さようなら、私の愛しい御方。どうかおげんきで。7



 夜空に月が昇る刻。

 今夜は三日夜餅みかよのもちいの二夜目でした。

 私は萌黄の寝床を整えると、そのまま黒緋の床の間に向かいました。

 黒緋が萌黄を夜這よばいする前にどうしても伝えておきたいことがあるのです。


「黒緋様、少しよろしいでしょうか」


 御簾みす越しに声をかけると「入れ」と許可されます。

 私は深く呼吸し、御簾みすをめくって黒緋のいる床の間に入りました。


「どうした、何かあったのか?」

「はい、話があって参りました」


 居住いずまいを正した私に黒緋が眉を上げます。


「そんなかしこまってどうしたんだ」


 黒緋がいぶかしみました。

 でも私は床に手をついて頭を下げます。そして。


「――――私は明日、都を出ようと思います」

「……なんだと?」


 黒緋の反応が一瞬遅れました。

 黒緋は顔をしかめ、まるで信じがたいものでも見るように私を見つめます。


「ど、どういうことだ。突然なにを言い出すんだ」

「もう決めたことです。明日、私は都を出ます」


 私は顔を上げて黒緋をまっすぐ見つめました。

 そう、私は決意したのです。

 萌黄の覚悟に恥じぬ決意を。もう誰も苦しまなくていいように。


「待てっ。なぜそんなことを言う。俺の側にいると言っただろう」


 黒緋は動揺したように言いましたが、私は首を横に振ります。


「天妃は見つかりました。私の役目は終わったんです」

「紫紺と青藍はどうする! 俺とお前の子どもだ!」

「……置いていきます。大丈夫、萌黄がいます。萌黄ならちゃんと可愛がってくれます」


 顔が少しだけゆがみました。

 紫紺も青藍も私の子どもです。悲しくないはずがありません。

 でも、もう決めたのです。

 だってここに私がいる理由はありません。

 これ以上ここにいれば萌黄を苦しめます。黒緋だって苦しむ萌黄を見て私をいとうようになるかもしれません。

 私の存在はいずれ黒緋と萌黄を苦しめるのです。

 私はまた両手をついて深く頭を下げました。


「今までありがとうございました」


 私は静かに別れを告げました。そう、心をち切るように。

 ゆっくりと顔を上げて立ち上がります。

 決意がゆるまぬうちに黒緋の前から立ち去りたい。

 立ち去る際、黒緋を視界に映さないようにしました。

 黒緋の姿を見てしまったら決心がにぶってしまう。そんな情けない真似はしたくありません。

 私は黒緋に背を向けて歩きだしましたが、その時。


「えっ? きゃああ……!」


 背後から手を掴まれたかと思うと、強引に引き倒されました。

 背中を打ち付けて顔をしかめてしまう。


「痛いですっ。黒緋様、いったいなんですか……!」


 思わず声を荒げました。

 でも私におおいかぶさった黒緋を見上げて青褪あおざめます。


「黒緋さま……?」


 声が掠れました。

 今、黒緋の目が獲物を狙う猛禽類のように爛々らんらんとし、射貫いぬくような鋭さで私を見据えていたのです。

 それは今まで見たことがない顔でした。

 怖い。漠然ばくぜんとした恐怖が背筋をいあがる。


「は、離してください!」


 私は逃げようとしましたが、振り上げた手が強い力で掴まれました。

 手を床にい付けるように抑え込まれ、顔を至近距離に寄せられます。


「離さない。離せばお前はどこかに行ってしまうんだろう」


 黒緋が低くそう言った次の瞬間、唇が強引に塞がれました。

 突然の口付けに大きく目を見開く。


「ぅ、ん……ゃ」


 無理やり舌をじこまれ、口内をむさぼるように蹂躙されます。

 怖くて引っ込んだ舌を強引に絡ませられ、唾液すらも吸い上げられ、それはまるで食べられてしまうかのような口付けでした。

 飲みきれなかった唾液が口端からこぼれ、それをめられてまた深く口付けられます。

 抵抗したいのに押さえつけられた腕はぴくりとも動かせません。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る