第13話
『われわれは日本と深い怨恨のなかに生きてきました。彼らはわれわれの独立を抹殺しましたし、彼らはわれわれの父母兄弟を殺傷しました。そして彼らはわれわれの財産を搾取しました。過去だけに思いをいたらすならば、彼らに対するわれわれの骨にしみた感情は、どの面より見ても不倶戴天と言わねばなりません』
13
憂鬱な気分で朝をむかえた。
あの当麻が、美里と同じく外務省の人間で、情報統括官組織に所属しているという。
しかも、美里もその一員なのだと……。
すべてが騙されているような気分だった。
今回のことだけではない……。
十七歳のときに、父親から韓国人でもあると告げられたときから、それが続いている。
「……」
この仕事から逃げ出したい心境だったが、そういうわけにもいかない。たとえ逃げたとしても、むこうのほうから追ってくる……そんな強迫観念にも似た考えが消えてくれない。
自分は、もう引き返せない位置に立っているのだ。
「どうしたの? 顔、こわいよ」
渋谷に言われた。機構事務所についてから、美里は無言だった。はたして、この人事のことを、渋谷は知っていたのだろうか?
確かめる勇気はなかった。
「ちょっと考え事を……」
ごまかす意味をこめて、時刻を確認した。十時に川嶋がここへ来ることになっている。
昨夜のメールでは、落書きの犯人かもしれない人物が襲撃されたと記されていた。
だんだんと事態が悪化している。
このまま、どこまで進んでいくのだろう……不安しかない。
時間ピッタリに、川嶋は到着した。
「おはようございます」
とってつけたような挨拶だった。声には、暗い感情が見え隠れしている。
「おはようございます」
同じ言葉を返した。
川嶋は、渋谷のほうを一瞥した。
「席をはずしましょうか?」
それに気づいた渋谷のほうから、そう言ってくれた。
「渋谷さんは、韓国の事情にも詳しいんです」
どんな話にしろ、重い展開になるだろうから、自分一人で聞く気にはなれなかった。
「わかりました」
川嶋は了承してくれた。
「では、こちらへ」
オフィスには、ほかに事務の女性しかいなかったが、面談室に移動した。
美里と川嶋はイスに座り、渋谷は立ったままだった。
「昨夜のメールのことなんですが……」
言葉に迷うように、川嶋は本題を語りはじめた。
「落書きの犯人が襲撃されたんですよね?」
「犯人かもしれない、というだけです。あくまでも容疑者の段階です」
釘を刺すように言った。
「その襲撃されたのは……」
「まさか……」
なかなか真相を口にしようとしない川嶋を見て、美里は答えを予想してしまった。
川嶋は、落書きの犯人をこう疑っていた。
「警察官……なんですか?」
「……はい」
重いものを吐き出すような声だった。
「今日中に、警官が襲われたと発表されるはずです」
ということは、わざと発表を遅らせているのだ。警察官が落書きの犯人かもしれないという不祥事が関係しているからか、それともべつの意図なのか……。
川嶋は、その事件の詳細を語ってくれた。第一発見者が川嶋自身だったようだ。疑いをもっていた警察官を尾行していたという。
「犯人は?」
「捕まっていません」
「ニュースにしなくて大丈夫なんですか?」
言ったのは、渋谷だった。
警察官を襲撃した犯人が逃走している状況なのだ。美里にも理解できる危惧だった。
「それは上の判断なので……。無差別の犯行ではないと思いますし……」
「それもヘイトの報復なんですね?」
「ぼくは、そう考えています」
つまり警察の上層部も同じ見解をしめしているということだろう。
「犯人は、例の?」
「そこまで断定はできませんけど……この街で渦巻いているおたがいの差別感情が背景にはあるはずです」
美里の脳裏には、当麻の顔が浮かんでいた。
彼のことを川嶋に伝えておくべきだろうか?
「どうしました?」
「あ、いえ……」
おしとどめてしまった。藤森の注意があったからだ。警察の捜査には、あまり深入りしてはいけない……。
当麻の正体を知ったいまとなっては、少し理解できる。彼の動きの邪魔になってはいけない──そういうことなのだ。
「警察は、あの反日グループを追うことになるんですよね?」
「そうなるでしょう。警官襲撃は、重大事件です。もうぼくのような部署ではなく、本格的に捜査一課が出てくることになる」
すぐにグループは拘束されるだろう──美里には、そのような意味に受け取れた。
当麻は、このことを理解しているのだろうか?
