第12話
『支那人や朝鮮人に生れなくて、まあよかったと思った』 夏目漱石
12
制服を来た警察官が目撃されたということは、警邏中の地域課員である可能性が高い。つまり、交番勤務のおまわりさんだ。
あの管内の交番は、大久保通り沿いにある。英吾は、交番を少し離れた位置で眺めていた。
現在は二人の姿が見える。どちらも知らない顔だった。交番勤務とはいえ、出勤してくるときには必ず警察署に立ち寄っている。そこで着替えて、帰宅するときも署で私服に着替える。だから顔ぐらいは知っていてもよさそうなものだが……。
英吾の特殊な職務も原因かもしれない。ほかの部署どころか、刑事組織犯罪対策課のメンバーともあまり交流がないほどなのだ。
そのとき、自転車で帰ってきた警官がいた。その人物のことはよく知っていた。沢本という同期だった。襲われたキム・ユジュンを発見したとき、一番に現着した警官だ。
悪くいえば、典型的な公務員気質で、安定を求めて警察官になったような男だった。だから信念のようなものはないし、政治思想、ナショナリズムのような面倒なものからは、最も遠い存在といえる。
英吾は、交番に近づいた。
沢本のほうから声をかけてきた。
「おお、川嶋」
「よ」
いかにも偶然通りかかったように、演技しておいた。
「捜査中か?」
「まあ、そんなところ」
「おまえの係は、外国人を取り締まるんだっけ?」
「ああ」
「昨日も大変だったな、おたがい」
「そうだね……」
英吾の仕事より、交番勤務のほうがよっぽど激務だ。
「勤務時間はどうなってるの? こっちはシフト制じゃん。休みは確実にもらえるけどさ、夜勤の次の日がきつくて」
「おれのほうは、事件がなければお役所勤務だよ」
同期にだけは、「おれ」になってしまう。
「いいなぁ、うらやましいなぁ!」
学生のように沢本は声をあげていた。交番内にいた二人が何事かと顔を出していた。そのうちの一人はあきらかに先輩だったが、無駄話をしていても厳しくはしないようだ。そういう教育は、個人差が大きい。英吾が交番勤務だったときも、やさしい先輩にあたることのほうが多かった。
厳しい人は本当に厳しいから、若手にとってだれにあたるのかは重要な問題だ。
「あとこっちは、急な呼び出しも多いだろ。昨日だって、ほんとは非番だったのに、人手がたりないから臨時で入ってたんだぜ。これから夜勤だし……かわってくれよぉ」
「でもおれのほうも、いまはなかなか面倒な事件を抱えてるんだ」
「面倒なのかぁ……それならやっぱ、シフトがいいかぁ」
そう嘆きながら、沢本は笑った。
「あ、そうそう……ここの管内にあるインドネシア料理店を知ってる?」
「え?」
英吾は、細かい場所を説明した。
「あったかな、そんな店……まあ、東南アジア系の店も多いから」
「看板の文字は、ハングルで書かれてるんだけど」
そう教えてもピンときていないことは、あきらかだった。
「その店がどうかしたのか?」
「ちょっとした落書き騒動があってさ」
英吾はわざと大きめに声を出していた。交番内にいる二人にも聞かせるためだ。
もし犯人が警察官だとすれば、一番に疑うべきは、ここの人間ということになる。管轄外の警官ということも考えられるが、担当地区以外をうろつくのは勇気が必要だ。
ベテランの制服警官が、また顔を出した。どうやらこちらの会話に興味があるわけではなく、たんに外の様子を眺めようとしているだけのようだ。英吾も交番勤務のとき、べつにやることのないときは出たり入ったりして足を動かしていた。退屈をまぎらわせるためでもあるのだ。
もう一人──同年代の制服警官は、英吾の角度からは見えなかった。
「面倒な捜査って、落書きのことなのか?」
「まあね」
「お気楽な部署だな」
「いや、これでも大変なんだよ。外国人が相手だと文化がちがうし、言葉だってなかなか通じない」
「ふーん」
仕事の苦労話には興味がなさそうだった。
「ほかに外国人の店が狙われてるって話はないか?」
「……とくにないけどな。落書きの苦情なら日常茶飯事だけど、外国人の店ってのは」
そこで、ベテランの制服警官が声を挟んだ。
「外国人だと警察に訴えないことが多いんじゃないかな」
たしかに、それはある。
不法滞在でもない、ちゃんとした外国人でも警察沙汰になることを嫌がる傾向にある。
「もしあれだったら、見回りを強化しておくよ」
ベテラン警官は、そう言ってくれた。
「ありがとうございます」
英吾は沢本に手で挨拶してから、ベテラン警官にも頭をさげた。
立ち去るように歩きながら、交番内を覗き込んだ。同世代のもう一人は、奥で立ったまま入口のほう眺めていた。
眼があった。
「じゃあ」
もう一度あらためて沢本に声をかけると、今度は本当に立ち去った。
署に帰ると、生活安全課の同期に話を聞いた。その同期は、少しまえまであの交番に勤務していたのだ。
ベテランのほうが、佐々木。
同世代のほうが、岸というらしい。
