はじめての赤ちゃん、その名は紫紺。6


 紫紺が生まれてから慌ただしい日々が始まりました。

 生後一日で寝返りをした紫紺は、それから十日ではいはいするようになりました。自由に動き回る紫紺を追いかけるのが大変でずっと目が離せませんでしたよ。

 そしてはいはいから伝い歩きをするようになるまで五日ほど。視界が高くなるのが面白いのか紫紺は一人で何度も立ち上がろうとしていました。

 そんな利発な子なので伝い歩きから一人で歩きだすのもそれほど時間がかかりませんでした。

 そして紫紺が生まれてから一カ月。

 よちよち。よちよち。上手なよちよち歩きです。


「紫紺、上手ですよ。上手に歩けています」

「あうあー、あー」


 紫紺は寝殿しんでん渡殿わたどのをよちよち歩きまわっていました。

 まだふらふらしていますが一人で歩けることが嬉しいようでした。


「黒緋様、見てください。紫紺がこんなに歩けるようになりました」

「ああ、たいしたものだ。上出来だ」


 黒緋も嬉しそうによちよち歩きの紫紺を見ています。


「紫紺、こちらですよ。こちらに来てください」


 私が両腕を広げると、紫紺がこくりっと頷いてこちらに向かってきます。

 よちよち、ふらふら、よちよち、ふらふら。

 紫紺は小さな両手を私に向かって伸ばしながら歩いてきます。

 そして私のところに到着すると、ぎゅ〜っとしがみついてきました。


「よく出来ました。紫紺は上手に歩くんですね」


 紫紺がこくりっと頷いて私を見つめます。

 どうしました? と優しく見つめると、私をじーっと見つめて。


「……。……うういしゅ」

「え?」


 私は目を丸めました。

 今、紫紺が『うういしゅ』と言ったような……。

 私は黒緋と顔を見合わせました。彼も驚いた顔をしていて、二人して紫紺にめ寄ります。


「紫紺、さっき『うういしゅ』と言ったのですか? それはもしかして私の名前っ……」

「うういしゅ」

「っ、やっぱり! 黒緋様、この子『うういしゅ』って言ってますっ。これって鶯です! 私の名前です!」


 感極かんきわまって紫紺をぎゅっと抱きしめました。

 紫紺はれくさそうにはにかみながら私を見つめています。

 つぶらな瞳に私が映っています。一心に私を見つめ、私の衣装をぎゅっと握りしめて。


「あなたに名を呼ばれることがこんなに嬉しいなんて」

「うういしゅ、あーうー」

「はいはい、鶯ですよ。そしてこちらがあなたの父上です」


 黒緋に向き直させました。

 黒緋も改まった表情になると、「お前の父上だ。黒緋だぞ」と言葉をかけてくれました。

 でも紫紺はきょとんとした顔で見つめたままで。


「あう?」

「……まだ難しかったようだな」

「そうですね。『父上』ですから」


 私と黒緋は顔を見合わせて小さく笑ってしまいました。

 もう少し時間がかかりそうですね。

 まだ生まれて一カ月なのです。これからいろんなことを学んでゆっくり成長していけばいいのです。

 でも黒緋は紫紺を頼もしそうに見つめました。そして。


「成長は順調だな。あと少ししたら初めてもいいかもしれん」

「始めるってなにを」

「決まっているだろう。鍛錬たんれんだ。紫紺を誰よりも強くする」

「ええっ、まだ早くないですか? 紫紺はまだこんなに小さいのにっ……」

「早ければ早い方がいい」


 黒緋は当然のようにそう言うと、私の腕のなかにいた紫紺を抱き上げました。

 紫紺を追いかけるように手を伸ばしましたが、その手は届かずに空を切る。

 黒緋は紫紺を抱き上げて遠くを見ていたのです。ここではないどこかを。


「黒緋様……」


 小さな不安を覚えてその名を呼びました。

 すると振り返ってくれてほっとします。

 黒緋は優しい眼差しで私を見つめてくれたのですから。


「鍛錬、始めるんですね……」

「ああ、強い子どもが欲しいと言っていただろう?」

「はい……」


 そう、黒緋は最初から強い子どもが欲しいと言っていました。

 どうして強い子どもを欲しているのか分かりませんが、黒緋が真剣だということだけは分かります。

 私はなにも言えなくなってしまう。

 どうやら私は浮かれていたようです。紫紺が生まれてから、黒緋と私と紫紺の三人ですごすのがとても楽しかったから。夢みたいに楽しかったから。

 でも、私にはせねばならないことがあります。

 紫紺を強い子どもに育てること。

 鬼神を討伐して斎王を守ること。

 私は居住いずまいを正して床に両手をつきました。


「黒緋様、私も自分にできることを精一杯いたします。どうかよろしくお願いいたします」


 私が頭を下げると黒緋が頷いてくれます。

 紫紺は私と黒緋を繋いでくれた約束の存在。

 黒緋が紫紺を強くしたいというのなら私はそれを支えなければならないのです。







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