「川嶋さん、でしたよね?」
渋谷が言葉を挟んだ。
「はい」
「反日韓国人グループによる『テロ』と認定される可能性もあるんじゃないですか?」
「テロ……ですか」
川嶋は、そこまで想定していなかったようだ。たとえヘイトの連鎖という単純な動機だったとしても、警察官を襲うという行為は、そういう意味にとられても不思議ではない。
「そうですね……そうなるかもしれない。そうなると、刑事部だけの話じゃなくなる」
美里はそういったことに詳しいわけではないが、公安部や対テロ部隊などの出動もあるのだろうか。
「これから川嶋さんの捜査は、どうなるのですか?」
「警察官襲撃に関しては、タッチできません。佐川ジョーへの傷害と、キム・ユジュンとミンジュンの傷害事件の捜査を続けます。もちろん、それらの事件と警官襲撃が関係していると判明したら、しかるべき部署に引き継ぐことになりますが」
堅苦しく語った。最後のほうは、どこか申し訳なさそうになっていた。
「落書きについては、どうなりますか?」
「難しいところです。もはや軽犯罪あつかいできるものではなくなりました。でも、調べないわけにはいかない」
警官襲撃には関われないが、落書きの捜査ならできる、ということのようだ。
美里が今回の件で動くことになったのは、落書き騒動からだ。最初の原点にもどるべきなのかもしれない。そのあとに続くヘイトの連鎖については、いまは考えないことにする。
まずは、韓国料理店の落書きと、インドネシア料理店の落書きの犯人が同じなのかを検証するべきだ。
美里は、そのことを川嶋に伝えた。
「そうですね……」
「襲われた警察官が落書きの犯人だというのは、まちがいないんですか?」
渋谷が、そこを指摘した。
「いえ、まだそれもわかっていません」
「その警察官は、なんと言ってるんですか?」
「まだ聴取はしていないんです。今朝早く、意識がもどったそうですから」
しかし、もどったのなら、いずれ聴取はおこなわれるだろう。
その考えを見抜いたように、川嶋は続けた。
「もしかしたらいまごろ、はじめてるかもしれません」
「川嶋さんは、立ち会えないんですか?」
それには力なく、はい、と答えていた。
「……でも、行ってみますか?」
思いがけない言葉だった。
「大丈夫なんですか?」
警察は役割分担が明確にされているだろうから、その係でない者が近づくのを嫌うのではないだろうか。
「ぼくの部署は、外国人のからんだ雑用係のようなものなので、でしゃばらなければ怒られることはありません」
そういう話の流れで、病院へ向かうことになった。渋谷を残し、美里と川嶋の二人は、中野区に位置する警察病院へ向かった。
その道中、警察病院というものが、美里のイメージしていたものでないことを教えられていた。
「警察官や犯人を治療するための病院じゃないんですか?」
「ちがいます。むかしは警察組織の関連団体が資金を出して建てられた過去があって、新井さんの言うとおりの病院だったらしいですけど、いまは普通の民間病院です」
「じゃあ、事件関係者だけが入院しているわけじゃないんですか? よくドラマで観ますけど」
「ほとんど一般の患者です。窓に鉄格子もはまってません。中野区を管轄する警察署だったら、ここを利用することが多いのかもしれませんね。ほかは、最寄りの病院に入ります」
たしかに、これまでの事件関係者は、すべて周辺の病院だった。だが、今回の襲撃された警察官が警察病院にいると聞いたとき、やっぱりそういうものなんだ、と納得してしまったのだが。
「とはいえ、警護になれているのも事実でしょうから、今回のように離れていてもつかわれることはあるみたいですけど」
廊下のさきに、制服警察官が立っていた。病室は、そこになるらしい。
近づくと、川嶋は警察手帳をみせた。
「いまは、本庁の方が聴取をしています」
まだ十代に見える若い制服警官は言った。
川嶋は、判断に迷うように病室のドアをみつめた。
彼が瞳を離すまえに、扉は開いていた。
本庁の捜査員ということなのだろうか、二人の男性が病室から出てきた。その奥でベッドにいる男性の姿も見えたが、すぐに扉は閉じてしまった。あれが問題の警察官なのだろう。
「ん?」
出てきた二人のうち三十代後半ぐらいの男性が、怪訝な表情で川嶋を見ていた。次いで、美里の姿も視界に入れたようだ。
「あなたたちは?」
「新署の川嶋といいます」
「新署? ああ、そう呼ぶんだ。うちらはニセ新宿って言ってる」
「は、はあ……」
それは嫌味だったのだろうか。
もう一人の二十代だと思われる刑事も、不快そうな視線をみせていた。
「捜査会議にはいなかったよね? 帳場に入ってる?」
三十代のほうが言った。
「い、いえ……」
「この件は、うちでやるってことになってるはずだよ」
警官襲撃、しかもその被害者がヘイトの落書きをしていたということを警察は重くみているのだ。
「監察もからんでるから、へたに動かないほうがいいよ」
この刑事は、べつに縄張り意識から忠告しているわけではないようだった。最初の言葉も、嫌味ではなく、軽い冗談のつもりだったのだろう。
「少しだけでも聴取させてもらえませんか?」
川嶋が、それでも願い出た。
「うーん……」
刑事は深く考え込んだ。
「そっちの女性も、新署の人? 警官っぽくないけど」
「あ、いえ……」