英吾は、岸についていろいろたずねようとした。しかしその同期は、岸のことをほとんど知らなかった。勤務中に話をすることはなく、プライベートなことはおろか、警察官としての適性などもわからないという。
とにかく静かで影が薄い男──そういう評価しかないという。それがあやしいのか、と問われればそんなことはない。しかし、あの三人のなかであたりをつけるのなら、彼になるだろう。もちろん、あの三人とはちがうシフトの警察官である可能性もある。あるのだが……。
交番内で彼と眼があったとき──挙動不審な色がやどっていた。
犯罪者の眼に似ていた……。
少ない経験でしかないが、率直にそう思った。
とはいえ、そんな思い込みかもしれないことを報告などできない。自身で調べていくしかないのだ。
深夜、例の交番を張り込んだ。岸が警邏に行く時間にあたりをつけていた。だが昨夜は夜勤ではないはずなので、もし彼が犯人だとすれば、勤務時間外にやったということになる。
自転車に乗った岸が出掛けていく。
英吾はあとを追った。しかし、自転車を追うのは簡単ではなかった。同じように自転車を用意しておくべきだった。尾行の経験がないから、そういうことまで頭が回らなかったのだ。
すぐに見失ってしまった。が、警邏するコースはだいたい決まっている。それに、彼について疑っているのは落書きだ。外国人の経営している──そのなかでも韓国人の店を見回ればいいのだ。それとも勤務時間にはなにもせず、警邏を続けるだろうか。
とりあえず、イケメン通りをめざした。見当たらない。ならば、べつの路地を……。
「ん?」
倒れている影がある。
制服警官?
ハッとした。すぐに駆け寄り、倒れている人物の顔を判別した。
岸だ。
「大丈夫ですか、岸さん!?」
意識はない。出血はないようだが、なにかしらの打撃を側頭部にうけたようだ。夜目にも腫れているのがわかる。
「岸さん!?」
もう一度呼びかけてから、救急に連絡した。次いで署にも応援を求めた。警官襲撃事件なのだ。ただ事ではない。
救急車の到着と、自転車の制服警官の臨場は、ほぼ同じだった。警官は、沢本と佐々木だった。
「こ、これは……」
二人は、絶句したようだった。
救急隊員が呼びかけても、岸の意識はもどらなかった。ストレッチャーで車内に収容された。
「ここはお願いします!」
佐々木と沢本は、周囲の捜索に向かった。犯人がまだ近くにいるかもしれない。現場の保存は、英吾がまかされた。
救急車が出発して数分後、二台の白黒PCと、一台の覆面が到着した。新署からの捜査員だ。
さらに数分遅れで、課長を乗せた車も到着した。警官襲撃となると大事件だ。おそらく、本庁の捜査一課もじきに到着するはずだ。
「川嶋、状況を説明してくれ」
そんな意図はないのだろうが、英吾が責められているような厳しい口調だった。
英吾は、岸を発見したときの状況を話した。
「偶然発見したわけではないのだろう?」
「はい……」
まだ確定していないことなので言うのをためらったが、どうして岸を尾行していたのかを告白した。
「岸巡査が、落書きの犯人だというのか!?」
警官襲撃でさえ、不祥事といえる事態なのだ。それプラス、警察官が軽犯罪とはいえ罪を犯している……首脳陣としては頭を抱えたくなるような困った案件だ。
「犯人の目星はついているのか?」
英吾は、首を横に振った。
「その顔だと、予想はついてるんだろう? まちがってても責めない。言ってみろ」
「……報告にあげていた反日グループかもしれません」
「昨夜の被害者か?」
「はい」
「だが、その韓国人と争っているのは、佐川という男ではないのか?」
「そうです……ですから今回の件とは関係ないのかもしれません」
しかし一連の出来事が、つながっていることも考慮しておかなければならない。いや、英吾の胸中には、その思いが強い。
もちろん、根拠があるわけではないが……。
たとえ、今回の件と佐川の件が無関係であったとしても、一つだけ言えることは、現在この街には、日本人と韓国人のヘイト問題が渦を巻いているということだ。
このままでは、いま以上の惨劇がおこってしまうかもしれない。
「この件は、おまえの手にはおえない。連続する事件だと断定されるまでは、いままでどおり捜査を続けてかまわんが……」
やんわりと、介入を拒否された。
強行犯係の聴取をうけてから、現場を離れた。ちょうど帰り際に、本部の捜査一課が到着したようだった。
英吾は、このことを新井に報告するべきかを思案した。関連性がはっきりしてからとも考えたが、そんな悠長な時間は残されていないかもしれない。
ヘイトの連鎖は驚くほどの速度で増大しているような気がする。
思い過ごしであってくれればいいが……。
新井には、いまおこってしまった事件の簡単な概要と、明日の十時にそちらの事務所に行くとだけメールをしておいた。
いまはまだ、嵐のまえの静けさだ。
これから凄まじい暴風が吹き荒れる──そんな予感が胸を不安にさせていた。
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