですか……」

「それは困った」

 むしろ、おもしろがっているようだ。

 美里は、恥ずかしさを忘れるために、今回の件を考え込んだ。

「そんなことより──」

 日本人と韓国人のヘイト合戦。しかも、双方ともが姿を隠してしまった。

 動画のことから意識をそらすためにも、報告がてら、これまでの流れを渋谷に語った。自分の心を整理する意味でも、口が饒舌に動いていた。

「もしかしたら……」

 新たなる落書きについても説明した。

「犯人は、警察官なのかもしれません……」

 もちろん、確証はない。だがあの様子では、川嶋はそれを疑っているようだ。

「警察官は、愛国者になりやすいからね」

 あっさりと渋谷は、それを受け入れた。

「ヘイトの根源は、愛国心かもしれないね」

 妙に含蓄のある言葉だと感心した。

「とくに日本は」

「韓国はちがうんですか?」

「あの国は、反日ということでは、右も左もないよ。まあ、国民全体が日本を嫌いだからね。でも、右派と呼ばれる人たちのほうがマシだけど」

「いまは、右派の大統領なんですよね?」

「そうだね。だから良好になっているでしょ」

 そこの部分は、報道に接していればよくわかる。国際問題に関心のない人でも容易に理解しているだろう。前大統領のときは、それこそ断交してしまうのではと心配になるほど両国間は険悪だった。

「日本人には、ヘイト感情は理解しにくい。まあ、差別を日常的におこなっている日本人もいるにはいるけど……」

 渋谷は、ふくみをもたせていた。

 次の発言を、美里は表情でうながした。

「むかしから朝鮮人差別は確実に存在していた。有名なところでは関東大震災の、朝鮮人が井戸に毒を入れたってやつだね。もちろん、そんな事実はなかった。でもそれを信じて……」

「それ、本当にあったことなんですか?」

 そのデマが原因で、大勢が殺害されたという。

「あったみたいだね。その前後にも、各地で朝鮮人の虐殺はおこなわれてたみたいなんだ」

 衝撃的な内容だ。たとえ百年前だとしても……。

「不逞鮮人という言葉があったそうだよ。不逞は、法律を守らないような人たちのことで、鮮人は、朝鮮人の蔑称。不逞な朝鮮人には、どんなことをしてもいいんだっていう社会的風潮があったんだって」

「……その風潮に流されたってことなんですか?」

「皮肉だよね。反日正義──反日のためならなにをしても許されるという風潮が、いまの韓国にはあるんだ。仏像問題は知ってるだろう?」

「はい」

 対馬のお寺で、とある仏像が盗まれた。犯人は、韓国の窃盗グループだった。そのグループは韓国で逮捕されたのだが、犯人たちは「かつて日本が盗んだものを取り返しただけだ」と主張した。事実、仏像は韓国──朝鮮半島でつくられたものだった。

 そして結局、その仏像は現在にいたるまで日本には返却されていない。日本が過去に盗んだものだから返す必要はない、と裁判所が判断したからだ。ただし、盗んだという証拠はどこにもない。ただの憶測だけで、そういう裁定をくだしている。

 その根底にあるのが、反日正義という考えなのだろう。

「窃盗犯は、一種のヒーローのようにあつかわれているからね。日本に一泡吹かせたから、痛快な気持ちがあるんだよ。あの国の法は、国民情緒法と呼ばれているからね。法律書に記されていることよりも、国民感情のほうが大切なのさ──いや、話がそれたね」