美里は、あわてて身分をあかした。
「私は、出入国在留管理庁ヘイトクライム対策機構の新井といいます」
名刺を渡して、自己紹介した。
「新井美里さん……在留って、入管のことですよね? どうして入管が?」
「は、はあ……」
説明すると長くなってしまう。できれば、流しておきたかった。
「入管は、法務省だよね?」
「あ、いえ……所属は外務省です」
そこは曖昧にしてもいいとろことなのだが、性格上、きっちりと説明してしまった。ここも流せばよかったのに。
一般的には、出向している時点で、その出向先の所属に変わると思うが、美里は外務省の身分のままなのだ。
「外務省の方と捜査ねえ……」
三十代の刑事は、好奇心に満ちた眼を向けていた。
「ま、うちらの邪魔をしなきゃ、べつにいいかな」
「横山さん!」
二十代のほうが、非難の声をあげた。
「まあ、いいじゃん。省庁がからむと、面倒なんだよ。まえにも厚労省ともめたことがあるんだけど、そういうときは譲歩するのが楽なんだわ」
ざっくばらんな感じで、横山と呼ばれた刑事は言った。見た目の印象とはちがい、ずいぶん砕けた人物のようだ。
「勝手に聴取されるのは困るけど、いま聞いた話ならしてやるよ」
「まずいですって!」
若手のほうが石頭らしい。横山はその声を受け流して、歩き出した。ついてこい、という意味のようだ。
病棟を出て、中庭に行き着いた。あいていたベンチの前で立ち止まった。横山の表情から、そこに座ってください、と解釈することができた。
それに甘えて、美里は腰をおろした。川嶋は立ったままだ。刑事二人も、立っていた。座っている美里と、立っている三人が向き合うかたちだ。
「で、なにが聞きたい?」
「岸巡査は、犯人についてなんと言っていましたか?」
川嶋が質問した。
「犯人の顔は見ていないそうだ」
「人相などは?」
「それもわからないらしい」
若手刑事が、舌打ちまじりに口を挟んだ。
「情けないやつだ。不意をつかれて襲われるなんて」
「まあ、そう言うな。いくら警察官でも闇夜で死角をつかれれば、どうにもならん」
横山が、かばうような発言をした。
「あの、落書きについては聴取していますか?」
「あ? ああ、それについては指示があったから質問した」
「彼は認めましたか?」
「いや、黙秘された」
「え?」
やましいことがなければ黙秘などしないだろう。
「それ、本当なのか? 制服警官が落書きするとは思えんのだが」
一般常識ではあたりまえのことを横山は言った。しかし、警察官がおこす犯罪も多いのが実情だ。もっと大きな罪で逮捕されたニュースを、このごろよく眼にする。
「あ、いや、そういうことじゃなくてだな」
横山は、美里の表情から読み取ったのか、続きを語った。
「落書きなんてチンケなことをするぐらいなら、もっと直接的な嫌がらせをするんじゃないか?」
美里の予想した考えとはちがう観点からの見解だったようだ。
「警官なら、ほかに効果的な方法があるだろう? たとえば過剰に店に立ち入るとか。周囲にいるだけで、なにかあったんじゃないかと、客が遠のく」
川嶋が言い返さないところをみると、その意見は的を射ているようだ。それとも本庁の人間に反対できないだけだろうか。
「あの……、あまり目立ちたくなかったんじゃないでしょうか? ほかの警察官に嫌がらせしているのを知られたくなかったんじゃないですか?」
かわりに美里が言葉を挟んだ。
「そうかもしれませんね」
横山は、あっさりと認めた。
「でも、落書きなんて効果あるんですかね」
やはり落書きという嫌がらせの方法には疑問をもっているようだ。
「ま、そのことは、きみたちにまかせるよ。こっちの邪魔をしなけりゃ、好きに調べてくれ。ほかに聞きたいことは?」
「いえ、ありがとうございました」
川嶋が礼を言って、頭をさげた。美里も、おくれて同じようにあわせた。
病院を出て、川嶋は難しそうな顔で思案していた。なにか言葉をかけようか迷っていたところに、川嶋のほうから声をかけてきた。
「どう思いますか?」
「落書きのことですか?」
「はい」
「……黙秘しているということは、やましいことがあるからですよね?」
美里は、思ったままを答えていた。
「そうですね……」
しかし、川嶋が判断をつきかねているというのは、確かめなくてもあきらかだった。
「川嶋さんは、落書きの犯人ではないと考えているんですか?」
「そういうわけではないです」
曖昧な回答だった。そもそも最初に疑ったのは、川嶋だったはずだ。
「では、そこの部分をはっきりさせましょうよ」
美里は提案した。
「そうですね……でも、なにをすばいいのか」
「同じ交番の人に話を聞くとか」
「それもダメだと思います」
スマホやパソコンを調べれば、思想などはわかりそうだが、当然それもムリだろう。
警察官を襲撃したかもしれない韓国人グループは当麻がマークしているので、いまは近づかないほうがいい。
あと残っているのは、日本人の二人だ。しかし、佐川ジョーの行方はわからない。
「入院している男性に話は聞けますか?」
「鳴橋忠司ですか?」
美里はうなずいた。
「そっちも一課が動いているかもしれませんが……とりあえず、行ってみましょう」
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