 渋谷はそこで、深呼吸のように息を吐きだした。

「まあ、ぼくが言いたいのは、大むかしの日本にも似たような考えがあったということだよ」

 だから、皮肉という前置きがあったのだ。

「なんだか、そういう感情って、根深いですよね……」

「そうだね。でもそれは、日本と韓国の関係だけじゃないよ。在日差別以外にも、差別はあるよね」

「え? ほかの国への外国人差別ということですか?」

「日本には、あまり外国人差別はないよ。差別というより、区別だね。外国人だからといって毛嫌いする日本人のほうが少ないだろう?」

 たしかに言葉が通じないから話しかけようとはしなくても、だからといって嫌いっているわけではない。

「たとえば、部落差別。年配の人には、いまだに根強く残ってる」

「聞いたことはありますけど……」

 正直、まったくイメージもわかない。同世代でその話題になったことはないし、関心をもっている知り合いもいなかった。

「いまの五十代でも、よくわかってない人のほうが多いぐらいだろうね」

「同じ日本人を差別していたってことですよね?」

「そうだね。さかのぼれば、平安時代からあったんだって」

 そんなに根の深い問題であることは、知識として頭に入っても、感情的に理解するのは無理だった。

「世界のなかで差別が少ない国民であっても、やはり差別は存在する……なくならないってことだね」

 身も蓋もない結論だった。

 それでは美里のやっていることに、なんの意味があるのだろう。

「……韓国のほうは、どうなんですか? 日本は関係なく」

「日本人へのヘイトはお察しのとおり異常だけど……ほかの外国人へも、相当なものだよ」

 聞いてガッカリした。

「だから日韓問題の場合、むこうに譲歩を求めるのは難しいだろうね」

 当麻も語っていたことだ。

 なにか問題が生じたとき、折れるのは日本人になる。でなければ、そのトラブルが解消することは難しい。

「むこうは絶対に非を認めない。あやまらない。頭をさげない……彼らにとって、それは永遠の従属を意味する」

 オーバーな表現のような気もするが、確信をついている部分でもあるのだろう。

「日本は、あやまった……歴史的にあやまるしかなかったんだろうけどね」

 敗戦とは、そういうものだ。

「ま、韓国も日本人として戦ったんだけど……いまさらそれを言っても仕方がない。とにかく日本は韓国にあやまった。彼らにとってみれば、あやまった日本は、われわれの下につかなければならない──そういうこと」

 日本人のように「水に流す」という感覚はない。日本は、むしろ許す文化だ。

 水と油。

 日韓の問題は、美里の努力だけで解決できるものではない……あらためて思い知った。

「で、これからどうするつもり?」

「……川嶋さんの捜査に協力しながら、落書きの件も解決するつもりです」

 それは美里の意志どうこうの問題ではなく、やらなければならないことだ。それがイヤなら、この仕事を辞めるしかない。

「まあ、気負わないことだね。警察の案件は、あくまでも警察が解決することだ。新井さんは落書きをどうにかするだけでいい。それにしたって落書きも犯罪だから、警察にまさかせてしまっても、だれからも責められないよ」

 美里は、困ったように笑顔をみせた。それでは結局、全部を警察にまかせてしまえばいい──そうなってしまう。

 このモヤモヤした気持ちをだれかに吐き出したかった。渋谷や川嶋ではだめだ。仕事でなく、プライベートで聞いてくれる相手でなければ……。

 一人の顔が浮かんだ。

 連日押しかけたら、それこそ迷惑に思われるだろう。

「どうかした?」

「あ、いえ……」

 行くにしろ行かないにしろ、まだ営業前だ。開店はバーにしては早いが、午後三時からということだった。

 事務所内に静寂がおとずれたタイミングで、電話機が音をたてた。

 渋谷が出ると、すぐに受話器を美里のほうへ差し出した。

 受け取って出てみると、相手は藤森だった。

『あまり、捜査のほうには首を突っ込まないほうがいいかもしれない』

 唐突に、そんなことを言い出した。

「どうしてですか?」

 当然のごとく、美里は理由をたずねた。

 そもそも警察の捜査に協力することになったのは、藤森の指示だったはずだ。

『あなたのやるべきことは、日韓のヘイト問題を解決することだ。犯人を捕まえることではない』

「ですが、そのためには──」

 反論を言おうとしたが、あっさりとさえぎられた。

『いいですね。深追いはしないように』

「捜査には協力するな、ということですか?」

『そうではありません。ですが、そちらのほうはべつの人間が動いています』

「?」

 川嶋のことだろうか?

 だが、いまの言い回しでは、藤森の配下のだれかが動いているという意味に聞こえる。藤森の所属が外務省のどこなのか確証がないから、その意図を判断できない。

『あなたの位置はまちがっていない。そのまま進んでいけばいい』

 藤森がそう告げると、通話は終わった。

「……」

「なんだって?」

 渋谷が興味深そうに声をかけてきた。

「あまり警察の捜査には首を突っ込むなって……」

「ふうん」

 途端に熱が冷めたような返事がもどってきた。

「官僚のそういう忠告には従わなきゃね。触らぬ神になんとやらだよ」

 想像とはちがって、渋谷は事なかれ主義だったようだ。

 だが、そんなことより引っかかることがあった。

「藤森さんは、官僚なんですか?」

 素朴に思った。

「そりゃそうだろ。ここの設立に関係してるなら、かなり上のポストになると思うけど」 

 たしかにそのとおりだ。美里のような、いち職員とは立場がちがう。だが、どういった人物なのか大まかな経歴すらわからないから、そういう想像もしたことはなかった。

 午後二時ごろまで、少したまっていた報告書をかたづけた。

「では、出掛けてきます」

「頑張ってね」

 美里の行動は、すべて自主判断にまかされている。上司からの指示はないし、どう動いても怒られることはない。いってしまえば、ずっと事務所にこもっていても、だれからも文句は出ない。逆に、ずっと外出していても大丈夫なのだ。

 報告書として一応はあげているが、それを検証されることもないから、美里がその気になれば、一日中サボることだってできる。

 あのバーに行くことが業務にあたるのか、自身でも微妙だ。いや……仕事とはいえない。それこそ、サボりに行くようなものだ。

 それでも、あの当麻と話がしたかった。

『パルガッタ』の前に到着したのは、二時半を少し過ぎたころだった。まだ営業は、はじまっていない。

「あ……」

 裏口のほうから当麻が出てきたところだった。

 声をかけようとしたが、それをおしとどめた。もうすぐ営業時間だというのに、店から出ていくというのが気になったのだ。

 瞬間的に美里は物陰に隠れた。当麻の様子がおかしい。周囲を気にするように歩いている。

(なんだろ……)

 美里は、あとをつけることにした。

 当麻は周囲を警戒しているものの、本当に尾行されているとまでは思っていないのか、素人の美里でもなんとか追跡することができた。

 ただし、自分の意思で歩いているわけではないので、いまここがどこなのか、よくわからなくなっている。

 いくつかの路地を抜け、大通りに一度も出ることなく、一棟のアパートに行き着いた。お世辞にも立派とはいえない。築何年になるか……とにかく古い建物だ。

 二階に上がって、ある部屋の扉をノックしていた。

 扉が開くと、なかから顔を出したのは女性だった。メイクと髪形の雰囲気から、韓国人であると美里は判断した。

 韓国人女性……川嶋の話にあった女性だろうか?

 だとすると……あの反日グループの拠点が、このアパートということになる。

 美里は、川嶋に連絡しようか迷った。しかしそれは、当麻を窮地に追いやることにつながってしまう。容疑者の逃亡を手助けしたと警察が判断したら、逮捕もありうるだろう。

 美里は、手にしかけた携帯をもとにもどした。

 当麻が部屋のなかに入って、数分が過ぎた。

 どうすべきか判断がつかず、美里はただアパートの見える位置に立ち尽くすことしかできなかった。考えようによっては張り込みをしていることになるが、それは結果でしかない。

 あの部屋をたずねてみようか……そんな衝動もうまれたが、実現する勇気はなかった。

 さらに数分が経ち、部屋から当麻が出てきた。

 美里のいる方へ歩いてくる。ドキリとした。

 急いで物陰に隠れた。

「おい、いるんだろ」

 うまく隠れたと思ったのだが、完全に見破られていた。

「つけてたのはわかってた」

「え?」

 美里は、隠れることをやめた。

「どうして気づいたと思う?」

「それは……」

 わたしの尾行が下手だから──それしかないだろうと、美里は考えた。警察官ではないし、特別な訓練をうけたわけでもない。

「そういうことじゃない」

 答えを察したのか、当麻は言った。

「……どういうことですか?」

 なにを伝えたいのだろう?

「おれが、そういうことのプロなんだ」

 ますます理解不能だ。

「なんのプロなんですか?」

「こういうことのだ」

 尾行の──そういうことだろうか?

「警察官……ということですか?」

「ちがう。あんたの同僚だ」

「え?」

 同僚? それはどういう意味だ?

 本気で困惑した。学生時代の同級生ということだろうか?

 しかし、それを「同僚」とは呼ばない。

 意味をそのまま吟味すれば、同じ職場にいる仲間ということになるだろう。かつてアルバイトしていたとき?

 ちがう。混乱した頭が、一つの答えを導き出した。

「あなたは……外務……」

 しかし、外務省に尾行を得意とするような職種はないはずだ。

「何者なんですか? なにをやってるんですか?」

「情報集めさ」

 当麻は簡潔に答えた。

 それでは警察の公安部のようではないか。

「あ……」

 ただ一つ該当する部署がある。

 国際情報統括官組織。

 外務省に存在する情報機関だ。ただし美里の知っているそれは、このような潜入活動をするわけではない。

「まあ、建前上はそうだな。ヒューミントはやらないことになってる」

 考えを伝えると、当麻はそう発言した。

「ヒューミント?」

「協力者から情報を得るやり方だ」

 それをしてしまったら、まさしく公安警察ではないか。

「監視活動も当然だが、やらない……ことになってはいるが、いまはそうも言っていられない。それだけ、日韓問題はヤバい方向に進んでるってことだ」

「……」

「なにかのはずみで、大きなことがおこるかもしれない。たとえば関東大震災のときのようなことが」

 その話のことは、ついさっき渋谷としてきたばかりだ。

「井戸のことですよね」

「そうだ。ヘイトがヘイトを呼ぶ。ただのそよ風だったのものが、疾風になり、暴風にまで発展するかもしれない」

 当麻の言葉を、どこか虚ろに聞いていた。

「嵐になったら、もう止められない……そのために抑止が必要なんだ」

 だからこんな潜入捜査のようなことをして、反日韓国人と嫌韓日本人を監視しているなんて……。

「他人事のような顔だな」

 指摘された。そんなことはない。あまりにも突飛な内容だったので、困惑しているだけだ。

「わ、わたしは自分の仕事をやるだけです……ですから、あなたとは立場がちがいます」

 同じ外務省の職員とはいえ、遠い存在だ。

「それがまちがってるんだよ」

「……どういう意味ですか?」

「あんたがいま所属している部屋は、外務省と法務省が予算と人員を出してくつられた機関だ」

 そんな基本情報なら当然、美里だって知っている。

「入管に出先機関として、そんなのをつくる理由は一つしかないだろう」

 当麻の言葉に、不穏な空気を感じた。

「それって……」

「そうだ。あんたも、そのために動いてるんだ」

 頭が真っ白になった。

「その様子だと、本当になにも聞かされてないんだな」

「じゃあ、藤森さんは……」

「情報統括官組織の韓国担当だ」

「……」

「いいか、彼らのことはおれにかませてもらう。あんたは、あんたの役目をつづけろ」

「役目ってなに? あなたや藤森さんは、わたしになにを期待しているの!?」

「日本人であり、韓国人の血をうけついでいるきみだからこそ、できることがある」

「やっぱり……そのこと知ってたんですよね」

「知らない。おれが韓国人を見分けられるのは本当だ。藤森さんがつれてきた人材だから、なにかあるだろうとは思っていたがな」

 もう当麻の言葉を信用できなかった。

「韓国側は、おれがうけもつ。あんたは、あの刑事と日本人のほうをあたれ」

「……」

「そっちの闇も深いんだ」

 当麻の声が、嵐のまえの生暖かな風を思わせた。

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